殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

始まりは4年前・7

2024年08月05日 13時43分14秒 | みりこん流

『ドタキャンの女王』

音楽会に出たくない母は、数日の間

私を呼んだり電話をかけては、ああでもないこうでもないと

定番の行ったり来たりを繰り返していた。

容赦なく人の時間を食い潰しながら

自分がその気になる時期をじっくり待つ…

これは昔から彼女の悪癖なので、今さら驚かない。

私の気が長いとしたら、それは母に訓練されたのである。

 

やがて音楽会が明後日に迫った日

歌姫はようやく先生に欠席を伝え、あっさり了解された。

舞台を蹴った歌姫は、「このまま引退する」と宣言。

その表情には、欠席を受け入れてもらえてホッとした反面

言葉を尽くして引き留められなかった寂しさが垣間見えた。

 

それでも音楽会を欠席し、コーラスの引退を言い出してから

母は幾分、落ち着いたように感じた。

コーラスに諦めがついて楽になったのか

涼しくなって体力的に持ち直したのかは不明。

しんどいと言っては通っていた内科医院も

たまの点滴も間遠になった。

 

さて例年なら、この音楽会を最後に年内の行事は終わる。

けれどもその年は、12月の始めに大イベントが控えていた。

先生がコーラスグループを立ち上げて30周年の

記念コンサートが行われるのだ。

 

コンサートが近づくと、歌姫の虫は再び騒ぎ出す。

また先生に頼んで送迎をしてもらい、練習に励むようになった。

「私はね、このコンサートだけは出演したいの!

これを最後に引退する!」

歌姫は、キッと顔を上げて断言するのだった。

 

「もう引退したんじゃなかったんかい…」

怪訝そうな私を見て、彼女はムキになる。

「先生の弟子になって25年…

私の送り迎えまでしてくれて、25年よ?!

その恩人の記念コンサートを欠席できると思う?!

私はそんな恩知らずじゃないけんねっ!」

少し前に言ったことと、今日言うことが正反対なのは

彼女の場合、普通である。

 

「はいはい、頑張ってください」

「言われんでも頑張るわいね!」

燃える歌姫であった。

 

30周年記念コンサートが、いよいよ明日に迫った。

前日のその日は、実際の会場を使ってリハーサルをする予定だ。

直前まで張り切っていた歌姫だが、急に行きたくなくなった。

「どうしても行けません」

先生に連絡すると驚いた様子だったものの

歌姫の決心が固いのを悟り、快く欠席を受け入れてくれた。

 

そして一夜明けた当日の朝、歌姫は突如コーラスへの情熱が復活したらしく

泣きながら先生に連絡して訴えた。

「先生…やっぱり私、歌いたい!」

 

先生の反応は冷ややかだった。

「無理よ。

あなたが昨日のリハーサルを欠席したから

みんなの立ち位置が変わってしまったのよ。

本番で急にあなたを戻したら

また立ち位置が変わって、みんなが戸惑うでしょう」

「でも先生、私は歌いたいんです!歌わせてください!」

「ダメよ」

もうワガママは許されなかった。

 

母は自分一人で処理できない問題が起きた時

いつもそうするように、この日も私を呼んだ。

「胸が苦しい!」

と言うので駆けつけたら、またコーラスの件だったので脱力。

話を聞いて、そりゃ苦しかろう…とは、一応思った。

 

「私はただ歌いたいだけなのに!

私のどこがいけないと言うの?!」

ワッと泣き崩れる歌姫。

全部じゃ…と言いたいけど、面倒くさくなるので我慢。

気分を変えてやろうと思い、ドライブに連れ出したが

歌姫の心が晴れるはずもなかった。

 

『荒ぶる魂』

母はその翌日から、胸が苦しいと言っては

とんでもない時間に私を呼ぶようになった。

それでも初回ということで、少しは我慢したのだろう。

電話がかかったのは午前7時だった。

家族を仕事に送り出して駆けつけたら8時になったので 

A先生の所へ連れて行く。

そしていつものように、母の希望で点滴だ。

 

「家で待つか用事を済ませるんなら、長い点滴にするけど?」

A先生は私に問う。

点滴の容量で、時間を調節できるらしい。

「ありがとうございます。

こちらの待合室で待たせていただいてもいいですか?」

と言ったら

「じゃあ早く終わるように、短いのにしとくね。

点滴といってもただの電解水なんだから

あれで元気になるわけないじゃん」

そう言って笑うA先生は、母の詐病を見抜いているらしい。

 

点滴で元気になった母を連れて家に帰り、義母に経過を報告。

それから我が家で一番、家庭的な長男に連絡して

家族の昼ごはんをどこかで買い揃えるように依頼。

母には朝と昼を兼ねた食事を摂らせ、行ったり来たりの話や

コーラスの恨み言を拝聴して午後に帰宅した。

 

そして同じ日の真夜中…

正確には午前3時に、また母から電話だ。

「胸が苦しい!」

どうせ昼まで逃げられないんだから…と思い

ゆっくり化粧をして出かける。

そしてまた午前8時を待ち、前日と同じローテーションをこなした。

母は、舞台に上がらせてもらえなかった悲しみが頭から離れず

苦しんでいる様子だった。

 

それにつけても彼女ほど

何でも思い通りにしてきた人生を他に知らない。

しかし年を取ったことで肩書きや味方、自信や体力を失い

ただの老人になった。

ただの老人を、人は特別扱いしてくれない。

ヒロイン気質の母は、その現実を受け入れたくないようだ。

 

これまで彼女が周囲に振りかざしてきた刃(やいば)は

その鋭さゆえ、身が衰えても消えることは無い。

振りかざす相手がいなくなった今

研ぎ澄まされた刃は血や涙を求め続け

あげくに我が身を傷つけるしか無くなった…

母を眺めつつ、そんなことを思う私だった。

《続く》

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始まりは4年前・6

2024年08月04日 15時13分19秒 | みりこん流

『嘆きの女王』

足の痛みが消え、いっときは喜んだ母だが

お産以来、初めて味わった激痛の記憶に怯え

一人暮らしの不安はさらに増した。

秋に90才になることを異様に意識し始め

「もうすぐ90になる」、「90年は長過ぎる」

「90になってまで、まだ生きないといけないのはつらい」

母の語録に“90”という数字が頻繁に登場するようになった。

 

そして周囲の幸せそうに見える人を数え上げては羨ましがり

「それに引き換え私は、みじめな一人ぼっち…」

そう嘆くのを繰り返したあげく

「あんたは家族に囲まれて楽しく賑やかに暮らしとるのに

何で私だけ、一人で寂しい老後を送らんといけんの?!」

と逆ギレ。

嘆きが高じると攻撃的になるのは人間の本能らしいが

母の嘆きに付き合う気は毛頭無い。

これらは皆、老いという病いのうわごとなのだ。

 

後から知ったが、母は同じ時期、自分の娘にも

「親を放っておいて平気なあんたは、冷たい子じゃ」

「“あんな婆さん、ほっとけ”いうて、旦那が言いようるんじゃろう」

などと、電話で責めていたらしい。

継子も厄介な立場だけど、ヘタに血が繋がっている実子は

遠慮の無い親の毒をダイレクトに受けなければならない。

実子も大変なのだ。

 

後から知ったというのは

母の実子…つまり13才年下の腹違いの妹マーヤと私が

何十年も前から意図的に連絡を取り合っていなかったからだ。

継子と自分の子が親しくすることを、母は昔から激しく嫌っていた。

これはなさぬ仲特有の心境だと思うが

自分の生んだ子供と、先妻の生んだ継子の間に

はっきりと線を引いて上下の身分差を作り

別ものとして扱いたい気持ちが強かったのである。

 

けれどもマーヤは、母が構築した特殊な環境に

影響されるタイプではなかった。

私と同様、父の遺伝子を多めに受け継いだマーヤは

大柄な身体つきや、のほほんとした考え方が似ており

小さい頃は姉ちゃん、姉ちゃんと慕ってくれたので可愛く思っている。

しかし、むやみに接触して母に知れると厄介が起きるのは確定であり

連絡を取り合うような用件も無かったため

結婚式や葬式以外で顔を見たことは無く、年賀状程度の交流を続けていた。

 

マーヤと連絡を取り合うようになったのは

母の問題がいよいよ深刻になってきた今年の初めからだ。

母と私は養子縁組をしてないので、戸籍上はあかの他人。

しかも同居人でもないとなると

入院や、亡くなった際の公的な手続きに支障が出る場合があるのを

私はこれまでに色々な人から聞いたことがあった。

こういうことは急に起きるものなので

準備のために連絡を取ったのが最初である。

 

 

さて、嘆きの女王は嘆き続けたまま、夏を迎えた。

この頃には、しきりに「しんどい」と言うようになり

母が長年、検診を受けている近所の内科医院へ

連れて行くことが増えた。

 

