僕はその部屋でパンツを履き替えていた。中学3年生。友だちの前で着替えるのは気恥ずかしい年頃になっていた。履いていたパンツの穴から順番に足を抜き、新しいものに足を入れていると、突然、肩を叩かれた。振り返る。そこには誰もいなかった。
脱いだ衣服をリュックに仕舞い込み、その部屋からそっと出て、後ろ手で鍵を閉める。
僕は中学の卒業旅行で富山県の立山に来ていた。
黒部アルペンルート、観光の拠点になっている「室堂」手前、学校が昭和40年代に買い上げた山小屋「追分小屋」。
国立公園内に建っているので、どんなに朽ち果てても修理や建て直しが出来ない建物。
古びた小屋は四隅をロープで固く縛られ、地面にそのロープを固定する事で、ようやく建っている。
いつ崩れ落ちてもおかしく無い佇まいを醸し出している。
学校が買い上げる前は、今の様に交通手段も発達していなくて、立山に登山する人々の為の中間宿泊施設として、大変賑わっていたという。
それゆえ、小屋の周りでは度々遭難事故が起こっていた。それは小屋が建った昭和初期から断続的に続いたのだった。
僕ら中3の学生は2泊3日で、その小屋に泊まる事になっていたのである。
山小屋だから、当然、風呂やシャワーは無い。
潔癖症でアトピー性皮膚炎の僕は持参したタオルで身体を丹念に拭き、着替える場所を探した。
すると、廊下の片隅に軽く蝶番が引っ掛けている扉を発見したのである。
ここでパンツを新しいものに着替えた。これでスッキリした。
夜、晩御飯が終わって、先生から「追分小屋」に関する話を聞く。
「追分小屋」はゴールデンウィークに先生が来て、「小屋開き」をするそうだ。
その際、昨年の秋、「小屋仕舞い」の際、小屋に置かれた食糧やマッチ、焚き木などが減っていないか、まずいちばんに確認する。
冬の間に遭難して、この部屋に命からがらたどり着いた人々が使う為の食糧、マッチ、焚き木なのである。
誰も入っていない事を確認すると、小屋の窓を開けて空気を入れ替える。そして、夏に訪れる中3の僕たちを迎える為の準備を開始するのである。
「小屋開き」は毎回、「誰か、遭難者が入っていないかドキドキする」と言う。
昭和30年代のある日、「追分小屋」から少し上がった「室堂」という立山登山の拠点から、ひと組の若いカップルがスキーで滑り降りようとしていた。辺りは濃霧で何も見えない。
男女それぞれが厚い霧の中、思い切って滑り始めた。
そして、男性の方は無事下まで滑り降りる事が出来た。
しかし、女性の方は幾ら待っても、その姿を現さない。
捜索隊が出て、連日彼女を探したが彼女の行方は全く分からなかった。
そして、春。徐々に気温も上がり、日毎に雪が融けていく。
ゴールデンウィークに入り、「追分小屋」の持ち主が夏に向けての清掃と準備の為に、小屋に向かった。
小屋の食糧は減っておらず、焚き火の跡も無い。
彼は各部屋を一つ一つ点検していく。
最後の部屋だ。小屋の屋根に四角い煙突の様に突き出した「冬の入口」。その入口の真下の部屋。
「ギャー!!!!!」
彼は大きな悲鳴を上げた。暖炉の様な「冬の入口」へ続く短い煙突状の場所に、「女のミイラの顔」が逆さ吊りになって見えていたのである。
そう。あの行方が分からなくなっていた若い女性スキーヤーだった。
彼女は濃霧の中、スキーで滑って来て、ゲレンデに突き出した「追分小屋の冬の入口」にぶつかり、半回転してぶら下がったのである。
当時、スキー板とスキー靴が自然に外れる「ビンディング」という様な装置は無く、スキー板とスシ靴が外れなかった。それゆえ、スキー板を上にして、「冬の入口」に逆さまにぶら下がった。だから、吊り下げられた形で亡くなっていた。ミイラになって。
先生が語るこの話を聞いた時、僕は悪寒に襲われ、ぞっとした。
今は「開かずの間」として永遠に閉められていたその部屋を、僕はパンツを履き替える為に使ったのだった。
パンツを着替えている時に肩を叩いた人物。それはその部屋で無念の死を遂げた女性スキーヤーの彼女だったに違いない。
僕は、一冬置き去りにされてミイラになった彼女の顔を想像し、吐き気が止まらなくなっていた。しかし、吐き気はしても、何も戻せない状況に陥った。
「人の死」の怖さを知った。
あれから、「追分小屋」は取り壊されたのだろうか?今もあの時、肩を叩かれた感触は鮮明に思い出す事が出来る。あの柔らかい手で。
これはフィクションでは無く、本当の実話である。
