長内那由多のMovie Note

映画や海外ドラマのレビューを中心としたブログ

『猿の惑星 キングダム』

2024-06-17 | 映画レビュー(さ)

 20世紀フォックスのレガシーとも言うべき人気タイトル『猿の惑星』シリーズ最新作も、ディズニーの買収によって例外なく傘下20世紀スタジオからリリースされた。そう、この星を支配しているのは人間でもなければ猿でもなく、金を持ったミッキーマウスに他ならない。偉大なる名優アンディ・サーキスと監督マット・リーヴスによる前3部作(リーヴスが参加したのは2作目から)が目覚ましい成功を収めて間もないにもかかわらず、ディズニーは『スター・ウォーズ』同様、金のなる木に次の果実を実らせる必要があった。だが諸作同様、なんとも青にがく、不作である。『猿の惑星』シリーズの醍醐味とは時に薄ら寒くなるほどの風刺性であり、必ずしも親子で楽しめるファミリーアドベンチャーではないだろう。

 前作から数百年を経て猿たちの社会は細分化し、始祖とも言うべきシーザーの教えも曲解されていった。独自の文化を形成する小集落で生まれ育った若者ノアは突如、襲来したプロキシマス・シーザーの集団によって故郷を滅ぼされ、連れ去られた仲間たちの行方を追って旅に出る。ウェス・ボール監督の筋運びは必ずしも上手くいっているとは言い難く、ファミリーアドベンチャーに舵を切りながらランニングタイム145分は長い。ローマ史を学び、権威主義的社会を構築するプロキシマス・シーザーの造形にはプーチンのみならず、幾人もの権力者を思い浮かべる観客は少なくないだろう。もっと活かせるキャラクターであり、前3部作公開時にも増して混迷する現代社会を映した、より重層的な娯楽作を目指すこともできたハズだが、ディズニーは『猿の惑星』シリーズを退化させてしまっている。興行成績からはリブートとして及第点の評価を下されても、次作でその真価を問われることになるだろう。


『猿の惑星 キングダム』24・米
監督 ウェス・ボール
出演 オーウェン・ティーグ、フレイヤ・アーラン、ケビン・デュラント、ピーター・メイコン、ウィリアム・H・メイシー
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『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』

2022-01-09 | 映画レビュー(さ)

 1969年夏、世界がウッドストックに熱狂していた頃、そこから160キロ先のNYハーレムでも歴史的な音楽フェスティバルが開催されていた。若き日のスティーヴィー・ワンダー、ド級のマヘリア・ジャクソン、そして“アフリカの女王”とも言うべき絶頂のニーナ・シモンらブラックミュージックの大スターが集結し、延べ30万人以上を集客したと言われる「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」だ。しかし、今やその存在を知る者はほとんどいない。余す所なく映像に収めながらも、信じがたいことにそれから約50年もの間、陽の目を見ることはなかったのだ。公民権運動が盛んさを増し、ブラックパンサー党が武装蜂起を訴え、反戦運動とカウンターカルチャーが隆盛した時代に黒人の美しさと力を謳ったこの革命的フェスは文字通り“抹殺”されたのである。

 今年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞の最有力候補と目される本作は文化史的な意味でも非常に重要な1本だ。監督を務めたクエストラブは余計な演出はほとんど施さず、このライブを目撃した人々の証言と奇跡的にほとんど無傷だったというライブフィルムで構成し、僕達にこの歴史的瞬間を追体験させる。照明費を節約するため西側に向けて作られた会場で、陽の光を浴びながら熱狂する観客たち…ありのままを撮らえたフィルムからは白人ミュージシャンがブラックミュージックに薫陶を受け、リスペクトし、共存している姿を目撃する。そして大トリを務めるニーナ・シモンの圧巻のパフォーマンスに僕らはこの時、この場所で確かに革命が起き、今再びその夏の息吹が甦ることを知るのである。


『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』21・米
監督 アミール・“クエストラブ”・トンプソン
出演 スティーヴィー・ワンダー、B・B・キング、ザ・フィフスディメンション、マヘリア・ジャクソン、ニーナ・シモン
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『最後の決闘裁判』

2021-11-12 | 映画レビュー(さ)

 『最後の決闘裁判』は御年82歳、リドリー・スコットの巨匠の演出が堪能できる1本だ。一級のプロダクションデザインによって再現された城下町を活写するそれは絵画のように美しく、これぞ『グラディエーター』『キングダム・オブ・ヘブン』から続くリドリー史劇の醍醐味である。中でも軍馬が疾走し、蹄の音が内蔵を震わせる音響演出は劇場でこそ体感できるスペクタクルだ。

 ここには巨匠が熟練の技でフィルモグラフィをなぞろうとする惰性がない。14世紀フランス、騎士ジャン・ド・カルージュが妻マルグリットを寝取った従騎士ル・グリを告発し、神が裁定を下す決闘裁判に挑む。この史実を収めたエリック・ジェイガーの原作小説をマット・デイモン、ベン・アフレックが『グッド・ウィル・ハンティング』以来に共同で脚色し、演出にリドリーを指名したという。かつて決闘映画『デュエリスト』で監督デビューし、以後『エイリアン』『テルマ&ルイーズ』など強い女性を描いてきた巨匠に打って付けの題材であり、#Me too以後の時代へ呼応した同時代性がある。

