アバター観てきました。
噂の3D映画ですが、確かに、浮き出てきたり、奥行きが広がって見えたりしました。
まあ、それで大きく感動したということはないです。
内容は、「ダンスウィズウルブズ」とダブりました。原住民の抵抗の話で、地球人の侵略のしかたがひどく描かれているので、中国当局が上映制限を設けたというのも、あながち嘘ではないかもしれません。
ただ、この映画は僕に自然と全ての生命のネットワークの大切さを思い出させてくれました。つまり、全ての生命は、大きな繫がりの中にあり、前世退行催眠のテープを聴いた時に出会った僕の前世かもしれないインディアンのシャーマンの老人が「全ての命あるものを尊重しなさい」と言っていたのを思い出しました。
しかし、近代合理主義的自我(特に演繹的思考と懐疑主義)がその繫がりを断ち切らせ、神を殺し、我々をその繫がりから孤立させました。近代合理主義と科学が人間の利己主義と結びついた時、地球全体との調和を図るための太古から受け継がれてきた偉大な英知は忘れられ、強欲と傲慢の生み出した資本主義システムに支配管理された社会が出来上がってしまいました。人間も自然もたんなる自己の効用を満足させる商品価値という価値尺度でのはかられる「モノ」に過ぎず、そのように扱われそのように考えられています。こういう考えの延長線上にうちの会社の例の利己的なアノ人もいます。
さらに、科学技術と資本主義的競争原理は、「絶えず上書きされる現在」という場を作り出しています。そこではスピードと結果のみが評価され、「この本を読めば収入が上がるか」とか、「この方法なら1週間で効果があるか」とかいった部分的短期的利益や即効性ばかりが追求される場となってしまいました。そして悲しいのは、自分もそういう場の中で生きていて、そういう評価が自分の存在のよりどころになってしまっているということです。現代の社会に生きる我々は、そのシステムの中でしか生きられないというのが何よりの悲劇です。この社会を覆っている考えの前提には、「この世がすべて、物質的なものがすべて」という感覚が横たわっているのは明白です。だから結局、「永遠に上書きされる現在」が存在するだけであり、個人も「永遠に上書きされ続ける自我」としてしか存在できません。そして現代人には、天国も地獄もなく(あるとしたらこの世がそうでしょう)、「死んだらそれで終わり」なのです。インディヴィジュアルの間の横のつながりもなく、また縦のつながり、つまり、先人たちから受け継がれたものも、後世に引き継ぐべきものも存在しないように思われます。まさに歴史の喪失、語るべき記憶の喪失を引き起こしています。
自然から孤立した、永遠の記憶喪失状態の現代人に比べて、全体的統一性の中で自己を捉えて、後世に語るべきものを持っているネイティブアメリカンやいわゆる「未開社会」の人々の世界観の方が、僕は、はるかに優れていると思いました。少なくとも今、僕に必要なのは、既存の体系的宗教などではなく、もっと素朴に自然への畏敬や愛着を感じられる体験なのかもしれないということと、「永遠の現在」の中で正気を保っていられるだけの精神力をもっと養わなければならない、ということです。
やはり、独りでどこかに旅にでるか・・・。
噂の3D映画ですが、確かに、浮き出てきたり、奥行きが広がって見えたりしました。
まあ、それで大きく感動したということはないです。
内容は、「ダンスウィズウルブズ」とダブりました。原住民の抵抗の話で、地球人の侵略のしかたがひどく描かれているので、中国当局が上映制限を設けたというのも、あながち嘘ではないかもしれません。
ただ、この映画は僕に自然と全ての生命のネットワークの大切さを思い出させてくれました。つまり、全ての生命は、大きな繫がりの中にあり、前世退行催眠のテープを聴いた時に出会った僕の前世かもしれないインディアンのシャーマンの老人が「全ての命あるものを尊重しなさい」と言っていたのを思い出しました。
しかし、近代合理主義的自我(特に演繹的思考と懐疑主義)がその繫がりを断ち切らせ、神を殺し、我々をその繫がりから孤立させました。近代合理主義と科学が人間の利己主義と結びついた時、地球全体との調和を図るための太古から受け継がれてきた偉大な英知は忘れられ、強欲と傲慢の生み出した資本主義システムに支配管理された社会が出来上がってしまいました。人間も自然もたんなる自己の効用を満足させる商品価値という価値尺度でのはかられる「モノ」に過ぎず、そのように扱われそのように考えられています。こういう考えの延長線上にうちの会社の例の利己的なアノ人もいます。
さらに、科学技術と資本主義的競争原理は、「絶えず上書きされる現在」という場を作り出しています。そこではスピードと結果のみが評価され、「この本を読めば収入が上がるか」とか、「この方法なら1週間で効果があるか」とかいった部分的短期的利益や即効性ばかりが追求される場となってしまいました。そして悲しいのは、自分もそういう場の中で生きていて、そういう評価が自分の存在のよりどころになってしまっているということです。現代の社会に生きる我々は、そのシステムの中でしか生きられないというのが何よりの悲劇です。この社会を覆っている考えの前提には、「この世がすべて、物質的なものがすべて」という感覚が横たわっているのは明白です。だから結局、「永遠に上書きされる現在」が存在するだけであり、個人も「永遠に上書きされ続ける自我」としてしか存在できません。そして現代人には、天国も地獄もなく(あるとしたらこの世がそうでしょう)、「死んだらそれで終わり」なのです。インディヴィジュアルの間の横のつながりもなく、また縦のつながり、つまり、先人たちから受け継がれたものも、後世に引き継ぐべきものも存在しないように思われます。まさに歴史の喪失、語るべき記憶の喪失を引き起こしています。
自然から孤立した、永遠の記憶喪失状態の現代人に比べて、全体的統一性の中で自己を捉えて、後世に語るべきものを持っているネイティブアメリカンやいわゆる「未開社会」の人々の世界観の方が、僕は、はるかに優れていると思いました。少なくとも今、僕に必要なのは、既存の体系的宗教などではなく、もっと素朴に自然への畏敬や愛着を感じられる体験なのかもしれないということと、「永遠の現在」の中で正気を保っていられるだけの精神力をもっと養わなければならない、ということです。
やはり、独りでどこかに旅にでるか・・・。