前回のブログで書いた1969年という年に関して、もう少し続けたいと思います。
サザエさんも1969年に誕生した、とのコメントもいただきました。
そうそう、そうでしたねぇ (40周年記念ドラマを見なかったのが残念)。
サザエさんが始まったこの年に、映画「男はつらいよ」シリーズも始まりました。
う~ん。 1969年のことについて書き出すと、止まらない僕なのです。
6月から8月まで自転車で放浪の旅をしていたので、余計に思い入れが強いわけで…。
以前別のブログで書いたことを、またここでも書いてしまうわけで…。
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このころは、若者も、社会全体も、エネルギーに満ちていたように思う。
僕の同世代の学生の多くは、このころ盛んだった大学紛争に傾倒していた。
全学共闘会議(全共闘)の学生らが1月に東大安田講堂に立てこもり、
警視庁は機動隊を導入、凄まじい攻防の果てに、学生らは排除された。
僕の大学も含めて、全国各地で大学紛争が繰り広げられていた。
また、若者の間では、ベトナム反戦運動と連動して反戦の歌が流行した。
特に東京の新宿西口広場は、フォークソング集会の若者たちで埋め尽くされ、
ここにも機動隊が導入されて、僕の旅行中の6月~7月が騒動のピークだった。
自転車で東京へ着いて新宿に泊まったのが8月だった。
西口広場は、反戦を掲げる若者のメッカとして、怒涛のように賑わっていた。
しかし、僕はそんな世の中の騒ぎなどはどこ吹く風で、
学園紛争にも参加せず、大学の講義もほどほどにサボり、
せっせとアルバイトに精を出し、お金を貯めて自転車旅行に出発したのである。
この年の最大のニュースは、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功したことだった。
69年7月21日。
僕は北海道・網走で、泊めてもらったお家のテレビで、その生中継を見た。
沖縄が、3年後の72年に日本に返還されることが決まったのも、この年だった。
まだ、沖縄旅行にパスポートが必要とされる時代であった。
翌年は、大阪で、わが国初の万国博覧会が開かれることになっていた。
自転車旅行中に出会った人たちも、来年は大阪へ万博を見に行きたい…
そう言って、何人もの人たちが、大阪に住んでいる僕を羨ましがった。
CMでは丸善石油の 「オー・モーレツ」 が流行した。
小川ローザのスカートが、猛スピードで通り過ぎる車の風にあおられるポスターは、
僕がこの自転車旅行中に、何十回、何百回と目にした光景であった。
仕事のため全てを犠牲にするモーレツ社員が、もてはやされていた時代であった。
流行語といえば、「アッと驚くタメゴロー」 などという言葉が大流行した。
万年筆の宣伝で 「はっぱふみふみ」 というのもあった。
電話のプッシュホンというのが、初めて登場したのもこの年だ。
そして前述のとおり、映画では「男はつらいよ」シリーズの第1回作品が上映され、
テレビでは、「サザエさん」 の放映が始まったのである。
出版界では、庄司薫の 「赤頭巾ちゃん気をつけて」 が飛ぶように売れ、
僕の好きな北杜夫の作品では 「さびしい王様」 がベストセラーになった。
歌は、シューベルツの「風」がヒットし、その歌詞は僕の旅のテーマと重なった。
また、19歳の新人、和田アキ子の 「どしゃぶりの雨の中で」 がヒットしていた。
僕は、北海道襟裳岬付近で、それこそどしゃぶりの中で自転車を走らせていたが、
そのとき、イヤホーンで聴いていたラジオでこの歌が流れたので苦笑いしてしまった。
「フランシーヌの場合」 は、新宿の 「歌声喫茶」 で聴き、思わず落涙した。
ビートルズは来日から3年経ち、グループの求心力は弱まりつつあった。
この年は「イエロー・サブマリン」ぐらいしか印象がない。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが結婚式を挙げ、翌70年にビートルズは解散した。
そんな世相の中で、僕は20歳の夏を、自転車の旅の中で過ごしていたのだった。
「二十歳の原点」 という言葉がある。
僕たちの世代では、知らない人はいないほど人口に膾炙した言葉であるが、
これは、高野悦子さんという女性が書いた日記の題名であり、
1970年代の始めに出版されて、超ベストセラーとなった。
「二十歳の原点」という言葉は、それ以降、普通名詞になった。
成人した人たちは、誰でも自分の二十歳の原点を持っている。
青春の真っ只中にあって、大人としてのスタートでもある二十歳。
皆さんは、二十歳の頃を、どのように過ごされたのだろうか?