内科医院のA先生は、私より一つ上の男性。

家が近いので子供会が一緒で、彼が医大生の頃

なぜか一緒にカラオケをしたことがある。

あの頃の彼は、髪を肩まで伸ばしたイケイケあんちゃんだったが

何十年ぶりかに見たら、今は亡き先代の院長そっくりの

プックリした優しいおじさんになっていた。

 

母はこのA先生が大好き。

「先生…しんどいんです…」

倒れ込むように診察室へ入っても

彼の顔を見て、優しい声で優しい言葉をかけてもらうと

不思議に元気が出るのだった。

 

夏という季節柄、母は脱水症状の予防として

点滴を打ってもらうようになった。

点滴を打つと気分が良くなるので、母は毎日のように行きたがった。

しかしA先生が言うには月に3回程度しか打てないそうで

母は点滴の日を待ち焦がれながら、嘆き続けて秋を迎えた。

 

涼しくなっても嘆きの女王は相変わらず

どうにもならないことを嘆いていた。

しかし、ご記憶だろうか…

母は嘆きの女王である前に、歌姫でもある。

11月の文化の日、歌姫のコーラスグループは

市が単発的に主催するイベントにゲストとして招かれ

短い歌を一曲、歌うことになっていた。

 

「たった一曲のために行くのはしんどい」

母はそう言って、このイベントを早々に断った。

「早めに判断してエラい!」

歌姫の舞台を見に行かなくて済む私は、その決断を大いに賞賛した。

 

イベントの当日は、大雨が降った。

メンバーの人たちは、ドレスや靴の入った大荷物を持って

会場に集まるのが大変だったようだ。

所定の場所でドレスに着替えた後

舞台に上がるまでの道のりにも難儀をしたという。

参加したメンバーから、それを聞いた母は

「やっぱり行かなくてよかった!」

と大はしゃぎで電話をしてきたものだ。

 

けれども次の練習日…

共に大雨の試練を乗り越えたメンバーの間には

何やら特別な結束が生まれていた。

歌姫としては、これが面白くなかったようだ。

 

秋は芸術のシーズン。

イベントの翌週には、毎年恒例の市民音楽祭が開催される。

市内で歌や楽器の音楽活動をする面々が一堂に集まり

日頃の練習の成果を披露するのだ。

歌姫はこの音楽会に出たくないと言い出し

理由として、胸元や腕を出したドレスが寒いと主張した。

 

イベントの後、グループの雰囲気が変わっていたショックを

引きずっているのじゃな…

私にはピンと来たが、面倒なので余計なことは言わない。

好きにしたらいいのだ。

しかし、音楽会は来週じゃんか。

「出んのなら、先生に早う言わんと」

私は、もしや音楽祭を見に行かなくて済むかも…

そんな期待を胸に秘め、母にはそう言った。

《続く》

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始まりは4年前・5

2024年08月03日 14時30分16秒 | みりこん流

先生の着信拒否にショックを受けた母が

コーラスに行かなくなったので

ボイスレコーダーから解放された喜びを味わっていた私。

けれども世の中には親切な人がいるもので

コーラスのお仲間が、先生と母の間を取り持ってくれた。

 

何ヶ月か経っていたのもあって先生は怒っておらず、お仲間に

「あなたがいないと寂しいから、早く戻ってね」

などと言われるのも嬉しくて、母はしれっとコーラスに復帰した。

今回も、先生の送迎付きだ。

きついので有名な先生だが、かなりの人格者らしい。

 

母のコーラス再開で、またボイスレコーダーが浮上すると身構えた私だった。

けれども今回はボイスレコーダーのボの字も出ず、いささか拍子抜けした。

最初は忘れたのかと思っていたが、真相はどうやら違うらしい。

辞めると言い出したのは、実はボイスレコーダーが使えないから…

そのことをコーラスのお仲間に知られたくない一心だった。

 

あらぬ所で気位の高さを発動するのが、老人というもの。

文明の利器が使えないことを恥じるより

歌は命よ生き甲斐よと豪語して25年…

未だ音符ひとつ読めないのを恥じるべきだと思う私は

意地悪だろうか。

 

さらに母のコーラスグループもご多聞に漏れず、高齢化が深刻だ。

30年前の発足当時は30人いたメンバーも

歯が抜けるようにいなくなり、今では半分以下。

そのため先生が難解な新曲へのチャレンジをやめ

その年以降のコンサートでは、過去に歌った曲をやるようになったので

メロディーを暗記する必要が無くなったのも一因である。

いずれにしても、私には幸運なことだった。

 

ところで、こんなハタ迷惑を繰り返して平気なのか…

普通は思うだろう。

母は元々そういう人なので

私はその行為自体に取り立てて異常を感じなかった。

しかし、その行為は主に身内の前で見せるものと決まっており

外部に披露することは無かったはず。

隠していた面を、他人の前で惜しげもなくさらした現実には

多少の危機感を持った。

 

内と外の顔が同じになってきた…

それは彼女の理性が薄れてきたことを意味する。

今思えばあれが、認知症の前触れだったのかもしれない。

 

コーラスに復帰した母に強制され

私は再びコンサートを見に行くようになったが

舞台の母は、もう以前の母ではなかった。

無理に真っ赤なドレスを着た、ヨボヨボのお婆ちゃん。

歌姫どころの騒ぎではない。

母がよその老人を見て、みっともないと軽蔑していた

“引き際の間違い”を、自身が体現しているのだった。

 

そのうち母は、家に人が来るのを嫌がるようになった。

玄関先で応対できる相手であれば、話ができるので歓迎ムードだが

浄化槽の点検や家電の修理で、あんまり知らない人が家に入るとなると

泣きながら電話で私を呼ぶ。

一人で応対するのがつらいので、お前も来いというわけだ。

 

中でも特に嫌がるのが、お坊さん。

祖父の代から、うちには毎月お坊さんが来てお経をあげる。

その2年前、納骨堂を買った時にはチヤホヤして頼っていたお坊さんが

急に嫌いになったらしい。

日頃は公務員の年金の多さを自慢していながら

毎月のお布施がもったいないとまで言うようになった。

 

お坊さんが来るのを嫌がるのは、認知症の老人を抱える家族からよく聞く。

激しく嫌がるので、家族はスピリチュアル関係を疑うが

私は物理的な理由だと思っている。

仏壇はたいてい玄関から離れた家の奥にあるので

お坊さんを嫌がるというより

他人に奥まで入られることに抵抗を感じるようだ。

 

『魔の訪れ』

月日は経ち、昨年の春。

相変わらず、母の丁稚(でっち)として

気ままな命令に奔走する日々を続けていたある日

母が「足が痛い」と言い出したので

私の住む町にある整形外科へ連れて行った。

 

検査の結果、『巨大椎間板ヘルニア』と診断。

レントゲン写真でも、脊髄からボコッとコブのように

大きなヘルニアが飛び出している。

このコブが、母の左大腿部に痛みをもたらしているそうだ。

通常なら手術かブロック注射が妥当な症状だが

89才の高齢なので、鎮痛剤で様子を見ることになった。

 

怪我や病気をしたことのない母は、痛みに弱い。

今度は、泣きながら足の痛みを訴える電話が続く。

しかし、痛いのはどうしてやることもできない。

困ったことになった…と思いながら週に一度、通院することになった。

 

そして1ヶ月後、奇跡が起こる。

あれほど痛がっていたのに、ある朝、起きたら痛みが消えており

それっきり痛がることはなくなったので、通院も終わった。

 

「なんと、よう効く薬じゃ」

病院慣れしてない母は、薬で完治したと思っている。

しかしそれは普通の痛み止めであり、ヘルニアが治る薬ではない。

そんなすごい薬があったら、全国のヘルニア患者が欲しがるだろう。

私は彼女の脳を疑うようになった。

 

仲良し同級生で結成する5人会のメンバー

けいちゃんのお母さんがそうだったのだ。

アルツハイマー型認知症で病院に入っていたが

ある日、右利きのはずのお母さんが左手でごはんを食べていることに

看護師が気づいた。

検査をしてみたらベッドから落ちたのか

右腕がポッキリ折れていたという。

認知症でなければ七転八倒して痛がるはずが、脳が萎縮しているため

神経が麻痺して痛みを感じなかったそうである。

 

けいちゃんのお母さんと同じケースかもしれない…

そう思いはしたものの、ここが他人。

私は急に痛みが消えた理由をはっきりさせたいとも思わず

再発の恐れも気にならず、ただ「痛い、痛い」の電話が無くなったので

ホッとするのみ。

母の所業をあれこれ言っている私だが、“しょせん他人”はお互い様で

ただ過ぎ去ればオールOKの冷酷な継子である。

《続く》

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始まりは4年前・4

2024年08月02日 10時10分09秒 | みりこん流

ボイスレコーダーは、長く私を苦しめた。

その後、機械が悪いと言って合計3台買い替え

その度に使い方がわからなくて夜昼無く家に呼ばれ

電器店で説明を受ける繰り返しが続いた。

 

