※このレビューは物語の結末に触れています※
アイルランドはダブリンに暮らす“ふつうの人々”を描いた本作が、どうしてこんなにも心をとらえて離さないのか。見終えてからしばらく経つのに「あの2人はどうなったろう」と余韻が消えない。サリー・ルーニーの同名小説を原作に、BBCとhuluが共同製作した1話30分弱、全12話のTVシリーズだ。
物語はアイルランドの地方都市スライゴに住む2人の高校生から始まる。コネルはフットボール部の花形選手で、学校の人気者。かたやマリアンは反抗的で、周囲からも浮いた存在だった。ある日、コネルはマリアンから好きだと思いを告げられ、2人は交際を始めることになる。
従来の物語であればコネルとマリアンが恋に落ちるまでの過程を主軸にするところだが、『ノーマル・ピープル』ではほとんど描かれない。2人に共通するのはその内気さだ。コネルは本当は読書好きの物静かな青年で、友達とのバカ騒ぎも付き合いに過ぎない。マリアンは良好ではない家庭環境が原因で自己肯定感が著しく低く、他人に対して心を開くことができない。彼らは孤独を内包した者同士として共鳴し合い、そしてすぐさまセックスに至る。
『ノーマル・ピープル』で驚かされたのが、時には1エピソードの半分以上を占める性愛描写の濃密さだ。それは数々のエンターテイメントが“見せる”ものとしてロマンチックに演出してきたのとは対照的な、2人の心情を描くナラティヴとして機能する。彼らは若さゆえの蜜月状態にあり、幾度も互いを求めあう。『ルーム』のレニー・アブラハムソン監督は人物ににじりより、カメラは頬の紅潮まで撮らえ、コネルとマリアンの目線は溢れるような感情を物語る。カメラの親密な距離感に僕らも密やかな空間を共有しているのではと錯覚に陥り、忘れ得ぬ個人史を引き寄せずにはいられなかった。多感な時期であれば、主人公たちと自分を同一視してしまったかもしれない。こんなに胸の高鳴る映像体験は久しくなかった。
コネルとマリアンはこの関係を秘密にする。それはほとんど暗黙の了解だった。コネルは周囲にはやし立てられるのが嫌で、学校ですれ違ってもマリアンを無視する。思春期特有の恥じらいから恋人との関係を隠した人は決して少なくないだろう。だが、自己肯定感の低いマリアンは人前で愛情表現してもらえない辛さを抑え込んでしまう。そうして2人の関係は高校卒業と共に自然消滅してしまった。
『ノーマル・ピープル』の大きなテーマの1つが、“有害な男らしさ=トキシック・マスキュリニティ”だ。コネルは他人の前で愛情表現をすることはおろか、マリアンに弱さを見せることもできなければ、自分の感情を言語化する力もなく、事ある毎に彼女を傷つけてしまう。2人には助言をする年長者もいなければ、満足に友達と呼べる存在もなく、閉じ籠った共依存的関係はしかしながら、いつかどこかで聞いた光景でもある。彼らの未熟さ、“ふつう”さを誰が否定できようか。
その繊細さが彼らを近年のジャンル作品同様、メンタルヘルスの問題に追い込んでしまうのである。純愛の障害が不治の病でも悲劇的別れでもなく、精神疾患というところに現在(いま)を生きる者たちの不安がある。終盤、自らの弱さをさらけ出すコネル役ポール・メスカルのモノローグは痛切だ。目線とわずかな表情で繊細な心情を表現をしたデイジー・エドガー・ジョーンズは、クリティクス・チョイス・アワードや、ゴールデングローブ賞にノミネート。スター誕生である。
学生時代からの恋人同士であるカップルがそのまま結婚をしたという話は僕の周りでもよくある。しかし『花束みたいな恋をした』を挙げるまでもなく、若い頃の恋人というのは往々にして人生の一時の伴走者に過ぎない。苦難を乗り越えたのも束の間、2人はあの後、どうなったのだろう?恋人関係は続いても、コロナショックによって物理的な距離感を強いられているかもしれない。彼らの本当の試練はこれからなのだ。本作は1シーズン限定のリミテッドシリーズだが、僕たちにとっては良く知る誰かの物語として、続編は胸の内にあり続ける。
『ノーマル・ピープル』20・アイルランド
監督 レニー・アブラハムソン、ヘティ・マクドナルド
出演 ポール・メスカル、デイジー・エドガー・ジョーンズ
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