ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

80年代ノート3

2022-02-13 18:10:00 | メディア
引き続き、1月27日付の上毛新聞に掲載された田家秀樹さんのコラムです
前回は、田家さんのラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」での言葉をお借りすると
「82年のアルバム『虜』でですね、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったエンジニア
ボブ・クリアマウンテンと組んだというところまで話をしました」…ということで(笑)

「現地(ニューヨーク)でのスタジオ作業が始まった1日目のことだ
ロビーに待機している僕らの前に姿を現した(甲斐バンドの)ドラムの松藤英男は
呆然とした表情で『わしのドラムがロキシー・ミュージックになった』と呟いた」と田家さん
でも、確か、当時の機関紙「BEATNIK」には…
「わしのタイコがロキシー・ミュージックになってしまった」…と記されていたような気が…?(笑)

そして、コラムは…「それは、70年代のロックバンドの太く重いドラムとは違う
エコーの効いた『80年代の音』だった
デジタル技術で肉厚な音に進化したバンドサウンド
ハードボイルド小説のような骨太な物語性のあるロック」と続いているんですが

前述のラジオ番組では…
「よく『骨太のロックバンド』という言い方をしますけども
じゃあ『骨太』とは何だ?っていうことなんですね
あの時代の新しいリズム、色んな新しい要素を取り込みながら、バンドのですね、骨格が揺るがない
まあ、甲斐バンドはですね、デジタルの普及で激変したレコーディング環境とですね
いち早く向き合ったロックバンドだった

で、例えば、70年代後半から80年代の初頭にかけて
レゲエとかですね、スカとか、新しいリズムが台頭して来た訳で
日本のCMソングなんかでも、スカのですね、バンドが登場したりする時代が来ました
でも『地下室のメロディー』のように、スカを採り入れながらもですね
バンドらしさというのが、カッチリとあるというのはですね、そういうケリのつけ方
一つ一つですね、時代に対しながら答えを出して行くという例だったと思いますね

で、そこにこう…その都度その都度ですね
実験的な要素も採り入れながら、時代を疾走するというですね
甲斐バンドの12年間っていうのは、そういう時間だったと思いますね」とおっしゃってました

ただ、コラム枠の文字数の関係からか?(苦笑)…
「『虜』発表の後、83年の『黄金/GOLD』
85年の『ラブ・マイナス・ゼロ』と続いたボブとのアルバムは
『ニューヨーク3部作』として語られている」…と駆け足で触れておられるんだけど

同番組では…「1982年のですね、年末の武道館…
毎年年末に2日間ずつライブをやってましたが
この82年の年末でですね『良いものを作る時間をくれよ』というですね、名ゼリフを残して
翌年のコンサートスケジュールを全部白紙にして作ったのが
83年7月に発売されたアルバム『GOLD』だったんですね

で、アルバムにですね、アレンジャーというのが
このニューヨーク3部作から加わってるんですね
後藤次利さんとか、椎名和夫さんとか、井上鑑さんとか、瀬尾一三さんとか、星勝さんとか
まあ、そういう意味では、音の甲斐バンドというのがですね、ここから始まってます」とか

「田中一郎さんが、甲斐バンドに正式加入してから
1年間かけて作ったのが、85年3月に出た『ラブ・マイナス・ゼロ』ですね
このアルバムのためにですね、甲斐さんは2回ニューヨークに行ってます
5月にはですね、ニール・ドーフスマンという人と組んで
10月にもですね、更にボブ・クリアマウンテンとそれをやり直し
2人の(エンジニアの)手を経て作り上げられました

ニール・ドーフスマンはですね、その後、スティングとか
ポール・マッカートニーとか色んな人を手がけて…
この(エンジニア)2人ともですね、グラミー賞を受賞してますね
で、日本では、その後、渡辺美里さんとか、浜田省吾さんとか
氷室京介さんとか、まあ色んなアーティストと組むようになるんですが
そういう意味では、甲斐さんはですね
先見の明があったという風に言っていいでしょうね」とか

「『ラブ・マイナス・ゼロ』はですね、打ち込みのアルバムなんですね
メンバーの演奏は2曲だけ、それぞれ別々にレコーディングしたものを
ボブ・クリアマウンテンに最終的に委ねたというアルバムでした
そのボブ・クリアマウンテンの当時のスケジュールではですね
ダリル・ホール&ジョン・オーツとブライアン・アダムスの間に
甲斐バンドが入っておりました」と話されてました

まあ、甲斐さんは、1996年の再結成時のインタビューで…
「音はムチャクチャ良いんだけど、極端なテンション出して、ねじれてるよね
そういう時期があると思うんですよ
ナンでこんなにサウンド・テンション高いの
?っていう時期が…
まさに、この『ラブ・マイナス・ゼロ』がそうだね。もう今こんなミックス出来ないよ
80年代の徒花だね」とおっしゃってましたけど…(笑)

そして、コラムの最後は…「誰もやってないことをやりたい
80年,箱根の芦ノ湖畔、81年,花園ラグビー場と続いた野外イベントもそんな例だ
ニューヨークで生まれた音を東京のど真ん中で鳴らしたい
新宿西口に2万人以上を集めた野外イベント
『THE BIG GIG』が行われたのは、83年8月だった」…と結ばれてますが