その間、母は根性で新曲を覚えていたが

それもしんどくなったのだろう…

再びコーラスを辞めると言い出す。

「先生にはもう言うた。

年齢的にしんどいのなら仕方がないわね、と言うてくれた」

サバサバした様子だった。

引退を大々的に表明して恥をかいた前回の失敗があるので

今度はメンバーに言わず、先生だけに伝えたらしい。

ボイスレコーダーから解放された私もまた、ホッとした。

 

が、それで終わらないのが母。

「やっぱり続けたい!」

数日後にはそう言い出して、先生に復帰を頼んだ。

 

今回も先生はすんなり受け入れてくれ

次の練習日も迎えに来てくれることになった。

が、その日が来ると、母はやっぱり行きたくなくなった。

家の前まで迎えに来た先生に

「やっぱり私、行けません」

と言い、車に乗らなかったのである。

 

それから数日後、地獄の底から聞こえてくるような

暗く低い声で母から電話があった。

「携帯に何回電話をしても出んということは、壊れとるんかね」

「どこへかけたん?」

「……」

黙秘。

「家の電話にかけたらいいじゃん」

「認知症の旦那が出たら面倒くさいけん、嫌じゃ」

このデータによれば、どうやら相手はコーラスの先生らしい。

 

少しずつ話を聞き出して、着信拒否されたと判明。

せっかく先生が迎えに来てくれたのに行かなかった…

それを気に病んだ母は何度も先生に電話をして

次は必ず行くと言ったり、やっぱりこのまま辞めると言ったり

いつも私にやるように、行ったり来たりを繰り返したのだろう。

私は慣れているが、他人なら迷惑この上無い。

先生は、母の電話に出るのをやめたのである。

 

正しい措置だ。

先生は複数のコーラスグループを指導しているので、忙しい。

認知症のご主人と暮らしながら

独りよがりの長電話に付き合う暇は無いのだ。

母は自分だけに注目して欲しくて電話をかけまくるが

先生はたくさんの弟子を見なければならない。

それを認められないのが、母である。

私だって着信拒否したいぞ。

 

ここで一瞬、思案する私。

着信拒否されたと母に言うべきか

それとも言わずに「どうしたんかねぇ?」とトボけておくべきか。

言ったら、ショックで立ち直れないだろう。

言わなかったらコーラスの他のメンバーに長電話をかけまくり

大勢の人を苦しめたあげくに、やっぱり着信拒否されるだろう。

母は昔から、電話魔なのだ。

 

“不幸になる人数は少ない方がいい”

私の持論により、母にはっきり言った。

彼女はトップスターではなく、周囲の配慮と慈悲によって

メンバーでいられる一介の老婆だと

ここらで自分の身の上を認識した方がいいのだ。

 

着信拒否を伝えると

「私は先生に見捨てられた…もうおしまいじゃ…」

母はさらに低音でつぶやく。

「もう少し、日にちが経ってから電話してみんさい」

「……」

 

先生に着信拒否されたのが、よほどショックだったのだろう。

母は、その日を境にガクンと弱気になった。

持ち前の執拗で周囲を戦意喪失させる手段により

何でも思い通りにしてきた母だが、初めて通用しなかったのが先生。

母にとっては前代未聞の、着信拒否なる措置を実行された衝撃は

かなり大きかったと思われる。

 

以後、母は一人暮らしの不安や寂しさを訴えることが増え

これから先の身の振り方をしきりに案じるようになった。

それまでは「最後まで一人暮らしを続けて頑張る」と

自身に言い聞かせるようにたびたび口にしていたが

「どこでもいい…一人じゃなければ…」

という考えに変わり、老人ホームに憧れるようになった。

 

しかし身体のどこにも悪い所が無いので、入居資格が無いのが難点。

毎月検診に行く地元の医師にも、健康には太鼓判を押されている。

施設に入りたいと頼んだら

「ハハ…要介護も付いてないのに無理ですよ。

まだまだ大丈夫」

そう言われて落胆していた。

 

とはいえ母の本心は、老人ホームではない。

関西に住む自分の娘と暮らしたいのだ。

だけど知らない土地へ自分が行くのも、娘婿に気兼ねをして暮らすのも嫌。

母の願いはただ一つ、娘に単身で帰って世話をしてもらいたい。

 

が、その願いを叶えるためには難関がある。

娘夫婦を別居させ、3人の子供たちとも引き離し

さらに仕事を辞めさせなければならない。

 

50代の娘は、母の強い希望で教師になった。

それをみすみす辞めさせるのは、さすがの母も躊躇していたが

ある日、思い余って娘に今後のことを相談。

もちろん、その答えは母が期待する内容だと信じている。

 

娘は軽〜く答えたという。

「こっちに来れば?いい老人ホームがたくさんあるよ」

その言葉に、自分の世話をする気は無いと悟って衝撃を受けた母は

もう帰って来いとは言えなくなった。

継子の私には強気だが、娘には嫌われたくないので遠慮がち。

世間の姑と同じである。

 

ともあれ、コーラスの先生と我が娘…

一番思い通りにしたい執着の対象が、思い通りにならない…

このダブルのジレンマが、母の精神を追い詰めて行ったように思う。

元々、壊れていると言えば壊れている人なんだが

敬愛する先生と最愛の娘にトドメを刺された格好だ。

 

遅まきながら、ここから母の思い通りにならない人生が始まった。

今思えば、これら一連の言動は鬱病の症状だったのかもしれない。

現在、精神病院へ入院している母の病名である。

《続く》

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始まりは4年前・3

2024年08月01日 08時52分25秒 | みりこん流

“歌姫”の電話攻撃は、3日、4日と続いた。

日に何度も携帯、あるいは家の電話にかかり

1時間単位で拘束されては同じ相槌を繰り返している私に

家族は「またか」と呆れつつ、同情するのだった。

 

何日目だったか、母の姪の祥子ちゃんから電話があった。

その内容は、母の電話に辟易しているというもの。

「私はあの人が37であんたとこへお嫁に行くまで

一緒に暮らしてたんだから、難しい性格はわかってるし

できるだけ合わせてきたけど、もう限界」

その気持ちはよ〜くわかる。

 

「私が一番近くにいるから、叔母さんが困った時には

手伝うつもりだったけど、リタイアしてもいいかな?

本当にごめん」

と言うので了解し、着信拒否を勧めた。

母は頼りの姪に、サジを投げられたのである。

 

となると母が頼るのは…

実の娘は関西在住なので、距離的に無理。

一つ下の妹も、広島市在住で無理。

そういうわけで、今後は私のワンオペ決定。

 

その後、祥子ちゃんが電話に出なくなったので、私にかかる回数は倍増。

「コーラスを辞めたら生きていけない!」

相変わらずの歌姫語録に加え、祥子ちゃんが電話に出ない疑問も加わったが

「子供の所へ行ったんじゃないの?」

「旅行じゃろう」

などと言って切り抜ける。

 

励ましたり、なだめたり、すかしたり…

私は渾身で歌姫の嘆きに取り組んだ。

さっさとコーラスに戻らせないと

電話責めの日々が永遠に続くんだから必死さ。

 

やがて、歌姫の心は決まった。

先生に詫びを入れる勇気が出たのだ。

 

そもそも、この先生がとても厳しい。

70代の美人で、かなりの女王体質だ。

母は彼女に強い尊敬と畏怖の念を持ち、接する時は緊張していた。

一方で母はコーラスの練習のたび、その厳しい先生に送迎してもらう。

練習は車で10分余り、私が住む町の公共施設で行われる。

先生と母は同じ町に住んでいて、うちの前を通って行くからだ。

気兼ねではあるけど電車よりマシなので、ずっとその厚意に甘えてきた。

その負い目もあり、先生はこの世で唯一、母が恐れる人物なのだった。

 

母は意を決して先生に連絡した。

カムバックの願いはすんなり受け入れられ

次の練習日から、また先生の送迎で参加することになった。

「行ったら、みんなが拍手して迎えてくれた。

やっぱり私がいないとね」

興奮し、明るい声でまた電話をかけてくる母であった。

 

やれやれ…

胸を撫でおろした私だったが、それはいっときであった。

数日後、歌姫から涙声で電話。

「私はね、コーラスを辞めたくないのよ!」

「…辞めなきゃいいじゃん」

「大変な思いをして戻ったんだから、続けたいのよ!」

大変な思いをしたのは確かこっちだったと思うが

それが母なので、今さら驚かない。

 

「続けりゃいいじゃん」

「私はね、ずっと歌っていきたいのよ!

