最近書店で、「ザ・シークレット」という本を偶然見つけて半分くらい読みました。
これには、引き寄せの法則が、載っていました。良くも悪くも自分の眼前の現実は、自分が引き寄せたものだということですね。
これについて僕はこういう風に考えてみました。
この宇宙が、ビックバンという出発点からリニアに発展してきたとするのが今の一般的な宇宙論ですが、一方、宇宙にははじまりも終わりもなく、永遠に存在し続けているという考えもあります。これに宇宙が収束しないという多世界解釈を加えますと、とても変な結論に達しえます。
つまり、自分が存在しない宇宙も無数にある一方、自分が存在する宇宙も無数に存在します。そのなかで、時間の経過の途中で自分が死んでしまっていなくなる宇宙もあり、反対に、いつまでも存在し続ける宇宙もあるでしょう。自分がずーっと存在し続ける宇宙。変ですが、純確率的にはゼロではありません。
人間の意識は、その全ての宇宙の自分とつながっているのかもしれません。そして、現実の引き寄せとは、あらゆる可能性のある別のどこかの宇宙の自分に意識がシフトすることじゃないか、とも考えられます。だとすると、自分の意識が宇宙を創っているというのは、そういう宇宙に自分の意識が移行していくことではないか、とも考えられます。意識の移行がどういう原因で起きるかはわかりません。やはり、よくないことを考えるとそういう宇宙に意識が移行してしまうのかもしれませんが、わかりません。
もし、永遠の時の流れの中で、自分の意識が永遠に存在し続ける自分にシフトしたら、それが神と合一するということでしょうか。また、永遠のときの流れの中で、僕の意識は、実は、他の全ての人の意識にシフトしたことがあるのかもしれません。人だけではなく、全宇宙の全ての意識に、植物、昆虫、動物、山、海、彗星、さらに高度な知性・・・。
こう考えてくると、転生というのは、別の意識体にシフトすることかもしれません。死んだら、自分の生涯は何も知らない別の宇宙の自分の意識に夢として合流することになるのかもしれません。あるいは、別の意識体に合流するのかもしれません。自分の現在の意識は、満ち欠けする月のひとつの局面のようなものに過ぎず、結果的には全ての意識を経験するように出来ているのかもしれません。今のところ経験できない意識は、別の宇宙の自分が経験しているのかもしれないし、永遠の時の中で、はるかに未来か、過去の自分が経験する、あるいはしたのかもしれません。人間の脳はもしかするとこの多世界をリンクしている量子コンピューターじゃないか、と考える学者もいるそうです。そこでは、自由論と決定論の違いはあまり重要な意味を持たなくなります。つまり、一見自由に見え、ランダムにされたように見える選択も、永遠の無限の試行のなかでは、全てが起こっているのですから、ひとつだけを見ると偶然に見えますが、全ての宇宙全体から見れば、それは必然でもあると思えるからです。
また、宇宙が収束しないとしても、宇宙全体のエネルギーは不変なのだから、物理的な運動エネルギーが保存されるためには、それほど多種多様な宇宙に枝分かれするわけではなく、もしかすると、全く同じことをエンドレステープのように無限に繰り返しているだけかもしれません。これは、きっと人間の想像を絶する規模と時間の長さ、そして複雑さで起きているでしょう。だとすれば、決定論が支配しているともいえますので困ってしまいます。
あるいは逆に初期条件として発散するのに十分なエネルギー量を宇宙が持っていれば、全くランダムに様々なことが起きる可能性もあるのかもしれません。だとすれば自由論が意味をもつこともありえます。また、その初期条件はどうやって決定されたのか・・・。決定論かもしれません。
ここまでくると、もう何がなんだかわからなくなってしまいます。(゜o゜)
思いつくままに書いてしまいました。きっと誤謬も多くあるでしょう。にもかかわらず、最後までお付き合いくださりありがとうございましたm(__)m