「『GOLD』(発売)の翌月8月7日にですね、新宿新都心
当時『ZONE』と呼ばれていた所で行われたのが、野外ライブ『THE BIG GIG』でした」と田家さん
「お客さんが21,000人、東京の都心で行われた最初の大規模野外ライブですね
その1曲目が、82年のアルバム『虜』の中の『ブライトン・ロック』
ニューヨーク三部作の1枚目『虜』の中の曲ですね」とか

「東京・新宿新都心都有5号地…今、都庁が建ってる所ですね
当時はですね、もちろん都庁なんて出来てなくてですね
住友三角ビルと京王プラザくらいしかなかったんですね
で、都会の野外ならではだったのが、住友ビルをですね、借景したんですね
あそこの壁にですね、こう…照明を当てて、それをこう…まっ、演出効果したという意味では
新宿のド真ん中ならではのイベントでありました

で、あの一角はですね、周囲にですね、陸橋のように歩道がずっと通っておりまして
ちょっと下がった所に地面があったんですね
で、周りのですね、歩道からステージが見えるんですね
で、お客さんは2万人くらい居たんですけども
その陸橋にはですね、チケットを買ってない人たちが、たあくさん
こう…鈴なりになって様子を見てたというですね(笑)
そういう都心のド真ん中ならではの光景が繰り広げられました」と熱く語られてましたけど

それが、甲斐さんの「武道館でライブをやるって言っても
小さな記事にしかならなかったから」という歯がゆさから発し
「誰もやったことがない場所でのライブ」に発展した
その結果の1つだったということには触れていらっしゃいませんでした(笑)
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80年代ノート2

2022-02-12 18:05:00 | メディア
前回ご紹介した「第1回」のコラムは、田家秀樹さんがこの先
「J-POPが花開いた80年代」を綴って行かれる上で
その「分岐点」となる「1979年」にまず触れられていましたが

かつて、甲斐バンドの機関紙「BEATNIK」に寄稿なさっていた記事から誕生した著書
「ポップコーンをほおばって」でも「話を1972年から始めたいと思う」と田家さん
「甲斐バンドには、60年代の血が流れている」とおっしゃる理由を説明なさる上で
「甲斐バンドのレコード・デビューは、1974年のことだ
74年11月5日発売『バス通り』…これが正式なレコード・デビューとなっている
それでも、72年から始めたいと思う。その第1ページを、72年にしたいと思う

歴史には『前史』という段階がある。表舞台に登場する前の人目に触れなかった時間のことだ
そして表舞台の歴史としての長い時間よりも
前史の方に、より凝縮された本質が窺えたりする
いきなり表舞台が始まる訳でもない
ある日突然、バンドが降って湧いたかのように生まれる訳でもない
そこに至るまでの隠された必然というやつがある
甲斐バンドにとってのそんな時間が、1972年だったという気がする」と記されてます

さて、その「80年代ノート」の最初に、甲斐バンドのライブアルバム
「100万$ナイト」が取り上げられてから3週間…
1月27日掲載の第4回に、今度は甲斐バンド9枚目のオリジナルアルバム「虜」が登場♪
まあ、田家さんは、1986年の甲斐バンド解散まで
前述の機関紙「BEATNIK」の執筆を始め、かなり甲斐バンドに近い所にいらした方ですし…

…で、こちらも当日の朝、甲斐友さんがLINEで記事の写真を送ってくれたそうで
ボクもスマホの画面越しに、その内容を拝読したあと「上毛新聞」をポチっとな(笑)
前回の「東奥日報」もそうだけど、こういう文化面…エンタメ系の記事は
地方紙の方が自由度が高いというか、何かに特化した内容が取り上げやすいのかなあと…?

石田伸也さんが受けられたという、尾崎豊さんに関するインタビュー記事も
当初は「群馬、愛媛、岩手と地方紙に掲載され」その後「1月25日の京都新聞夕刊」に掲載決定
更に「地元・熊本にも今月下旬に載ることが決まった
いやあ、同級生や親戚に少しは良いところを見せられるかと
同郷のよしみで掲載を決めてくれた方に感謝です」と各地方紙に波状的に広がったみたいです

ともあれ…その「NY生まれの肉厚な音」というタイトルの記事ですが
「そのシーンは今も鮮明に浮かんでくる
1982年10月、新作アルバム『虜-TORIKO』のトラックダウンのために
ニューヨークに行った甲斐バンドに取材で同行した時のことだ」との書き出しに始まり

「彼らが使ったのは、マンハッタンにあるパワー・ステーション・スタジオ
かつて発電所だったことで、その名前がついた
起用したエンジニアは、ボブ・クリアマウンテン
甲斐バンドを率いた甲斐よしひろは、ボブが手掛けたアルバム
ローリング・ストーンズの『刺青の男』を81年に聴いて衝撃を受けていた
ロックの名盤と言われるロキシー・ミュージックの『アヴァロン』や
デヴィッド・ボウイの『レッツ・ダンス』もボブの手による作品だ」と記されてますけど

甲斐さんは、ある日たまたま、ジムへの往復にタクシーを使われ
その行きのタクシーの中で、ストーンズの「スタート・ミー・アップ」を
帰りのタクシーで、ロキシー・ミュージックの「アヴァロン」をお聴きになり
この2曲を手掛けたのは誰なのか、すぐにお調べになり
どちらもボブ・クリアマウンテンというエンジニアの仕事だとお知りになって
彼とのコンタクトの取り方を探ったとおっしゃってましたよね?