歌が生き甲斐なんだもの!」

このやり取りを何回も繰り返したあげく、ようやく本題に入る。

長年愛用していたテープレコーダーが、壊れたらしい。

 

母は音符が読めないので

歌を覚える時は手のひらサイズのテープレコーダーを使う。

集まって練習する時に録音し、家で再生してメロディーを覚えるのだ。

テープレコーダーが壊れると、新曲が覚えられない。

それで絶望し、泣いているのだった。

 

「新しいのを買えばいいじゃん」

「こんな田舎に売ってないわいね!」

「買いに連れて行ってあげるよ」

「いつ?ねえ、いつ?

練習日までに使い方を覚えたいんよ!」

さっきまで泣いていたのが、早くも喧嘩腰だ。

つまり今日、これから迎えに来て

私の住む町にある大きい電器店へ連れて行けと言いたいらしい。

 

行ったさ。

明日…なんて言ったら、ずっと電話をかけてくるので

すぐ行動するしかない。

もはや脅迫だ。

 

が、電器店に行ったら問題発生。

大きなカセットデッキとボイスレコーダーならあるけど

手のひらサイズのテープレコーダーは

メーカーが製造をやめているので存在しないそうだ。

 

母はスマホを使わないので、録音といったらボイスレコーダーしか無い。

ネットで個人的に探せばあるかもしれないが

今日頼んで今日来るわけもなく、ひとしきり嘆いた母は

ボイスレコーダーを買うしかなかった。

 

このボイスレコーダーが、またもや私の前に立ちはだかる。

テープレコーダーとは使い方が違うので、母には難しかったのだ。

電器店でさんざん使い方を聞き、メモにも書き

試しに録音となると、店頭で高らかにコーラスの曲目を歌って吹き込んだ。

店員のあっけに取られた顔に、つい下を向く私であった。

 

無事に録音再生ができたので、母は上機嫌だったが

夜になると電話が…。

「どうしても録音できんけど、機械がおかしいんじゃないのっ?!」

明日、電器店で説明を聞くと言うので、また連れて行く。

そして家に帰るが、また夜になって泣きながら電話がある。

数日、この繰り返し。

 

結局、ボイスレコーダーの習得はコーラスの練習に間に合わず

「あんたがテープレコーダーも無いような

ボロの電器屋へ連れて行くけんよ!」

何度も恨み言を賜わった。

私が暴言に動じないとしたら、母で修行を積んだせいである。

《続く》

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始まりは4年前・2

2024年07月31日 09時48分21秒 | みりこん流

市販の漢方薬を飲んでアザが消え、喜んでいた母だったが

さほど日をおかず、再び転んだ。

今度はメガネの金属でマブタを切り、何針だか縫ったと言って

数日後に電話してきた。

骨は折れてないそうだ。

 

こういう場合、どうなんだろう。

骨折しなければ、「転んだら近い」の世界ではノーカウントなのか。

それとも2回目ということで、一歩近づいたことになるのだろうか。

しかし、こうも立て続けに転んだとなると

母の脳は確実に衰えていると判断した方がよかろう。

頭では前に進んでいるつもりでも、足が付いて行かないため

2回とも頭から転んで顔を打ったのだ。

 

隣のおじさんがそうだった。

亡くなる数年前から、すり足で前のめりの歩き方になり

顔にしょっちゅう、すり傷や打ち身のアザをこしらえていたものだ。

同時にかなり厚かましくなり

ゴミ出しなどの用事を言いつけられるようになった。

家の外壁の内部にできた、スズメ蜂の巣の駆除を頼まれたこともある。

業者に頼めと言ったら「お金がかかるやないか!」と真顔で言う。

マジか…。

何度断っても頼みに来るのでウンザリしたが

最後は彼の奥さんに言って止めてもらった。

 

「歩き方がおかしくなったら、図々しくてケチになる」

この一節が私の頭にインプットされた一件だったが

母は歩き方がどうこう以前に、昔からそのような性格だ。

これで脳をやられたら、ホラーじゃないか。

私は、目前に迫っているかもしれない恐怖に覚悟するのだった。

 

ともあれ負傷した母は、転んだ原因を靴のせいにした。

「腹が立つから捨てて!」

転んだ時に履いていた靴を私に差し出す。

そうよ、不用品を捨てるのも私の役目。

しかし言われるままに従うと、厄介なことになる。

コロコロと気分が変わるのも、彼女の特徴だ。

 

靴を持ち帰り、保管した一週間後

「あの靴、返して欲しいんだけど、もう捨てた?」

母から電話がかかってきた。

やっぱりね。

さっさと捨てていたら

「何で?何で捨てたの?」

そう言って、ここぞとばかりに責められるのは決定事項。

感情に任せて他者に命令し、相手がどう行動するかを観察後

有責者に仕立てて存分に責めなじるのは、彼女の日常的な習慣だ。

私に機転があるとすれば、それは母のお陰である。

 

母の衰えは脳だけでなく、その数年前から目にも現れていた。

それは、下りのエスカレーターで判明。

乗れないのだ。

機械の中から次々に生まれてくる階段が全く見えないらしく

そのうち上りのエスカレーターにも乗れなくなった。

 

耳も怪しい。

何を言っても二度、三度と聞き返す、老人あるある。

聞こえないから自分ばっかりしゃべり続ける、やはり老人あるある。

 

しかし最も厄介なのは、本人がこの状況を全く理解してないことだ。

「頭は現役時代のままだし、目もよく見えるし耳も聞こえる。

足だって全然、弱ってない」

そう言って、胸を張る母であった。

 

 

『歌姫』

2回目の転倒直後

母は20年余り続けたコーラスを引退すると言い出した。

「舞台で転んだら大恥をかくし、コンサートを台無しにしたら

先生やメンバーに申し訳ない」

それが、当時86才だった母の主張。

私もピアノや吹奏楽で舞台に立った経験はあるので

その考えは真っ当だと思った。

次の練習日、母はメンバーにお別れのお菓子を配って挨拶し

25年続けたコーラスグループを引退した。

 

やれやれ、これでコンサートに行かなくていい…

ホッとしたのも束の間、数日後に泣きながら電話がかかる。

「私から歌を取ったら、何が残るというの?!」

いきなりこれだ。

歌手か…。

 

それから1時間、延々と訴えるのは

「歌を辞めたら寂しくて仕方ない…できれば戻りたい」

要約すれば、これ。

「じゃあ戻ったら?」

と言うと

「先生は許してくれるじゃろうか」

また延々。

「そんなん、戻ってみんことにはわからんじゃないの」

「それはそうだけど…」

また延々。

 

さらに1時間が経過、自分の答えが出ないことに焦れた母はキレた。

「あんたみたいな世間知らずの主婦に聞いたのが間違いじゃった。

こういうことは一流大学を出た祥子に聞くわ!」

ガチャン…電話は切られてようやく終了。

祥子というのは母の長兄の娘、つまり姪だ。

同じ町に住んでいるので、母が何かと頼りにしている。

70才の彼女はサッパリした気持ちのいい人で

父の再婚により、急に従姉妹となった我々姉妹に優しくしてくれた。

 

しかし1時間後、また母から泣きながら電話がかかる。

「祥子が、もう辞めると言ったんだから潔く辞めんさいと言うんよ」

祥子ちゃんの回答が、思わしくなかったのだ。

「私はコーラスが命なのに!

あの子は音楽をやってないけん、私の気持ちがわからんのよ!」

 

以後の数日間、祥子ちゃんと私は日に何度も

交互に電話攻撃を受ける身の上となった。

ここで普通はおかしいと思うだろうが、母は昔から異様にしつこい。

彼女は他人の私でなく、姪の祥子ちゃんに

「続けなさい」と言って欲しいのだ。

電話はそれまで続く。

私に根気があるとしたら、それは母の執拗に鍛えられたものである。

《続く》

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始まりは4年前・1

2024年07月30日 09時33分59秒 | みりこん流

コメント欄でモモさんから、お題をいただいた。

『もし、お嫌でなければ、また継母さんの事件や日常を、記事にして下さい。

過去の記事でちょっとキツイ人なのかな・・・とは思いましたが

今回入院のきっかけになった、専門の医師がみたら判るという

日常でおきる問題行動などを教えて頂けたら、とおもうのですが』

 

少し前、実家の母が入院したことは記事にした。

その時はまだ、私も何が何やらわからない状態だったので

入院という曖昧な表現にとどめ

詳しいことは時期を見て、お話ししようと思っていた。

その時期とは、彼女がこの世を去った後である。

 

が、日本は今、高齢化社会だ。

今現在、老親の処遇に困っておられる方や

モモさんのように何らかの情報を

早めに得ておきたい方もいらっしゃると知った。

 

けれども老人の問題行動や医師の診断だけを切り取って

簡潔に話すのは難しい。

なぜなら老人はある日突然、変わってしまうのではないからだ。

各々の持つ個性や習慣によって違いはあれど

ずいぶん前から伏線は敷かれている。

そこから伝えた方が、先で何らかのお役に立てそうな気がするので

長くなると思うが、お話ししたいと思う。

 

 