僕の二十歳の原点は、この自転車旅行そのものであった。
混沌、無計画、成り行き任せの青春グラフィティ…といえば聞こえが良すぎる?
「二十歳の原点」 を書いた高野悦子さんは、1949年1月2日生まれだった。
僕が1月9日生まれなので、ちょうど1週間前に彼女が生まれたことになる。
栃木県那須の人だったが、京都の立命館大学に入学した。
69年に全共闘の運動に参加し、その中で大きな挫折を味わう。
アルバイトで生活費を捻出するが、アルバイト先で失恋をして、
深い疲労感とともに、絶望の淵に沈んでゆく…。
そして彼女は、69年6月24日、列車に身を投げて20歳の生涯を閉じるのだ。
6月24日…。 この日は、僕は自転車旅行で新潟にたどり着いた日である。
その後、彼女の下宿から10数冊にも及ぶ大学ノートに綴られた「日記」が発見された。
それらは父親によって整理され、栃木県の同人誌に掲載されて大きな反響を呼び、
1971年に大手出版社から 「二十歳の原点」 と題して刊行された。
これが大ベストセラーとなったのである。
この本の中で、彼女の1月15日の成人の日の日記に、
「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
…そう書かれていた。
~ 独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である ~
同じ年の同じ月に生まれ、1969年・20歳の夏、僕が自転車旅行をしている時に、
貨物列車に身を投じた彼女が、その年の1月の成人式の日に記したこの言葉…。
40年後の今でも、忘れられない言葉である。
シューベルツの「風」覚えています。好きな歌でしたが、口ずさむと親にしかられました。(?)
「二十歳の原点」高校時代かな??読んだのですが、恐かった・寂しかった覚えがあります。
20歳・・・。
夢も一杯ありましたが、悩みもいっぱいありましたね。
夫と出会ったのもこ20歳になって間もなくでした。
恐いもの知らずだったけど、不安に押しつぶされそうだったり・・・。
成人とはいっても、まだまだあやふやな人間だったような気がしますね。
当時私は同志社の学生で、立命館の門の前にある「しあんくれーる」という1Fがクラシック2Fがジャズの喫茶店によく通ってました。
二十歳の原点の中にも「しあんくれーる」が出てくるはずですよね。丁度立命館の正門の前にありましたから、高野さんも気安く通えたのでしょうか?多分彼女はJAZZを聴いていていたのでしょうね。私もJAZZを聴いていました。1Fのクラッシックの店の方には一回も入ったことがなかったですね。
勿論高野さんを意識してこの店に入っていたことはありませんでしたよ。知らなかったですよ、ある時期。彼女がこの店に通ってたことは。学校の帰り道によく寄ってたので、もしかしたら会っていたかもしれません。
でも死ぬことはなかったと思いますよ。
私も当時は「僕たちの失敗」を地で行くような青春を送ってましたが、本当に死ぬことはなかったと思いますよ。もっと視野を広く持って欲しかったですね。
何年かまえ「しあんくれーる」があるかどうか確認しに行きましたが、影も形もなかったですね。
心の中にだけ今もありますね。
のんさんの心の中に1969があるように---。
のんさんの忘れなれない青春時代に生まれて光栄です?私は2月26日生まれなんで、出発前ですかね?