 映画は事件のあらましをカルージュ、ル・グリ、そしてマルグリットの3者の視点から語り直していく。デイモン扮するカルージュは忠義に厚い豪傑。度重なる戦を経てついに騎士の称号を手にし、マルグリットを妻に娶る。しかし、戦友のル・グリが領主ピエール伯(軽薄さがハマるアフレック)に取り入った事から正当な恩賞を得ることができず、不満を募らせていく。
 方やル・グリは貧しい生まれながら武勇のみならず、知略を持ってのし上がってきた丈夫であり、その華が色事を知るピエール伯や世の女性を惹きつけた。そして腕は立っても知性に乏しいカルージュに苛立ちを覚え始めた彼は、マルグリットに好意を抱き、彼女もまた同じ気持ちであると信じて事に及ぶ。

 第3幕ではこれらの物語が全て覆される。カルージュは武骨ながら一途にマルグリットを愛した男ではなく、夜な夜な夫婦の床で妻を犯し続けた男だ。レイプの告発に怒り狂ったのはマルグリットを想っての事ではなく、所有物を傷つけられたプライド故に他ならない。おそらくこれまでのキャリアで最も知性のない男に扮したデイモンの巧演からは、この名優が新たなフェーズに入った事が伺える。

 そして横恋慕の末、マルグリットと欲望のままに結ばれたと信じているル・グリのそれはレイプに過ぎず、このグロテスクさこそアダム・ドライバーの真骨頂だ。デイモンとアフレックはこの第3幕の脚色に『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』『ある女流作家の罪と罰』の脚本家ニコール・ホロフセナーを招き、中世ただ一人の自由意志を持った女としてマルグリットを屹立させた。『キリング・イヴ』でも百面相を見せたジョディ・カマーにとって3者の主観を演じ分ける事など造作もなく、男たちの名誉と欲に翻弄されるカマーの抵抗は映画を力強く牽引した

 『プロミシング・ヤング・ウーマン』が過去の事件を描くことなく観客のモラルを揺さぶったのに対し、本作には2度レイプシーンが登場する。行為そのものを描写する事が果たして正しかったのかという批判もあるが、これが#Me too以後の男性作家の限界かもしれない。ハーベイ・ワインスタインの事件が明るみに出た当初、彼によって見出されたマット・デイモンとベン・アフレックにもどこまで実情を知っていたのか追及があったと記憶している。関与こそなかったもののアフレックはもちろん、デイモンにも素行や発言にやや難があった。本作はそんな男たちの内省であり、声を上げた女性たちへのリスペクトである。2人がフェミニストである巨匠スコットに本作を託した明晰さは今日のハリウッドが成し得る最良であり、今日時点の限界だろう。


『最後の決闘裁判』21・米
監督 リドリー・スコット
出演 マット・デイモン、アダム・ドライバー、ジョディ・カマー、ベン・アフレック、ハリエット・ウォルター
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『さよなら、私のロンリー』

2021-10-06 | 映画レビュー(さ)

 ミランダ・ジュライの新作『さよなら、私のロンリー』(原題Kajilionaire)は冒頭、エヴァン・レイチェル・ウッド扮する主人公オールド・ドリオが盗みを働く場面から始まる。防犯カメラをくぐり抜けていく姿は何ともユーモラスだが、これは『万引き家族』でリリー・フランキーが子供と一緒に万引きをするシーンと同じ意味がある。彼女はリチャード・ジェンキンス、デヴラ・ウィンガー演じる両親のもとで窃盗と転売を繰り返す“万引き家族”であり、その実行係なのだ。“オールド・ドリオ”という奇妙な名前はかつて宝くじに当たったホームレスに由来しており、我が子として微塵の愛情もかけられてこなかった事がよくわかる。彼らの住まいは化学薬品工場に隣接する古びたオフィスで壁からは終始、工場の廃液が漏れ出す。かれこれ家賃はもう3ヶ月滞納していて、大家からは文字通り身を隠す毎日だ。

 エヴァン・レイチェル・ウッドの性格演技に注目してほしい。髪は伸ばし放題、ぎこちない歩き方からはオールド・ドリオの抱える生きづらさが見えてくる。そしてびっくりするほど低い声でボソボソと喋る。僕は2014年にエヴァンが主演した『ベアフット』を思い出した。この映画でも彼女は心に傷を負ったヒロインを演じているが、そのアプローチは『さよなら、私のロンリー』と大きく異なる。エヴァンは可愛らしい高音で喋り、男にとって都合のいい、純真無垢な聖女を演じているのだ。