ということで、母は6月下旬より市外の精神病院へ入院中。

補足になるが、私の実の母は6年生の時に37才で病死した。

ここでいう母は、同じ年に見合いで迎えた父の後妻である。

 

母の入院先は市外とはいえ、地元からひと山越えた所なので

さほど遠方ではない。

我々が子供の頃、そこはキ◯◯イ病院と呼ばれ

おかしなことを言ったりやったりする人がいるとすぐ

「◯◯病院へ行け」などと揶揄していた、馴染み深い老舗の病院である。

 

そして母もまた、ことあるごとに私に言っていた。

「児童相談所か、◯◯病院へ入れる」

父と結婚した翌年、38才で生んだ自分の娘に

継子の私が危害を加えないか、疑心暗鬼になっていたのだ。

 

私は児童相談所はどんな所か知らなかったので反応薄だったが

◯◯病院は怖かった。

小さい頃から、車でそこを通ることがあったからだ。

人里離れた寂しい田舎にあり、窓という窓に

頑丈な鉄格子がはめてある大きな病院に、恐怖を覚えたものである。

6月末、母は自分が言っていた、その病院へ入院した。

 

『兆候』

20年前に父が急死して以降、母は気丈に一人暮らしを続けていた。

趣味はコーラスと俳句、そして編物。

どれも老人の暇つぶしではない。

長年に渡って本気で取り組み、研鑽を積んできたものだ。

父亡き後は、それらにいっそう打ち込み

地元の同窓会や公民館などのイベントにも積極的に参加して

忙しくも楽しそうだった。

 

しかし父が他界して車を運転する者がいなくなり

買い物の足に不自由するようになったのは確か。

ドライブの好きな母のため、我々夫婦は月に一、二度

市外の大型スーパーや近場の観光へ連れて行ったり

年に2〜3回あるコーラスの発表会を見に行くようになった。

 

あと先は、たまに電話やメールをする程度で

手がかかるという部類ではなかった。

母は早くから携帯を使っていて、絵文字入りのメール送信もできる。

頭はハッキリ、身体は並外れて頑丈…

肩こりすら知らない、パワフルなお婆ちゃんだったので

心配する必要は無かった。

このユルいペースは、16年ほど続いた。

 

そして4年前の夏…

当時は、母が言い出した墓じまいの作業が完了した時期だった。

やれやれ、と思った途端、母は道路で転倒。

何の段差も無い歩道で、いきなり転んだそうだ。

数日前のことで、その時は怪我も痛みも無かったため

放っておいたら、打ったアゴ全体が黒くなったという。

 

ちょうど買い物に連れて行く日だったので

マスクに隠された現物を見た。

アゴ全体が、ブドウみたいに見事な黒紫色で

ギョッとするような光景になっている。

アゴが黒くなって驚いた母は、慌ててかかりつけの医院へ行ったが

怪我ならともかく、アザは治しようが無いと言われたそうで

この世の終わりのように嘆いた。

 

そこで買い物に行った時、薬局で漢方薬に詳しい薬剤師にたずねて

あれは何と言う薬だったか…

黒アザが早く消えるというカネボウの漢方薬を紹介してもらった。

打ってすぐに飲む薬と、日数が経ってから飲む薬は違うそうで

転んでから日数が経っていた母は、後者である。

飲み始めると、数日で黒アザは綺麗に消えた。

 

ともあれ転倒を知った時、私にはピンとくるものがあった。

「転んだら近い」

我々同級生で結成する5人会では、これが合言葉になっているからだ。

 

近いのは自宅介護か、病院か、施設か、あの世かは不明。

とにかく老人の転倒は、脳と身体の衰えが表面化した結果であり

それに伴って我々の生活が変化せざるをえない、その合図だと

経験者のけいちゃん、マミちゃん、モンちゃん、ユリちゃんから聞いていた。

つまり5人会のメンバーで私以外は皆、「転んだら近い」を経験しているのだ。

 

しかし彼女らの親や姑は、揃って大腿骨やヒザの骨折だ。

そりゃあ、入院や施設入りで生活も変わるだろう。

一方、母はアゴが黒くなっただけで無傷。

この場合、どうなるのだろうと考えたが、その時はわからなかった。

《続く》

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名探偵・困難

2024年07月24日 08時49分34秒 | みりこん流

暑中お見舞い申し上げます。

しばらくご無沙汰してしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか?

こちらは変わったことは何もありません。

暑いので、タラタラしていました。

 

さて先日、長男が知り合いの老婦人と話していて

お孫さんの話題になったそうだ。

「孫はもう30過ぎなんだけど、未だに漫画が大好きなのよ。

え〜と…何だったかしら…探偵の漫画…」

「……」

「そうそう、困難!名探偵困難!」

 

長男からその話を聞いた私は

いつぞや義母ヨシコが、長男の星座である“天秤座”を

長年“ペンギン座”だと思い込んでいたと知った…

あの時以来の衝撃を感じて、ものすごく笑った。

 

その時、我々母子は、何か困ったことがあれば

名探偵・困難になりきって解決したら

きっと楽しいんじゃないかと話し合った。

困難クンの活躍で、困難を鮮やかに克服するのだ。

 

で、困難クンが登場しそうな場面を待っていたら

夕方、長男の可愛がっているインコのピーちゃんが逃亡。

彼が鳥籠を洗っている時に飛び出し、裏山へ飛び去ってしまったのだ。

卵から育て、おしゃべりを教えて早や7年…

我が家で一番頭の良さそうなペットである。

 

「こんな時こそ、名探偵・困難じゃ!」

我々はそう言い合って知恵を絞ろうと試みたものの

母子共に頭脳はインコ以下。

名案は浮かびそうもなく、近所をウロウロして探すしかない。

 

そのうち日没。

朝になったら、裏山のカラスにやられるのは決定的だ。

「最後に空を飛べて、満足だったと思うよ」

そう言って諦めかけたその時

裏庭でピーちゃんのソプラノが聞こえてきた。

自力で帰って来たのだ。

ピーちゃんは今も、うちにいる。

困難クンにお出まし願うほどでもなかった。

 

他に名探偵・困難が登場できそうな場面は無いか…

私は考えたが、60も半ばになると

怖いのは病気、逆縁、貧乏ぐらい。

推理でどうにかなる問題ではなさそう。

 

人並みに夢や願いを持っていた若い頃ならいざ知らず

ささやかな望みなど、とうに消え果てた。

現時点で確認可能な望みといったら、会社の事務員ノゾミ…

通称アイジンガー・ゼットぐらいのものよ。

あいつ、正社員になった途端に本性を現して

くわえタバコで仕事しとるぞ。

夫も、とんだノゾミを引っ張ってきたもんだ。

こんなバカバカしい日々に、名探偵・困難が必要になる場面など無い。

 

そうそ、ノゾミこそ名探偵・困難が必要かもしれぬ。

会社でゴーヤを育てていた彼女だが

次男が密かにかける塩水によって、何度も挫折。

植えても植えても枯れるため、最近になって土ごと取り替えた。

すると苗が10センチほど成長を見せたので、彼女は大喜びだった。

 

しかし先日の朝、出勤するとゴーヤの苗が根元からチョン切られていた。

これに次男は関与していない。

私の入れ知恵で塩水はかけたが、苗をチョン切るなんて不粋なことは

イタズラ道に反するではないか。

 

ノゾミは社員一人一人にたずねて犯人探しをしていたが

そう簡単に判明するはずもなく、最終的にカラスのせいにした。

数本の苗を根元でスパッと切る技術がカラスにあるのかどうかは不明だが

そのカラスにエサを与えているのは夫。

「カラスにエサをやらないでください!」

無関係の夫は、彼女に厳しく注意されていたという。

自業自得だ。

 

ともあれ「会社に実の生る植物を植えてはいけない」

という私のコンセプトは、ここで物理的に立証された。

貧乏くさい…暇そう…優先順位が顧客より食料…

会社に生り物を植えるとは、そのような心象を与えて損だという

イメージ的なものばかりではないのだ。

通行人の興味を引いてしまうのも、良くない。

 

会社は工業地帯にあるので、通行するのは車で通過する人ばかりだが

窓に仰々しく緑色のネットを張ってあると、どうしても視線を集める。

何を植えているのだろう…そう思いながら通る人もいるし

実際に近づいて確認する人もいるだろう。

これが防犯上、非常に都合が悪い。

 

実際、誰かが近づいて確認し、ついでに苗を切ったから

こうなっているのだ。

会社に近づいて、何かめぼしい物は無いかと興味を持つ可能性は

十分にある。

防犯カメラからは死角だったので、犯人は不明のまま。

カラスだと思いたい気持ちは、ノゾミより私の方が強いかもしれない。

 

それにつけても会社へ一度ならず二度までも

夫の恋愛対象生物を入れられた私である。

一度目はその生物と駆け落ちし、今回は入社が目的だったので

達成すると捨てられたが、これが笑わずにおられようか。

 