こうして拝見していると、なんとも色々あったんですね~。
ちなみに沖縄返還の翌年に、家族で旅行へ行きました。かすかに覚えているのが、車の中から見た、さとうきび畑に夕日が真っ赤に沈んで行く風景です。。幼稚園でも覚えてるもんですねぇ。
~ 独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である ~・・・・
うわぁ、強烈に残りますね。なんだか今の私でもはまるような言葉で。。四十の原点?
それにしても、若くして亡くなると言うのは切ないですね。
アナザービートルさんは同志社だったんですね。私の中学の家庭教師が同志社の学生さんでした。。なのに、こんなにアホに終わりすみません。なんのこっちゃ
なんででしょう…??
別に小学生に害のあるような歌でもなかったと思いますが。
「そんなん歌うと、風邪が移るでぇ~」ってこと? …まさかね~(笑)。
「二十歳の原点」を高校生のときに読まれたのですね。
あまりにも悲しくて切ない話ですよね。
高校生の頃の読書が一番心に刻み込まれやすい…と言われますが、その頃に読まれたのでしたら、のこたんさんの中には、今もその読後感覚が強く残っているのでしょうか。
20歳の時にご主人との出会いがあった…というのも、思い出深いですね。
ずいぶん、若い頃から出会われていたのですね~。
ま、僕も人のことは言えませんけど。
夢と希望、怖いもの知らず、悩みと不安、恋愛…というのこたんさんの20歳。
二十歳の原点とは、そういうことなんだなぁ、と改めて思いました。
死ぬ、という選択しか出来なかった彼女の心情はどんなだったでしょうか。
アナザービートルさんは高野さんと同じ京都の大学だから、身近な存在でしたね。
しかも、同じ喫茶店に行っている。
本当に、そこで何回も会っていた可能性が高いですよ。
僕は、高野さんの書いた文章しか知りませんから、やはり、彼女の存在は、いくぶん現実離れした感覚もあり、彼女の死も必然的結末のような気がしていましたが、アナザービートルさんは、同じ喫茶店に通っていたという現実があったので、「死ぬことはなかった」との感想が強いのだと思います。
それだけ、僕なんかよりもずっと、彼女との距離が近かったわけです。
アナザービートルさんと高野さんが出会って、友達になっていたら、
「もっと強さを持って、もっと視野を広く持って」とアドバイスできたかも。
そうすれば、彼女の人生も、また大きく変わっていたのではないかと…
どんどん想像はふくらんでいきます。
アンネ・フランクが生きていれば今年で80歳でしたが、
高野さんも生きていれば今は還暦。なんだか不思議な感じがします。
本当はそれも書きたかったのですが、いけないことだと思っておりましたんで…(笑)
それにしても、2月26日って言うのは、なんとも強烈な日ですね~。
あと数百年したら、2・26事件は yukari 嬢が生まれた日だった、…な~んて、歴史の教科書に載ったりしてね。 なんで「事件」やねん!
二十歳の原点に四十の原点…とくれば、六十の原点もありますよね。
でも、僕がこの年になって原点、ということもないか。
六十歳の頂点…。 これは、どあつかましい。
六十歳の有頂天…。 これは、単にアホやがな。
では、六十歳の終点…。
これはいくらなんでも絶望的すぎる。
同い年のアナザービートルさんに叱られるな~。
やっぱり、今の自分の生活を振り返ると、六十歳の減点、というのがふさわしいかな~
なんか、60歳の減点というのは、身に沁みますね。
まあ、人に笑われるという意味で60歳の笑点よりましですか?
60歳の、頂点、有頂天、終点、減点、笑点。。。さすが、視点がちゃいますわ~。色々考えつきますね~
私は今まさに人生の分岐点にいるような感じですわ
しかしまぁ、人に笑われているうちはまだいい…と思っておきましょう。
60歳の昇天…よりか、少しはマシということで。
もしも今、yukariさんの前に、5月15日生まれの男性が現れたら、
これはもう、何かの運命としか考えられませんね。
相手は4歳年上です。 なんのこっちゃハト麦茶。