それはともかく…「トラックダウンとは、ドラムやベース、ギターや歌など
別々に録音されたテープを一本化する作業である
各楽器の音色や全体の音のバランスはそこで決まる
特に、70年代後半からは、レコーディングの過程で、デジタル機材の重要度が増した
パワー・ステーションは、コンピューターミックスの最先端と言われていた」と田家さん

ご自身のラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」で、甲斐バンドを取り上げられた時にも
「1980年代というのはですね、音楽を取り巻く環境も激変した、そんな年でしたね
79年…78年くらいかな?デジタルというのがですね
レコーディングの現場で取り入れられるようになった
それから演奏にですね、コンピュータというのが占めるようになって来た」とか

「まあ、あの時代の格闘って、色んな形の格闘があったと思いますけども
このデジタルとアナログ、ロックと肉体ということでですね
そこの最も困難な闘いというのを挑んでいたのが
甲斐バンドだったんだなあと改めて思ったりしました
最前線にいましたね、誰も踏み入れたことのない道をですね、進んでいたバンドでありました」とか

「音像が全然違いますね。映像感、広がり方、エコー…このボブ・クリアマウンテンはですね
当時、世界のロックファンから脚光を浴びてたんですね
今思うと、あれだけの規模のレコーディングをよくやったなという感じですね
ボブ・クリアマウンテン、ニール・ドーフスマンという
2人のグラミー賞エンジニアを起用して、現地で作業している訳ですからね

僕も音楽プロパーのライターだった訳でもなく、業界のことをほとんど知らなかった
1枚のアルバムを作る工程とか、コストとか、今なら当然思い浮かべるようなことも
当時は考える余裕もなく、はしゃいでおりました」と振り返っておられました

そして…「米国への出発の前日も、国内ツアーの公演を終えてからスタジオに戻り
一睡もしないまま成田空港に向かった甲斐は
『観光で行くんじゃない、ボブがいるからニューヨークに行くんだ』
…と何度となく繰り返した」と書かれてますが
「ニューヨークに着いたら寝よう!」を合言葉に(笑)…といっても
眠る時間など全くおありにならなかったみたいだけど…(苦笑)

当時の甲斐さんが、ニューヨークでレコーディングなさることに関して
「ニューヨークだから来たんじゃない。ボブがニューヨークにいるから来たんだ
もし、ボブがロンドンにいたら、ロンドンに行ったし、四国にいれば、四国に行ったと思う」
…と「何度となく」おっしゃっていたのは

かつて、甲斐さん初のソロアルバム「翼あるもの」を作られる際に
国内のスタジオミュージシャンは人数が限られていて
どのアーティストの作品も似通った音になっていることを厭われ
ナッシュビルで現地のスタジオミュージシャンを探すことから、お始めになったのに

同時期に、他のアーティストの皆さんも、海外のスタジオでレコーディングなさっていたために
「猫も杓子も海外録音」といった記事で揶揄されたことに対する
「牽制の意味もあったんじゃないかな?」と奥さん

ボクは、それこそ田家さんの「ポップコーンをほおばって」の中に書かれていた
かつての甲斐バンドのマネージャー・佐藤剛さんの
「僕は、甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけれど
シンコー・ミュージックに入りたいと思った訳じゃなかったんです」という言葉を思い浮かべました
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80年代ノート1

2022-02-11 20:40:00 | メディア
奥さんが甲斐友さんからLINEで教えて貰った田家秀樹さんの連載コラムです
スマホの画面越しに、甲斐バンドのライブアルバム「100万$ナイト」のジャケ写と
「1979年 先駆者たちの分岐点」という記事を楽しませて頂いたんだけど
その記事が掲載された1月6日付の東奥日報をポチりました(笑)ので、ご紹介することに…

…ただ、その前に、甲斐バンドフリーク必携の書と言われる
田家さんの著書「ポップコーンをほおばって」は、甲斐さん始めメンバーの皆さんにではなく
甲斐バンドのレコーディングやライブ活動などに携わられた
スタッフの方々や関係者の皆さんへのインタビューによって
「甲斐バンド」の歩みを浮き彫りにしたものでしたが

同じく周囲の方々へのインタビューを基に著された「嵐の季節」の著者であり
甲斐報にもたびたび寄稿なさっていた石田伸也さんが
2月6日に急逝されていたと知って大変驚いております

ボクは、このブログの読者の方から「甲斐バンドの『翼あるもの』を聴いて記憶を取り戻した男性」
…の記事についてお訊ねがあり、その記事の掲載紙と掲載日をお知らせしたところ
実は石田さんが「嵐の季節」のために探していらしたと知ってビックリしたことや

奥さんが、そのことを、甲斐バンドのライブ会場に設けられた
「嵐の季節」販売コーナーにお見えになっていた石田さんにお知らせしたことなど
たびたび、このブログで石田さんのことを書かせて頂いていたら
ご本人からコメントを頂戴したり、ご自身のツイッターに記事をアップして頂いたりして
一面識もないんだけど、勝手に親近感を覚えておりました

思えば、奥さんが「アサ芸」に載っていた甲斐バンドの記事を読んで
「このライターの石田伸也さんって、絶対、甲斐バンドファンだよね?(笑)」
…と言ったのが、そもそもの出会いだった訳ですが