 かつて天才子役として登場し、その美貌と演技力で10代から活躍してきたエヴァンも、多くの子役同様に20代はキャリアを低迷させた。作品選びに精彩を欠き、何より19歳年上のマリリン・マンソンとの結婚は彼女の人生に大きな傷跡を残した。2021年、エヴァンはマンソンから度重なる虐待、洗脳を受けていたことを告白。時同じくして複数の女性からもマンソンによって同様の被害を受けていたと声が上がっている。

 そんなエヴァンのキャリアを復活させたのが2016年から始まったHBOのTVシリーズ『ウエストワールド』だった。マイケル・クライトンの原作小説をジョナサン・ノーランとリサ・ジョイが複雑怪奇にアレンジした本作は、人間に蹂躙されるアンドロイド達の目覚めを描き、それは時の#Me tooにも呼応して女性を解放した。エヴァン演じるドロレスは純真な牧場主の娘という役割をプログラムされ、男たちに陵辱されては記憶を抹消されてきた。しかし、自我に目覚めた事で彼女は西部の無法者の人格を獲得する。可愛らしい乙女の声は無法者のドスの利いた声色に変わり、この低音こそが彼女の地声なのだ。以後、ドロレスは性別を超越し、エヴァン自身もバイセクシャルとして、そして性暴力のサバイバーとして声を発信していく。いたいけな美少女というジェンダーロールを課せられ続けてきたエヴァン・レイチェル・ウッドは、自身の“声”を手に入れたことで解放されたのだ。

 オールド・ドリオはジーナ・ロドリゲス演じるメラニーとの出会いによって、毒親の支配から脱却していく。心を閉ざしていた彼女にとってその原動力が恋心であることは知る由もないが、モチーフとして登場するブレストクロール(=母親のお腹に乗った赤ん坊が無意識のまま乳房を探り当てる)の如く、人が人を求めることに理由はない。そしてかつてロバート・アルトマンが3時間の果ての大地震で人生を描ききった『ショート・カッツ』のように、LAを舞台にした本作もまた地震の末に宇宙にまで到達し、オールド・ドリオを解放するのである。自分の声を見つけたエヴァン・レイチェル・ウッドはもう自らを偽ることなく、彼女自身の投影を演じることができるのだ。


『さよなら、私のロンリー』20・米
監督 ミランダ・ジュライ
出演 エヴァン・レイチェル・ウッド、ジーナ・ロドリゲス、リチャード・ジェンキンス、デヴラ・ウィンガー

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『サウンド・オブ・メタル』

2021-01-02 | 映画レビュー(さ)

 ハードコアミュージックのドラマーを務めるルーベンはボーカルで恋人のルーとのツアー中、突如として聴覚を失う。彼にとってルーとの音楽は人生の全てであり、何より彼は自分でリズムを決めてきた男だ。戸惑い、怒り、途方に暮れた彼は人里離れた聴覚障碍者用のホスピスを訪ねる。厳格なメソッドでコミュニティを運営するカウンセラーのジョーに従い、ルーベンは帰るべき家であったトレーラーハウスを捨て、ルーとの別離を決意するのだが…。

 『サウンド・オブ・メタル』は所謂“難病モノ”だが、今やアメリカ映画もTVシリーズもかつてのように克服を描こうとはしない。近年、多くの作品がメンタルヘルスとの共存を描いてきたように、『サウンド・オブ・メタル』も病を受け入れるまでに主眼を置き、それは終盤30分で人間の心の静寂、平穏とは何かという哲学的主題に踏み込んでいる。実際にろう者の両親を持つジョー役ポール・レイシーの静かなる名演に耳を澄ませてほしい。「静寂の場所は決して君を見捨てない。難聴はハンデではなく、治すものでもない。重要な理念だ。子供たちも私達も日々、そのことを心に留めている」。人生の賢者とでも言うべきジョーを演じるレイシーはこれまでパートタイムでの俳優経験しかなく、LA最高裁の手話通訳士を25年務めているのだという。こんな老優が出てくるのだから、アメリカ映画はたまらない。

 これまでデレク・シアンフランス作品で脚本を務めてきたダリウス・マーダー監督のコンテンポラリーな音響設計が主人公の心理を再現する事に成功している。映画の大半を構成する静寂を使った音響演出は、自宅でのストリーミングでは味わいきれないかも知れない。

 映画が描く真の難病とは“依存”である。往々にして大病には依存が伴い、ジョーの「また依存症が再発したようだ」という言葉にルーベンも僕らもたじろぐ。ルーベンの願う回復とは現実から目を背け、ルーに依存していた頃の自分に戻ることだ。そしてルーもまたルーベンに依存していたのである。終幕、共依存関係にあった2人が互いに病を受け入れ合う壮絶は涙なくして見られない。ルー役オリヴィア・クックは身を投げうつような演技は観る者の心を激しく揺さぶる。

 そしてルーベン役リズ・アーメッドである。彼の演技は映画史において繰り返し演じられてきた難病演技の対極にあり、彼の到達する真なる静寂の表情は僕らを未だ見ぬ境地へと誘うのだ。


『サウンド・オブ・メタル』19・米
監督 ダリウス・マーダー
出演 リズ・アーメッド、オリヴィア・クック、ポール・レイシー、マチュー・アマルリック
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