物々交換で思い出したエピソードがある。
昭和十九年、戦争末期には出版に要する用紙が統制されていた。用紙を手に入れるには、つまり出版を可能にするには、用紙を申請して、その申請書には言論統制に抵触しないような「出版目的」を記さなければならなかった。
「私はいろいろと時勢に迎合した大ハッタリを並べた覚えがある」
そう当時を語っているのは、三十代になった作家・三島由紀夫である。
当時、出版統制の強化によって、割り当て用紙が一定量に達しない出版社は存在を許されなかったそうだ。
平岡公威(きみたけ)後の三島由紀夫は、『花ざかりの森』を出版するに当たっての内輪話を暴露している。「『ペルソナ』猪瀬直樹著(文芸春秋)」
「出版社各社は、用紙の確保に懸命だった。極端なことを言えば、用紙さえ手当てしてくれる者がいれば、どんな企画だって通した」とある。
三島は祖父の平岡定太郎が樺太長官時代に、樺太にパルプ工場を誘致した業績を思い起こし、その筋から用紙を調達することが出来たのだった。
昭和十九年、十一月十七日、『花ざかりの森』は、発売にこぎつけた。
祖父定太郎のコネを使って、十九歳の作家の誕生であった。
出版社は筑摩書房に吸収された七丈書院というところらしい。
ところで、戦争を経験している母は、最近まで「石鹸」「トイレットペーパー」「砂糖」「塩」を山のように積み上げておかないと落着かない暮らしぶりだった。物を持っていれば、そのときに必要なものと交換が出来ると考えている。どうしてもない人には、分けてあげられるという主張なのだ。
実は、イラク戦争がはじまる前に、蔵にトイレットペーパーを山のように積み上げた。ようやく最近になって18ロール入りが残り2個になった。
「お金があったら、日用品を買い揃えておく」というのが母の信条なのである。
オリンピックの安売りに連日通うことになる。
我が家の暮らしぶりが露呈してしまったが、「物々交換」の話を昨日書いたためである。
今日のブログは、思いがけない方向に、話のハンドルが逸れてしまった。
昭和十九年、戦争末期には出版に要する用紙が統制されていた。用紙を手に入れるには、つまり出版を可能にするには、用紙を申請して、その申請書には言論統制に抵触しないような「出版目的」を記さなければならなかった。
「私はいろいろと時勢に迎合した大ハッタリを並べた覚えがある」
そう当時を語っているのは、三十代になった作家・三島由紀夫である。
当時、出版統制の強化によって、割り当て用紙が一定量に達しない出版社は存在を許されなかったそうだ。
平岡公威(きみたけ)後の三島由紀夫は、『花ざかりの森』を出版するに当たっての内輪話を暴露している。「『ペルソナ』猪瀬直樹著(文芸春秋)」
「出版社各社は、用紙の確保に懸命だった。極端なことを言えば、用紙さえ手当てしてくれる者がいれば、どんな企画だって通した」とある。
三島は祖父の平岡定太郎が樺太長官時代に、樺太にパルプ工場を誘致した業績を思い起こし、その筋から用紙を調達することが出来たのだった。
昭和十九年、十一月十七日、『花ざかりの森』は、発売にこぎつけた。
祖父定太郎のコネを使って、十九歳の作家の誕生であった。
出版社は筑摩書房に吸収された七丈書院というところらしい。
ところで、戦争を経験している母は、最近まで「石鹸」「トイレットペーパー」「砂糖」「塩」を山のように積み上げておかないと落着かない暮らしぶりだった。物を持っていれば、そのときに必要なものと交換が出来ると考えている。どうしてもない人には、分けてあげられるという主張なのだ。
実は、イラク戦争がはじまる前に、蔵にトイレットペーパーを山のように積み上げた。ようやく最近になって18ロール入りが残り2個になった。
「お金があったら、日用品を買い揃えておく」というのが母の信条なのである。
オリンピックの安売りに連日通うことになる。
我が家の暮らしぶりが露呈してしまったが、「物々交換」の話を昨日書いたためである。
今日のブログは、思いがけない方向に、話のハンドルが逸れてしまった。