田家さんが、甲斐さんやその周囲の皆さんと、ほぼ同世代でいらっしゃるのに対し
石田さんは、奥さん達「甲斐バンド世代」と呼ばれるファンの代表という感じで
より身近な存在というか、実際、奥さんはライブ会場で石田さんをお見かけすると
ご挨拶がてら、お話しさせて頂いていたようですし

石田さんのツイッターもよく拝見していて、直近のツイートでは
「もう少しで書名を含めて正式発表できると思うけど、僕の16冊目の新刊は
当初の2月下旬から1ヶ月ほど延期し、3月23日頃の発売となりそう
これは非常に前向きな形のスケジュール調整です。いいモノを創る時間をくれよーー」
…と、いつかどこかで聴いたことのあるフレーズにニヤニヤしたり(笑)

「行きつけの下北沢のバーで、もしかしたら本棚にあるんじゃないかと見たらドンピシャで存在
今は絶版になっている貴重な資料なので、新刊を書き上げるまで貸して貰うこととした
…「っていうのは、甲斐さんも行きつけのあのバーかなあ?」と思ったり

「2009年春に初めて甲斐さんに会った日は、天気も体調も暗めで
目が覚めた瞬間から吐き気に襲われた
この仕事を長くやってて、大物インタビューもこなしているのに、ここまで緊張するのかと
その緊張感は、5年後『嵐の季節』に結実する
そして、今日の人も吐き気こそないけど緊張感ある対面だった」

…の「緊張」という言葉に「わかる!わかる!」と頷いたりして
件の新刊がどんな内容なのか、楽しみにしていた矢先の訃報に言葉もない様子でした
石田さんのご冥福を心よりお祈り致します…m(__)m

さて、田家さんのコラムですけど…「J-POPが花開いた80年代
ミュージシャンたちと並走してきた田家秀樹さんが
名盤や記念碑的な公演を紐解きながら、当時の音楽シーンを綴ります」
…という趣旨で、毎週木曜日に掲載される連載みたいで

その第1回目の冒頭に「『79年のドラマは全て終わりました。俺たちは80年代に行きます』
甲斐バンドの甲斐よしひろが、1979年12月21,22日の初の武道館2日間公演でそう言ったのは
本編最後の曲『100万$ナイト』の前でだ」とのツカミがあり

「どんな年代にも終わりと始まりがある
それまでの10年がどう終わって、新しい10年がどう始まったのか
劇的な分岐点という意味で、79年の大みそかをしのぐ年はなかったのではないだろうか

今、僕らが日常的に親しんでいるポップミュージックの基盤は、70年代に作られた
日本語のロックバンドにシンガー・ソングライター
それまで日本にはなかった音楽のスタイルやコンサートの形
その頃に原型が誕生した例は数え切れない」と続き

ある「日本語のロックバンド」ファンである我が家の住人は
そのバンドのリーダーの方が、全国ツアーの先々で
「自分が買った席だから、その場で立って楽しめばいい」と
スタンディングでのライブ観賞を布教していらしたことを思い出して遠い目…(笑)

「ただ、そうした先駆者たちの多くが不遇だった
RCサクセションは事務所の問題に巻き込まれ
THE ALFEEはレコード会社との契約解除で、思うように作品が出せなかった
日本語のロックの元祖『はっぴいえんど』にしても活動期間は約3年
オリジナルアルバムは3枚だけだ」…と、この辺りは
田家さんのラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」でおっしゃっていた
「はっぴいえんどからBOOWYに至る過程での最重要バンド」というキーワードを彷彿させ

「その一方で、時代の象徴となった吉田拓郎、井上陽水
松任谷由実や中島みゆき等にとっても、苦戦していた人達にとっても
『70年代の終わり』は『舞台が変わる』以外の何物でもなかった…との一文は

前述のラジオ番組の中でも1970年代から1980年代の変わり目というのは
本当に色々なことがあり、時代が変わって行くんだということを強く感じたのを
今でも鮮明に思い出すことが出来ます」という言葉で表現なさってました

ともあれ…「79年の12月に初めて使われたのが『武道館ラッシュ』という言葉だ
松山千春、ゴダイゴ、陽水・高中正義、桑名正博、原田真二、ジョニー・ルイス&チャー
唯一の単独2日間公演が甲斐バンドだった
『100万$ナイト』は、79年10月発売
チャート1位になったアルバム『マイ・ジェネレーション』に収録されていた

歌詞の中の『踊ることも出来ずに』倒れてしまう『傷ついたダンサー』は
失意の中で挫折して行った70年代の多くの若者たちを連想させた」と記されてますが
奥さんは「男と女は本当には判り合えない
だから、俺は祈るのね」とおっしゃっていた甲斐さんが
「祈る言葉はありはしない」という歌詞をお書きになって
それを、聴いていると胸が締めつけられるような声で歌われていたのがショックだったんだとか…

それはともかく…「大みそかの日本青年館のステージで
『もう古い歌は歌わない』と言ったのは拓郎だ
浅草国際劇場(当時)のニューイヤー・ロックフェスティバルで
バンド名を『ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド』に変え
過去のオリジナル曲を封印すると宣言したのは
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
同じステージで、髪を染め化粧を施した
ド派手なロックバンドに変身して登場したのが、RCサクセションだった

