「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」コロサイ3:13
「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対しても罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」ルカ17:3~4
ルカの「赦してやりなさい」は「悔い改めれば」という条件付きがしっかりと書かれている。マタイ18:15~35の記述にも赦しに関して書いているけれど、赦すことの前に忠告する事が書かれ、聞き入れられなければ「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とある。テサロニケ3:14~15には「その者には、かかわりを持たないようにしなさい。・・・しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」とある。けっこう厳しい。
教会で多くの場合、コロサイの記述のようにただ、「赦しなさい、赦し合いなさい」と言われるが、忠告する事や悔い改めればということが抜けているような気がする。でも、結構裁きに陥ることなく忠告するって難しい。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれているあながたがは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち返らせなさい。」ガラテヤ6:1
「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」ヤコブ5:15~16
私たちに求められている事は、その人を断罪することや赦す赦さないかということより、神様がその人を赦して下さるようにとりなし手となることではないか。
ほとほと大変な人と関わっている時、最終的に思うのは、私が赦しても、神様が赦されないかもしれないと赦すこと断罪するのは神様であると思うことにしている。
「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対しても罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」ルカ17:3~4
ルカの「赦してやりなさい」は「悔い改めれば」という条件付きがしっかりと書かれている。マタイ18:15~35の記述にも赦しに関して書いているけれど、赦すことの前に忠告する事が書かれ、聞き入れられなければ「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とある。テサロニケ3:14~15には「その者には、かかわりを持たないようにしなさい。・・・しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。」とある。けっこう厳しい。
教会で多くの場合、コロサイの記述のようにただ、「赦しなさい、赦し合いなさい」と言われるが、忠告する事や悔い改めればということが抜けているような気がする。でも、結構裁きに陥ることなく忠告するって難しい。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれているあながたがは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち返らせなさい。」ガラテヤ6:1
「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」ヤコブ5:15~16
私たちに求められている事は、その人を断罪することや赦す赦さないかということより、神様がその人を赦して下さるようにとりなし手となることではないか。
ほとほと大変な人と関わっている時、最終的に思うのは、私が赦しても、神様が赦されないかもしれないと赦すこと断罪するのは神様であると思うことにしている。