色々あると、『雨降って地固まる』と言うけど

うちに降るのは雨じゃない。

槍やコンクリート片さ。

うちだけじゃなく、よそのおうちもそうかもしれないけど

槍がグサグサ、コンクリート片がボコボコ。

こんなのが降ったら地は固くなるよ、そりゃあ。

それを避けたり、時には突き刺さったりしながら

メチャクチャになった地べたをかき分けて進む…

それが生きるってことかもね。

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悪趣味

2024年02月15日 11時15分07秒 | みりこん流
洋服はほとんど、おしゃれメイト・マミで買う。

同級生のマミちゃんが経営する洋品店だ。

今では全身、おしゃれメイト・マミの商品で生きているような気がする。


それでも、たまには他の店で洋服を見る。

巷で何が流行っているか、どんな素材や組み合わせが今どき風かを

自分の目で確認し、あるやなしやのファッション感覚を養うのは

年寄りにとって大事だ。

未だバブル期のコーディネートをしていたり

娘にそそのかされて似合わぬ若作りをしている同年代を見たら

特にそう思う。


そんな私には、去年から注目しているブランドがあるんじゃ。

シンプルなデザインと比較的手頃な価格により

私が若い頃、つまり昔はけっこう人気だったものだ。


そのブランドが、隣市の大型スーパーにある。

何があったのか、今はスーパーブランドに落ちぶれたため

テナントでなく衣料品売り場の一角に置かれているのだ。

デザインは相変わらずシンプル、しかし堅苦しくなく

どことなく柔らかい雰囲気…

私の好みとするコンセプトは昔と変わらないように思う。

「アルファ・◯◯◯◯◯◯だ!」

見つけた時は、懐かしくて駆け寄ったものである。


その中に、黒のパンツスーツを発見。

このブランドの特徴の一つになるが、上下が別売りになっているので

厳密に言えば薄手のジャケットと、同じ生地のパンツ。

上下を買うと3万5千円ぐらい。


黒のパンツスーツは、近年の私が探しているアイテム。

なぜって、葬式用よ。

マミちゃんの店では買えない。

取り寄せをしても、パンツの丈が短いからだ。

しかし、パンツの喪服は動きやすくて温かいので魅力的。

通夜葬儀には老若を問わず、パンツスーツの喪服が増加の一途。

私も持っているが、ある事情によって着なくなった。

ここはひとつ、その事情を避けられるデザインのを探したいところよ。


その点、この黒のパンツスーツは良さげだ。

薄手の生地で襟が無く、前身頃が打ち合わせになっている女らしいデザイン。

そして細身のパンツは、見たところ足首までしっかり長さがありそう。


試着したかったが、夫と一緒だったので遠慮して売り場を離れた。

夫を待たせるのも気が引けるけど

亭主の目の前で洋服を買うのはもっと気が引けるからだ。

それが昨年春のこと。


そのうち季節は巡り、冬がやって来た。

この日は長男とその彼女マーコと共に、かのスーパーへ赴いた。

例のコーナーへ行ってみると、まだあるではないか…

あの黒いスーツが。

しかも半額になっとる!


長男はどこかへ行ったので、マーコと二人だ。

「試着してみてもいい?」

私はマーコにたずね、マーコは

「もちろんです!着たら見せてくださいね」

と言った。

交際中の彼女というのは、彼氏のママに寛大なものである。


着てみたら狙い通り、ジャケットは優しく身体に添い

パンツの丈もちょうどいい。

試着室から出ると、マーコは驚いたように目をパチクリさせて言った。

「お母さん…すっごく似合ってますっ!」


わかってるよ。

こういうスーツ、わたしゃ似合うんだよ。

だけど似合うって、美しいとか素敵という意味じゃないのも

わかってるんだよ。

板につき過ぎてる…

つまり葬儀場の社員みたいにピッタリってことなんだよ。


黒のパンツスーツで通夜葬儀に参列し

これまで何度、葬儀場の人に間違えられたことか。

「お手洗い、どこですか?」

「献花を申し込みたいんですけど」

「火葬場行きのマイクロバスは…」

「お弁当の数を変更したい」

そう言って呼び止められる確率100%だぞ。

だからパンツの喪服を着なくなった。


間違えられるのは嫌じゃない。

元々世話好きの出しゃばりなんだから

私でわかることなら喜んで対応するし

わからなければ、本物の葬儀場の人に繋いで差し上げる。

しかし、私がただの弔問客と知ったその人たちの

申し訳なさそうな表情といったら。

こっちが申し訳なくなるじゃないか。


人を惑わせるのは良くないと思って、パンツスーツを避けるようになった…

これが、私の言う“事情”。

マーコの反応を見ると、また間違えられそうじゃんか。

よって、この日も買わずに帰った。


さらに季節が巡った、先日の連休。

やはり長男とマーコと一緒に、あのスーパーへ。

衣料品売り場は、春の装いで溢れている。


例のコーナーへ行ってみると、あのスーツがまだあるではないか。

が、値段は半額ではなかった。

値札が付け替えられ、また定価になっとる。

生地が薄いので、再び春物扱いになったらしい。


去年、発見した時も春物扱いで定価。

着る物が厚手になる冬には半額となり

今年の春が近づいたら、また定価に戻っているというわけ。

卒業式や入学式のシーズンなので、まかり間違って買う人がいるかも…

とでも思ったのか。

何だかアパレル業界の闇を見た気分。

じゃあ次の冬が近づくと、また半額になるのだろうか。

ぜひ確認したい。


売れてしまっていたらどうするのかって?

売れるわけないじゃん。

あの上下を着られる女子は、そういないはずだ。

袖丈やパンツ丈が長くてカットしたら台無しになるので

私みたいに長身で手足の長い人間でないと無理。


そんな人間が、そうたくさんいるとは思えない。

さらにその手足の長い人間が、このように特徴的なデザインを選び

しかもスーパーで買い求めるとなると、確率はかなり低くなる。

絶対に売れ残って、次の冬にはまた半額になっているところを

ぜひ見たい。

冬が来るのが、今から楽しみだ。
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開運のコツ…かもよ

2024年01月13日 09時59分23秒 | みりこん流
遅ればせながら、明けましておめでとうございます!

元旦から能登半島で大地震、驚きましたね。

皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたでしょうか?

被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。


しばらくお休みさせていただきましたが

何のことはない、年明けから風邪引いてましてん。

わかっとります。

色々疲れたんですわ。


それにしても年寄りっちゅうのはどうして

「迷惑かけたくない」と言いながら

迷惑なことばっかり言うんでっしゃろなあ。

こっちは車でどこかへ連れて行ったり

代わりに何かやったりするのは迷惑と思わんのですわ。

ただ、何をして欲しいという要望に到達するまでの前置きが長い。

迷惑なのは、それを延々と聞いてる時間なんだけど。

年を取るって、要望を簡潔に言えなくなることなのかもね。


とまあ、のっけから辛気臭い話ですまんことです。

もう大丈夫、こんなことで負けてはおられまへん。

今年もぶっ飛ばして行きまっせ!



さて、私は子供の頃から…

正確には11才で母親が他界してから

自分は不幸だと思って生きてきた。

母親の一人や二人亡くしたぐらいで不幸を名乗るとは図々しい…

親と早く別れた経験の無い人はそう思うかもしれないが

子供にとって母親に死なれるのはきつい。


そのダメージが精神的な方面ではなく

肉体に影響するのが、大人と違うところだ。

身体中の関節という関節が全部外れたような感じで

糸の切れた操り人形になったみたいなんじゃ。

首、手足、指…ちゃんと繋がっているはずなのに

何だかブラブラして力が入らない。

初めての感覚に、私は戸惑うばかりだった。


「悲しみに負けず頑張ろう…」

一応は、そう思う。

しかし、この関節問題だけはどうしようもない。

ともすれば脱力してヘナヘナと座り込みそうになるため

両足を踏ん張ってどうにか立ち、平然を装うのがやっと。


とにかく「関節、外れてませ〜ん」を装うのに必死なもんで

子供であることを楽しむ余裕はあんまり無い。

そんな状態で普通の小学生を演じるには

視線をやや下に落とし、歯を食いしばって行動するしかなかった。


その姿はハタから見れば、不機嫌に感じられたと思う。

「みりこんさんは、いつもダラダラしています。

みんなが頑張っている時は、もっとやる気を出して欲しいと思います」

告発の快感を覚え始めた一部の級友は、そんな私を帰りの会で糾弾した。

「うるせぇわ!好きでダラッとしとるんじゃないわい!