それぞれの区切りと再出発。新しい時代が始まろうとしていた」
…と、初回の記事は結ばれてましたけど、当時の風潮…というより、肌で感じた空気感は
「不遇」や「失意」といったネガティブなものばかりじゃなく
「夜明けが来る!」「新しい風が吹く!」的な
ある種のワクワク感を伴っていたような気が…?
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近況報告

2022-02-10 18:20:00 | 日記
奥さんの2022年は、甲斐さんのラジオに投稿した通り
亀梨和也さんのオーラに驚いたことから始まったんですが(笑)
実は昨年、甲斐バンドのクリスマスディナーショーに参戦した際
そのディナータイムで、飲み過ぎて椅子から転げ落ちた(汗)時に紛失したと思われる?
コンタクトレンズを新調するかどうか?悩んでいて…

って、普段はメガネを使用しており…というか
職場ではメガネを外して老眼対策を取っているし(苦笑)
家ではテレビを観る時くらいしか、メガネをかけないので
コンタクトに至っては、ほぼほぼ甲斐さんのライブ用と言っても過言ではなく
それも、前方の席が取れたレアな場合のみみたいだし…(笑)

まあ、ビルボードの前方席が、コロナ感染拡大防止のために
備え付けのメガネ型フェイスシールド着用を義務づけたままなら
メガネ on メガネにならないように「必要かなあ?」くらいの気持ちで
とりあえず座席が決まってからと、結論はツアー開幕前に先延ばしにしていたトコへ
自動車免許更新のお知らせが来て「やっぱ要るのか…」とかかりつけの眼科へ…

…というのは、免許を取得した際に、初めてコンタクトを作って下さった眼科の先生から
「コンタクトを着けていれば『眼鏡等』の条件記載を免れる」と言われたことを思い出し
以来ずっと、コンタクトを装着して更新して来たもので…(苦笑)

…で、例によって、眼球のカーブがキツイ…前方に尖っているため
特注でレンズを作って頂いたんですが「毎日、寒いから…」と
まだ、免許更新には至っておりません…(苦笑)

さて、今年のビルボードライブ&名古屋ボトムラインツアーは
昨年、一昨年の甲斐バンドでのビルボードツアーと同じく
ファンクラブの先行予約は、ローソンチケットが取り扱うとのことで
ただいま絶賛受付中…抽選結果待ち状態なんだけど

ただ、ファンクラブ会報が届く前に、ビルボードライブの公演スケジュールを見た奥さん
「本公演は、エリアの一部を予めリザーブしております」と
ファンクラブ会員用の座席が確保されていた一方で
甲斐バンドでのツアーでは、ビルボードライブ会員もファンクラブ会員と同様
ローソンチケットの管理の下、先行予約は抽選だったのが

今回は、ファンクラブの先行予約受付開始と思われる?同日同時刻から
ネットでのチケット発売開始となっていて…って
つまり、ローソンチケット介入前と同じ先着順…早い者勝ち方式が取られていて

ファンクラブ会員先行も同様の方式に戻るのかと思い
「ええーっ!?また、甲斐友さんや弟の家族を巻き込んでの争奪戦!?(汗)」と焦りまくり(苦笑)
まあ、各ビルボード会場の各公演日、各ステージごとにアクセスして
チケットを確保するには、人手が必要でしょうし…?

結局、ファンクラブ会員の方は、ローチケ抽選と判ってホッとしたものの
また、前回、前々回みたいに、抽選にハズレまくる可能性もナキニシモアラズ…どころか
クジ運のなさには絶大な自信を誇っている(笑)我が家の住人は

ツアー初日と最終日は、特に競争倍率が高いだろうと考え
ファンクラブ会員用にリザーブされているであろう?前方中央エリアじゃなくても
とりあえず、ビルボード会員枠でチケットを押さえることに…

ビルボード会員先行発売開始当日、まずはツアー最終日の東京公演2ndステージにアクセス
予想通り、前方中央エリアは販売対象になっておらず
ステージの左右に設けられた「自由席」を選択
…が「チケット購入確認画面」に表示された「入場番号」という文字にビックリ!

「えっ!?番号順に入場して、席を選べるってこと?」…って
あとから、ちゃんと説明を読んでみたら、まさにローチケ介入以前と同じ
「自由席」のシステムになっていたらしく
「若い入場番号をゲットしたら、前方の席も夢じゃない!?」と高まり(笑)

ツアー最終日の1stステージ、ツアー初日の大阪公演両ステージと
当初、購入を予定していた公演のチケットを押さえ、一旦アクセスを終了したようですが
このビルボード会員先行購入は、キャンセル料が必要とはいえ
仮に、ファンクラブ会員先行予約に当選して、同じ公演のチケットがダブったとしても
「ビルボードで買ったチケット料金は戻って来るのか…」と気づき

「念のため(笑)」と関東圏の皆さんのツアー初日になるかも知れない?
横浜公演初日1stステージにアクセスしてみたら
前方中央エリアも購入対象になっていて、思わずポチっとな(笑)
前回のビルボードツアーで当選した席と同じテーブルの席が取れたらしく

ついでに(笑)横浜初日2ndステージもポチると
前回のツアーの横浜公演…生配信があったステージと全く同じ席が振り当てられ
「えっ!?えっ!?どーゆーこと?ファンクラブ枠って、どこ?」と戸惑いつつ
同じく関東圏の皆さんの初日になるかも知れない?5月の東京公演初日1stステージへ…(笑)
すると、ナンと!最前列ど真ん中の席をゲット!?