その時、馬が暴れ出した。画面に映っていた石田ひかりさんと柳葉敏郎さんがそれを見て逃げた。一瞬の出来事だった。
僕はある日、ドラマのチーフ・プロデューサーである山本和夫さん(現在・ドラマデザイン社代表取締役)に呼ばれた。
「明日から北海道へ行ってくれ。電波ジャックのディレクターを任せる」と。
翌日が連続ドラマ「ナチュラル 愛のゆくえ」(1996年10〜12月)の初回放送だったのだ。
「電波ジャック」とは、ドラマのスタート日に、出演者が朝から各ワイドショーに出て、ドラマの宣伝をする事。
本来ならば、東京の日本テレビ内で完結する。
このドラマの場合、北海道浦河町を舞台にしているので、ロケ現場から中継を入れて、電波ジャックする事になった。
ドラマの宣伝担当と共にタクシーに揺られる事5時間、浦河町に着いたら夕方になっていた。辺りは既に薄暗い。
到着早々、翌朝の電波ジャックの打ち合わせを石田ひかりさん、柳葉敏郎さんとする。
何故か、僕の思い込みだったが、柳葉さんは「筋の通らない事は嫌い」という印象を勝手に持っていて、打ち合わせでとても緊張した。
しかしながら、石田さんと柳葉さんは僕の説明をよく理解して下さり、笑顔も見えていたので、ホッとしたのを憶えている。
午前4時起床。
札幌テレビがロケ現場に横付けした中継車に乗り込む。
「ズームイン!!朝!」の前の番組からいよいよ電波ジャックが始まった。
石田ひかりさんと柳葉敏郎さんの2ショット。生放送の進行は順調だ。
「ズームイン!!朝!」になると、札幌テレビのディレクターと交代。「ズームイン」のレギュラーのディレクターだ。
「ズームイン」が終わると、また僕にディレクター交代。「ルックルックこんにちは」(1979〜2001年)の電波ジャックがあるからだ。
「ルックルックこんにちは」東京・日本テレビのスタジオでは司会の岸部シローさんがトークを展開している。この頃の岸部さんはお元気だった。
北海道浦河町の生中継の現場では、電波ジャックの準備が着々と進む。電波ジャックの告知時間が長いので、真ん中に馬を入れ込み、左に石田ひかりさん、右に柳葉敏郎さんで囲んで貰った。
間もなく、生中継。
生中継の振りを日本テレビの岸部シローさんがして、映像が浦河町に切り替わる。
打ち合わせ通りの質問が石田さん柳葉さんに岸部シローから来て、掛け合いが始まる。
俳優さんは生放送のワイドショーに出られる事はほとんど無いので、掛け合いに慣れていない。その為、予め訊かれる質問を石田さん、柳葉さんに昨夜の打ち合わせで伝えておいたのだ。
順調に見えたその時、予期しない大変な事が起こった。
馬が暴れ出し、石田ひかりさんと柳葉敏郎さんは馬に蹴られない様に咄嗟に避難。馬もフレームから外れてしまう。
馬は元来とても神経質な生き物なのだ。生中継の異様に緊張した雰囲気に耐えられなかったのだろう。
そこに「ルックルックこんにちは」のエンドロールが流れる。画面は誰もいない牧場の風景を映し出していた。これではスタジオとのやり取りも無理だ。
岸部シローさんがスタジオで取り繕う中、生中継は終わった。
北海道から帰る飛行機の中で、僕は憂鬱だった。CPの山本和夫さんにこっ酷く怒られるのは目に見えていた。
東京支社のドアを開け、すごすごと僕は東京制作部のデスクに向かう。
山本さんの姿がそこにあった。すぐに電波ジャックの失敗を誤った。深々と頭を下げて。
山本さんは笑っていた。
「出演者も馬も逃げて、誰もいなくなった。生放送のハプニング面白かった。ドラマを印象漬ける事にも成功したと思うよ!」
「ナチュラル 愛のゆくえ」の電波ジャックから6年あまり、ドラマ「天国への階段」(2002年4〜6月)で浦河町に行く機会があった。
美術さんが「ナチュラル 愛のゆくえ」の牧場の岬の先端に植えた高さ20mは有ろうかという大木。ロケ現場の象徴だったその大木は大地に根付いて、より一層大きくなっていた。
【ご報告】
— 鈴原すず (@suzu_suzuhara) March 29, 2023
4月4日(火)発売『FLASH』に8ページ掲載させていただきます!
スタッフさんが面白くて、好物もたくさん食べれて楽しい撮影でした🥰
是非!! pic.twitter.com/8MV95k7v1K
素晴らしい❣️
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— 「アップトゥボーイ」編集部 (@wani_UTB) March 29, 2023
最高❣️