首やら手足がブラブラなんじゃ!」

そう言いたいけど言えない、このつらさ(ここ、笑うところよ)。


何か言い返すと、母親のことに触れられるのは決定事項。

「お母さんが亡くなって悲しいのはわかりますが

元気を出さないといけないと思います」

「僕も、私も、そう思います」

上辺の励ましに、まばらな拍手。

おお、嫌だ。

だから何も言わない。


アレらは良いことを言っているつもりだろうが

何もわかっちゃいないし、わかってもらいたいとも思わない。

このような上辺のことを言われると

死んだ母親を悪く言われているようで、子供としては耐え難いのだ。


私は悲しみを引きずっているのではない…

死んだものは仕方がないというのは、あんたらよりもわかっている…

ただ、関節がブラブラなだけなんじゃ…

じきに治ると思うから、そっとしておいてくれ…

心で叫んだものである。

上辺で小美しい口をきく人間を忌み嫌う癖は、この頃からだと思う。


中学でブラスバンドに入ると、関節のブラブラ病?は徐々に回復した。

だってブラスバンドは、音楽が好きで入部した人間ばかりだ。

彼ら彼女らは音楽というアイテムで、自分の機嫌を取るスベを知っている。

だから、家庭で貯めたストレスを外で人にぶつける必要が無いのだ。

もちろん音楽に限らず、スポーツや他の趣味も同じで

一心に取り組む者は他人を気にしない。


安心できる仲間に囲まれ、より美しい演奏を追求する楽しさを知った私は

ブラスバンドだけが生き甲斐になった。

人並みの青春を謳歌できるようになったからか

急激に背が伸びて各関節に成長痛が訪れ

ブラブラどころか痛いので、そっちに神経が行ったからかは不明だが

中2になる頃にはブラブラ病から解放された。


そんなわけで復活した私だが、ブラブラ病に対する恐怖は残った。

あの不可解な症状は消えたものの、得体の知れぬ脱力感は

その後も長く続いたからだ。

新しい人間関係も、新しく始めた何かも

どうせ途中で嫌なことが起きる…

だったらいきなり全力を出さずに、しばらく観察して様子を見よう…

私はいつもどこかでブレーキをかけ、脱力感と共存する道を選んだ。


やがていつしか、あの不快な脱力感は消えたが

ブレーキの方は癖になったまま幾星霜。

しかし50代半ばのある日

ブレーキをかけるのが急にバカバカしくなった。

正確には義父が他界した頃だと思う。

一人片付いて余裕が出たので

このままブレーキをかけ続けるのがもったいない気がしてきたのだ。


そんな私が何をしたかというと、全然たいしたことではない。

ただ、集まりに早く行くようになった…それだけ。

友人や近所の集まり、参加せざるを得ない様々な活動

通夜葬儀にも、とにかく早めに行く。


それまでは時間を逆算して、いつもギリギリに行っていた。

早く行って熱心だの暇だのと思われ、アテにされたら困るからである。

だってアテにされたら、張り切るではないか。

私は自分の性分を知っている。

張り切ったら最後、パワー全開。

火宅の家や選挙で培った強烈なものだから、容赦ない。


それが良い結果を生むこともあるけど

集団の中には、山で言えば六、七合目あたりを頂上と信じ

登頂したと思っている人や

いつまでも裾野を漂っていたい人もいるものだ。

そういった一部の人たちにとって、私は迷惑な存在。

だから首を深く突っ込まないための予防策として

あんまり嬉しげに早く行かない。

私にとっては効果的なブレーキの一環…のつもりだった。


が、変に気を遣うことをやめたのだ。

早く行くと何がいいかって、主催者が安心して喜ぶ。

そして私と同じく早く来た人も、続いて早めに来た人も

誰か居ると安心する。

その安堵が周囲の空気を変えるのか

通夜葬儀は別として、自分もゆったりと楽しめることが判明。


のめり込んだっていい、突っ走ったっていい…

だって老い先短いんだもの…

そう思って解除したブレーキだが

今のところ、のめり込むことも突っ走ることも無い。

燃えるものが無いと言った方がいいかも。

自分が年を取ったら、周りも年寄りばっかりじゃん。

楽しくて無我夢中になってしまう集まりなんて、ほとんど無いのよね。

な〜んだ。


新しい出会いもしかり。

六十何年も生きてきて、今まで知り合わなかった人って

やっぱり縁の無い人なのよ。

な〜んだ。


でも、早めの集合は続けるつもり。

誰かに安心してもらうって、こちらも安心した気持ちになる。

人と良い関係を保ち、穏やかに生活する秘訣かもしれない。


『大晦日に作ったオードブル』


毎年大晦日の夕方、夫の叔母宅に届けるのが恒例。

叔母は義父の妹で、彼ら6人兄妹の中では唯一生存している。


今年は食材がたくさんあったので

もう一軒、知り合いの家にも持って行った。

確か、これを作るまでは元気だったはず。

無理をしてはいけないと、つくづく思った。
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年を取る幸せ

2023年11月16日 10時15分24秒 | みりこん流
近年、年取ったな〜と感じることが増えた。

肌はもとより、指に潤いが無くなって不便なことといったら。

スーパーのビニール袋が開けにくいのは、もはや当たり前。

財布の小銭を取り出すのにも時間がかかる。


昔は必要にかられたら、脳で「指に汗出ろ」と命令できた。

命令で滲み出た水分を利用して必要な小銭を指に吸着させ

素早く支払いができたのだ。

それが今じゃどうよ。

命令したって何も出んぞ。

若い頃はレジでトロトロする年配者を蔑視していたというのに

自分がそうなっとるじゃないか。

それどころかスマホやカードで

スマートに支払いをする年寄りまで出現している。

負けた。


それから食欲が落ちて、食べる量が減った。

周囲が驚くほどの大飯喰らいだったのが

胃もたれが怖くてセーブするのが当たり前になり

そのうち本当に食べたいのかどうかも怪しくなって

早々にやめてしまう。


バランス感覚もおかしくなって

ちょっとよろけると元の体勢に戻るのに数秒かかる。

よろけるなんて、私の辞書には無かったはず。

筋力が低下して、踏ん張りが効かなくなったと思われる。

これらの現象は、顔に増えてきた小ジワより残念だ。


が、肉体の衰退とは裏腹に心の方は年々軽くなり、幸せを感じる。

私の言動を制限していた人々の多くが、あの世へ行ったからだ。

町内に4人いた義父の兄妹たち、義父母の取り巻き、出入りの商売人…

ひと世代上の人たちって、そりゃうるさかった。

私が外で誰かに話したことや、スーパーで買った品物までが義父母に伝わり

家に帰ると、それをネタに小言を頂戴したものだ。

要するに、どいつもこいつも暇だったらしい。


一人消えるたび、その人物に同調していた人々もおとなしくなり

最後に義父が消えて以降、私はかなりの自由を手にした。

何を言っても何をやっても怒られないって、すごく楽。


完全な自由を手にするには

ラスボスの義母が消える日を待つ必要があるが

私もそこまで欲張りではない。

腹八分目で我慢…これぐらいが自分にふさわしいと思っている。

完璧を望んでそれを手にしたあかつきには

また新たな、どうにもならない厄介が訪れるものだ。

多くを望まないのが、幸せの秘訣かもしれない。


幸せと言えば、もう一つ。

夫の姉カンジワ・ルイーゼの里帰りが減った。

近所の公民館で体操教室が始まり、パーキンソン病の旦那を運動させるため

毎週木曜日には夫婦で通うようになったからだ。

そして金曜日には、義母ヨシコが近所の体操教室へ行く。

こちらへ来ても母親がいないので、金曜日も来なくなった。


さらにルイーゼの初孫、もみじ様の存在も大きい。

広島市内に暮らす2才のもみじ様はカンの強いタチらしく

しょっちゅう熱を出す。

彼女の母親マヤちゃんは去年、産休が明けて仕事を再開したが

熱が出ると保育園で預かってもらえないため

病児の身柄はルイーゼに託されるのだ。

マヤちゃんの実家も広島市内にあるが、そこには預けにくいらしい。

彼女のお母さんは再婚しているので、継父に気兼ねという話だ。


そこでもみじ様の父親であり、ルイーゼの一人息子のおみっちゃんちゃんが

高速を走って連れて来る。

おみっちゃんちゃんはアパレル関係の仕事なので、出勤が遅いのだ。

帰りはマヤちゃんの方が早いので、彼女が迎えに来る。

小さい子供を育てながら働くって、本当に大変ねえ。


そういうわけで、もみじ様はほぼ毎週ルイーゼの家に来る。

よって体操教室のある木曜と金曜、そしてもみじ様が訪れる一日か二日は

ルイーゼがうちに来ない。

つまり週の半分は、ノー・ルイーゼデーになった。

結婚以来43年、元旦を除いて雨の日も風の日も欠かさずの実家詣では

ついに途絶えたのである。


思えば長い年月であった。

小姑が毎日来たって、気にしなきゃいいじゃん…

そんな生やさしい問題ではない。

親は、娘が婚家で苦労していると思いたいものだ。

そして娘は、親が嫁に苦労させられていると思いたいものだ。