…という訳で、勢いがついて止められなくなり(笑)
結局、ビルボード全公演のチケットをネットで購入(笑)
もっとも、ほとんどの公演は自由席(入場番号)を押さえただけなんだけど
その入場番号が若いので「端っこでも前方に行ける~♪」と浮かれながら
「チケット購入確認メール」を眺め、各公演の席をチェックしていると

「ん?名古屋ボトムラインの4公演を除いたら、18公演だよね?」となり
6月18日の東京公演を取り忘れていたことに気づき(苦笑)
慌てていたせいで、既にチケットを押さえた公演をクリックしてしまい
発売開始初日に、いきなりキャンセル料が発生するという、おマヌケな事態に…(苦笑)

ナンとか、その東京公演の両ステージのチケットを確保したものの
「こんなことなら、初めから『全部ビルボード会員で取る!』って決めていれば良かった…」
…って、まあ、奥さんが指定席を取れた公演は
ツアー中盤にあたるもので
元々、ファンクラブ会員枠が少なめになっていたのかも知れないし
名古屋公演は、ファンクラブ会員先行予約で申し込むしかない訳だし…

…ということで、ファンクラブ会員先行予約の「滑り止め」のはずが
名古屋公演以外「どこを申し込もうか?」と本末転倒な状況になった奥さん(笑)
各会場の自由席には、ステージ前の両サイド最前列のテーブルが含まれており
入場番号1番なら、まず間違いなく最前列の席を選べるみたいですが
2番だと、前の番号の方が4人以上?のグループの場合
3番だと、前の方が2人・2人でも最前列は終了…(苦笑)

今回のツアーで、予定されている座席のレイアウトと、自分の入場番号を見比べ
ビルボード東京は、ステージ両端のテーブルに着けなくても、ステージを真横から臨む席や
甲斐さん達が入退場なさる、いわゆる「花道沿い」の席を選べるとして
申込みに出遅れた(汗)6月18日の1stステージと
やはりツアー最終公演であることだしと、6月19日の2ndステージに決定

横浜は、ビルボード3会場中、一番横長のテーブル配置…
ステージ前に、横に7つ並んでおり、自由席用のテーブルは見切れ気味…(苦笑)
それでも、下手側のテーブルなら、入退場口に近いそうで、入場番号1番はキープ
2番は、上手側のテーブルか、2列目サイドのテーブルになる可能性ありで申込み決定

ビルボード大阪は、東京・横浜とは逆に、上手側に入退場口があるらしく、やはり1番はキープ
2番3番は、横に6列並んだ下手側のテーブルか
前回、前々回のツアーで座ったことがある、テーブル席エリアの外側に配置された
横向きのソファー席を選択というケースを考え、申込みを決めたものの

ファンクラブ会員枠には、テーブル席エリア後方のボックス型ソファー席も含まれているので
「あの席だったら、端っこか横向きの方がイイかなあ?」と迷っている様子(苦笑)
そもそも、当選するかどうか判らないんだけど一方でまた、そういう席を引き当てそうな気もするし…?(笑)
でも、とにかく名古屋公演さえナンとかなれば…と当落発表を待つばかりの日々です(笑)

ただ、現在「マンボウ」真っ只中で、奥さんの職場は、またまた喫煙ルームを閉鎖
屋上でのみ「喫煙可」という事態が復活しているみたいなんですが
奥さんは、前回と同様に「アリバイトリック」作りに奔走する犯人の如く(笑)
休憩時間とエレベーター待ちの時間の間で、バタバタの毎日…(苦笑)

しかも、今回は「有り得へん寒さ」との戦いも加わり(汗)
喫煙時以外の時間を、屋上の片隅に置かれたベンチで過ごすことは「狂気の沙汰」らしく
食事や休憩の時間だというのに、屋上に出る扉の前のスペースで
「ずーっと立ちっぱなし」なんだとか…って、それ、休憩じゃねーし!(笑)
更なる延長も視野に入って来た今、喫煙者の悲哀を共有することで連帯感が芽生えて来た(笑)
他部署の名も知らぬ皆さんと、吹きすさぶ風に震えながら、煙を味わっているようです(笑)

余談ですが…奥さんが以前に使っていた、ラジオの録音アプリは
番組を録音をすると、1ヶ月ごとに利用料金がかかるシステムだったので
今のアプリに変更する際に、そのシステムは解約したんだけど
それまで録音したものを聴き返すため、アプリ自体は残していて、実際、たまに聴いていたところ

今年になって、初めてそのアプリを開いてみたら
録音した番組が全て消えていたらしく「えええーっ!?」となり(汗)
アプリの管理会社に問合せたものの「調査します」との返事があったきり音沙汰なし
まあ、結局、スマホをあれこれイジっていて
録音した番組の音声が保存されているファイルを発見し、ホッと一息…

…と同時に思い出したのが、MDに保存した「セイヤング」や
大きな声では言えない(笑)「ライブ音源」のことで
昔々の「サンスト」や「セイヤング」それに「2時間の生放送」だった「セイヤング21」は
カセットテープ自体が劣化しているので、デッキを購入したとしても
ほぼほぼ再生できない状態であろうことに比べ

MDの方は、デッキさえあれば再生可能だと考え
ネットで状態の良さそうな中古品を探して購入
懐かしのライブ音源や、自分の投稿で甲斐さんが爆笑なさった放送を楽しんでおります(笑)
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甲斐よしひろ BEAT HARDWORK(2/4)4

2022-02-09 17:55:00 | メディア
次に読まれたのは奥さんの投稿…
「以前に『全国帰りたい街ランキング』で
兵庫県明石市が第1位だったという投稿がありましたが
その明石市の泉市長が、昨年末にツイッターを開設され
その3日目に、明石駅前に2台目のストリートピアノを設置したことを報告なさっていました」

…と読まれて「ほおー!」と食いつかれる甲斐さん(笑)
「今、ナンか、あの…『街角ピアノ』…NHKのBSで、ずっともう…
もう何年くらいになるんですかね?もう5年か6年…もっとなるんですか?
僕、最初の方からずっと観てますけど…

街角に置いたりとか、空港に置いたりとか、駅に置いたりとかっていうね
そういう外国のアレを…ね?ずっとやってる内に、一番最初が広島だったか?神戸だったか?
日本もポツンポツンと、そういうのやるようになって、まあ、その流れですね、これね、ハイ

…と、おっしゃってましたが、その明石市のストリートピアノを演奏する友達の隣で
バイオリンを弾いていた小学校低学年くらいの男の子が、市の職員らしき方3人に
「合奏はダメだ」との注意を受け、演奏を中止した…ということがあったそうで
その演奏をお聴きになっていた方から、泉市長宛てに投書が届き…

って、確かに、そのピアノの使用に関しては「1回10分程度まででお願いします」とか
「歌、合奏はお控え下さい」という注意事項が掲示されていて
職員の方々の対応が間違っていたとは言えないものの
泉市長は「コロナ対策とは思いますが、これは行き過ぎです」とコメント

このコメントを巡って「小学生だから可哀想なだけで、中高生なら投書しないだろう」とか
「歌はダメだけど、バイオリンはマスクをして演奏できるのに…」とか
「職員の方にしてみれば、ケースバイケースというのは判断が難しい
禁止は禁止、ルールはルールで決めた通りにするべき」といった賛否両論が飛び交う事態に…

これに対し、泉市長は「演奏する方、それを楽しむ方、迷惑に感じる方々
立場によって感じ方もさまざまだし、その時の状況にもよる
今しばらくの試行錯誤で、ご理解のほどを…」とお願いされた一方で
件の注意書きは「周りにご配慮頂き、優しく演奏して下さい」というものに変更されました
ツイッターのおかげで、対応が迅速になったのは間違いなさそうです(笑)

それはともかく…「その(ピアノ設置の報告の)際に
『ピアノは上手に弾けないし、歌もギターも下手だけど、音楽は好きだ
小学生の頃、鼓笛隊の指揮者となったが、リズム感がなく、一日で交代となった』」
…まで読まれて「…(笑)えー、そのツイートでね」とクスクス(笑)

「…と明かされ、更に『高校の文化祭だが、甲斐バンドのコピーバンドのリーダーから
トークが出来、声も甲斐よしひろそっくりと口説かれ、ボーカルとして予選に出たが
音程を外した私のせいで予選落ちとなった』」…のトコでは

「ああ、そうなんだ…(笑)昔あったねぇ!文化祭の予選ねぇ!
もう、僕らの高校、ものすっごい(数の)バンドいたんで
文化祭の時も、予餞会の時も、予餞会の予選があるっていうですね
えー、そんな高校でしたけども、ね?…文化祭に…なるほど(笑)」と話されてましたが

「九州少年」の中にも…「高校1年の終わりに予餞会の予選があった
学校は長髪も許されている自由な校風だった
そんな自由な空気ゆえか、バンドの数が多過ぎて審査があるのだ」と記されてます(笑)

ちなみに、その続きには「クラスの中で少しギターが弾ける奴等ふたりと
多少の歌心があるワタリを口説いて、5日間ほど練習をやり、見事に選ばれた
学校の体質も生徒の雰囲気も熟知していたので手始めという気分だった」とか

「2年の秋の文化祭はソロで出演した。ビージーズとドノバンの曲をやった
実は夏頃から、バンドの練習を繰り返していた…(中略)…
高校3年になる前の春休み、応募していたKBCの番組から連絡があり出演した」
…という風に「照和」デビュー前の活動に触れておられました(笑)

ともあれ…「『翌年、ボーカルだけ差し替わり、そのバンドは文化祭に出演した
以後、カラオケでも人前では絶対に歌わない』と
(『えー、そのツイッターで呟かれてね、えー、しかも、その時にですね』と甲斐さん)
ライブアルバム『CIRCUS&CIRCUS』の写真をアップなさっていたんですが(『へえ~!』)

甲斐さんが出演されていた『バイキング』で
この泉市長が、職員の方にパワハラ発言をなさった」…という部分では
「ああ!ありましたね、ハイハイハイ、ありました!
ちょっとこう…声が、こう…嗄れた、ちょっとダミ声系の感じの人ですよね?これね?
『バイキング』でやりました!やりました!」…と記憶におありだったご様子でしたけど

泉市長は、昨夜遅くに「口調もキツイし、言い方もキツイし、しかも早口で大声
もう少し落ち着いて話した方がいいとは判っているのだが…
お聞き苦しくて申し訳ありません」とツイートなさっていて(笑)
もしかしたら、高校の時のバンドリーダーの方は「声そのもの」というより
「話し方」が甲斐さんに似ていると思われたのかなあと…?(笑)

…で、投稿は続き「…と思われる音声データが公開された時には
甲斐さんにそっくりな声だなんて全く思いませんでした
それでも、私と同世代の泉市長が、高校生の頃に
明石市民会館へ甲斐バンドのライブを観に行かれていたのかも知れない
(『イヤ、これ…これ、来てるでしょ!きっと』)…と思うと、妙に親近感が湧いてしまいました

その明石市民会館でライブがあったのが木曜日だったので
まさかとは思いつつも、終演後に『ザ・ベストテン』の生中継が入るんじゃないかと
勝手にドキドキしていたことを思い出しました
ちなみに、甲斐バンドが『ザ・ベストテン』に出演なさったのは、その1週間後のことでした」

…と読み終えられ「えー、あのー、泉市長は思い出しました
あの…ちょっとアクの強い感じの市長さんですよね?
えー、イヤ、そうですか、失礼しました!
1回、ちょっとネットで、ちゃんと見て…(笑)
もう、こんなことで、印象コロッと変わりますからね、ハイ(笑)
人って、勝手なもんです、ハイ(笑)」と、おっしゃってました(笑)

ちなみに…泉市長は、その高校の文化祭出演のため
バンドが練習する場所探しに苦労なさったご経験がおありらしく
後に、中高生用の無料スタジオを設置されたそうで「音楽が好きだ」というのは本当みたいです(笑)

ツイッターを拝見していると、昼食は毎日のように「うどん」を召し上がっていたり(笑)
新宿から池袋まで、丸ノ内線1本で40分かけて移動なさったり…と
ちょっと甲斐さんとカブるエピソードがチラホラ…(笑)

個人的には、泉市長が現役で東大に合格された時に
ご近所の皆さんから、教育方針を訊ねられたお母様が
「頭が良くなるようにネギを食べさせた」とお答えになるのをご覧になって
「親父は漁師なんだから、魚って言えばいいのに…(笑)」と思われた…とのツイートが好きです(笑)

それはさておき…「ということで、えー、ウッドストックのフェスを主催した
マイケル・ラング、ね?彼が亡くなったということで…あの実写の時も…愛と平和の祭典、ね?
40万人入った…その時も出て来るし、映画にも出て来ますけど
彼は馬に跨がって、颯爽と出て来るんですよ

それ、とにかく、まっ、敷地がすごい…牧場が広過ぎるんで
かといって、その…もう、人の波がスゴイんで
バイクとかっていうのも、ほとんどもうダメで
で、彼はそこで一計を案じて、馬に乗って、そいで、ずーっと、あの…
その馬で颯爽と、敷地内をね、走るという…えー、見て回るという…
えー、どちらにも、それは出てますけども、ハイ

えー、まっ、そういう…ホントにあの…彼がいたことで、そういう初めて…
まっ、最初はお金取ってたんですけど、途中からもう…10万人くらいになった時に
『もう、タダでいい!』っていう風にしちゃって、結果的に40万…
えー、もっと入ったというね、えー、ことでした

しかも、そのあと彼は、ナンと『ウッドストックがやってくる!』って映画の最後に
彼が発言するトコがあるんですけど、それは『次もやるぞ!』って言って
『次はストーンズだ!ローリング・ストーンズだ!彼らは美しい!』っていうところで…
えー『サンフランシスコの郊外でやるから』っていうところで終わるんです、映画が…

で、ホントにやってますから、ええ…だから彼が、あのー、ストーンズの…えー、フリーコンサートは
彼が実は、やっぱやってたということですね
えー、スゴイことです、ハイ
その『ウッドストックがやってくる!』のサウンドトラックからもう1曲、ザ・バンド…
これも、えー、ウッドストックの映画の中では…ない…ないですね、あの実写の中では…
えー、ザ・バンド『アイ・シャル・ビー・リリースト』」を流されたあと

「えー、で、今年もビルボードライブと名古屋ボトムラインのツアーが行われます!
スケジュールをお伝えしておきましょう」とツアー日程などを読み上げられ
「ということで、甲斐よしひろ『レイン』」…って、今年のツアーで聴けるってこと?(笑)

曲が明けると、メール募集の告知があり
「えー、まさか1ヶ月前の新年最初の放送の時点では…ねぇ?
こんなにオミクロン株が、日本でこんなに猛威を振るうとはね、思ってなかったんですけど
まあ、1日1日…日々、状況が変わってると…
南アフリカは、1ヶ月半でピークアウトになって、急激に落ちましたけど
えー、ただ、あのー、ナンて言うんですかね?

その…落ちてる国もあるんですが、逆に上がっている所もあるんで…
まあねぇ…ホント、ちょっとこればっかりは…
(日本は)このまま、1ヶ月半っていうことになると
2月の20日前後くらいから落ちて行く…なったら有難いんですけど…
ということで、今日はこの辺りでお別れです」…で放送終了
ビルボードツアーが始まる頃には、落ち着いていて欲しいですねぇ
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