この両者が近づくことで思い込みは増幅され

そのまま他人である嫁への憎悪となる。

精神的に幼い親と、よそへ嫁いだ娘の組み合わせは

煮ても焼いても食えない凄まじい集団なのだ。


彼らは意地悪なのではない…多分。

近い血縁が集まると、そうなってしまう…

それが血の結束というやつよ。

結果、こっちは複数の上司から

監視とハラスメントを毎日受ける新入社員状態。


8年前に義父が他界して以降、遺された母と娘はかなり大人しくなり

ずっと頭の上に置かれていた漬物石は軽くなったが、鬱陶しいのは同じだ。

義母は息子夫婦を怒らせたら生活できないのをわかっているし

義姉は母親を押し付けられたら困るので、静かにしているだけである。


この鬱陶しさが週の半分無くなったのは、ひとえにもみじ様のお陰。

先はどうなるかわからないが、彼女に感謝しつつ

この隙に英気を養うとしよう。


幸せなことといえば、もう一つ。

次男の嫁と、長男の彼女の存在。

彼女らは、私を“お母さん”と呼ぶ。

親ではないから、名前を呼ぶように頼むつもりだったが

あの子らは初対面から、ごく自然にお母さん、お母さんと連発。

今さら変えてくれと言いにくくなり、そのままになった。

娘ぐらいの年齢の女の子から「お母さん」と呼ばれるのって嬉しいもんだね。


一緒に出かけて、何かと気遣ってくれるのもありがたい。

長男の彼女がスーパーのフードコートで注文した飲み物を

私の分まで運んでくれた時は、信じられなくて感動した。

長い間、こういうことは私の仕事だったからだ。

セルフサービスの店やファミレスのドリンクバーでは

両親や義姉の分を調達するために、一人で何往復もしたもんよ。


それを人がしてくれる…

手持ち無沙汰で落ち着かなくて、だけどありがたくて泣きそう。

同時に「年寄りって、気を遣ってもらい慣れて

だんだん図々しくなるんだな」

と実感し、この優遇にアグラをかくまいと心に誓った。


自分を『幸薄(さちうす)民族』と自覚して生きてきたけど

幸薄民族にもそれなりの幸せがある。

ハードルが低いもんで、感動する事柄が多いという幸せ。



『レストランでお食事中の猫ちゃん』

海外旅行が復活し、モロッコへ行った友人が現地から送ってくれた。




『サハラ砂漠の夜明け』



元々旅行があんまり好きじゃないので、自分で行く気は全然無いけど

こうして知らない所の風景が見られる時代になったのも

気にかけてくれる友だちがいるのも、幸せの一つ。
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祖父母と同居する子供について・3

2023年09月16日 10時39分08秒 | みりこん流
ハルさん、ミツさんという“ある意味プロ”の気働きによって

祖父の悪口大会から救済された私。

父にも笑顔が増えたようで、それが一番嬉しかった。

女の力量で、家の中はこうも変わるのだ。

恐るべし、後妻業者。


そのうち、あれほど苦しんだ矛盾の渦はどこかへ消えてしまった。

お祖父ちゃんという名の巨大な存在だと思っていた祖父が

女の手のひらでいとも簡単に転がされるのを見て

彼もただの人間だと認識したことも大きい。

同じ人間なんだから、矛盾が生じるのは仕方がない…

孤独な老人であればなおさらよ…

この結論は私に余裕をもたらした。

祖父と話していて悪口へ移行しそうな時は、別の話を振って気をそらせる技も習得し

うまくやり過ごすようになった。


やがて私は大人になって結婚。

ハルさん、ミツさん直伝の男あしらいで、うまくやっていく自信は持っていた。

が、相手の男にも家族がいるのを忘れていたのは痛恨のミス。

義父は、祖父より何倍も手強かった。

それなのに数年後、同居。

バカじゃ。


彼が私に言う意地悪は、祖父が父に言っていた内容と全く同じだった。

立ち居振る舞い、能力、働きぶり、姿かたちに嫁入り道具…

口をきわめ、顔を歪め、事細かな描写をくどくどと羅列。

なさぬ仲の相手に悪意を持って何か言う時は皆、同じパターンらしい。


とはいえ自分が言われるのは、祖父に父のことを言われるより楽だった。

私は自己犠牲を尊ぶようなタマではないが、舅に当たられることで

何だか父に近づけたような気がしたことは、まんざらでもない。

父は、血の結束の中で他人が何を言っても無駄とわかっていたのだ。

不抵抗、不服従のガンジー方式さながらに、敵の繰り出す身勝手な命令に従わず

ただ黙ってポーカーフェイスを通すことが、矜持を保つ手段だったのだ。


よって私も義父には、ガンジー方式。

暴君にはこれが最善であり、また、この方法しか無いのである。

泣いて謝り、改めると約束しない私に、義父はじれてますますきつい言葉を吐いたが

これも祖父と同じ。

パターンがわかっていれば、恐怖は無い。


祖父に言われっぱなしの父を、子供心に不甲斐なく思ったこともあったが

自分が同じ目に遭って初めて父の気持ちがわかり

何かと縁の薄かった父と人生の一部を共有できた気がした。

同時に、祖父が父について言っていたのと同じ言葉を私自身が受けることで

無実の父に辛く当たった祖父の罪が軽減されたような気もした。

我ながら、おめでたい。



やがて年月が経ち、長寿の祖父が死の床についた。

実質的な看護は、祖父と二人で暮らしていた当時のカノジョが行っていたが

病院への送迎や男手の必要な用事は、父が数年に渡って淡々とこなしていた。

最後には、いじめ抜いた相手の世話になる…

このパターン、どこかで見たような?フフ。


祖父にはたくさんの愛情をもらったが、父の件に関しては迷惑千万だった。

人のせいにはしたくないけど、悪口をたくさん聞くと

私のように自己肯定感が低く

疑り深くてひねくれた子供になってしまうのは確かだ。

こうなると、周りと同調できないことが多くなって

生きるのがしんどくなる。


しかし、何もかも平和で順調な人生なんてありはしない。

お陰で今は、押しも押されもせぬオバちゃんになった。

両親の離婚に怯え、クヨクヨと悩むだけで

何も行動しなかった自分の弱さ、不甲斐なさを戒めとして持ち続けているからだ。


離婚を恐れるも何も、どうせ片方は近いうちに他界する運命だったんだから

私は遅かれ早かれ片親になっていた。

だから、怯えることはなかったのだ。

初孫の言うことなら祖父は聞いてくれたかもしれないし

たとえ返り討ちになったとしても、父の心は癒されたはずだ。

現状にとらわれるばかりで、たった一歩先を見ようとしなかった当時のザンネン…

あれを繰り返したくない思いが、現在の私の行動を決めている。

時々失敗もするが、厚かましいオバちゃんだからすぐ忘れる。



ところで我が家にも、祖父母と生活した男子が二人いる。

炎上家庭で育った、うちの子供たちはどうなのか…

ということになるわけだが、元々塩の効いた子らではなかったからか

いたってのんびりしており、これといった異変は見受けられない。

ハタから見ればそうではないのかもしれないが

私の見る限りでは能天気でだらしなく、たまに優しい…

つまり、どこにでもいるボンクラ息子にとどまっていて

自身のように複雑な歪みは感じてない。


これについては、幸運だった。

というのも義父は浮気とゴルフに忙しく、家に居ることが少なかったので

孫はあんまり眼中に無かった。

母親の悪口をつらつらと吹き込むような暇は、無かったのだ。


そして義父は、祖父に比べると語彙が少なかった。

だから孫に聞かせる内容も、「お前らのオカンはバカ」

あるいはブス、デブ、クソ…これらの短文にとどまる。

小さい男の子はそういう言葉を面白がるので、息子たちはキャッキャと笑っていた。


そのやたらハイテンションな笑いの中には

母親を悪く言われた悲しみが、わずかに含まれているような気もしたが

祖父母と暮らすからには完全無菌状態にするなんて不可能だ。

これくらいのことであれば、多大な情報の中で矛盾の淵に突き落とされ

苦しむ状況までには至らないと思い、そのままにした。

悪口を言う方と言われる方が最後にどうなるかは、彼らが見届ければいいことである。


そしてご存知の通り、家には息子たちの祖父母だけでなく

夫の姉とその子供がほぼ常駐体制。

人数の多さから、例の情報量や矛盾が気になるところだが

これも心配はなかった。

彼女はワンパクでうるさいうちの子を嫌って、あまり近寄らせなかった。

幸運であった。


やがて息子たちが大きくなると、家族は母親について滅多なことを言えなくなる。

機嫌を損ねた場合、身長や力で負けるからだ。

女の子と違う点は、ここかもしれない。


ともあれ昔と違って、今のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんは若いので

同居したからといって、私の家のようになる可能性は低いと思われる。

近代の教育を受け、近代の職場で働いてきたので

年長者だから何を言ってもいいというおごりが無いからだ。

そして情報の重要性や危険性をちゃんと知っており

娯楽も豊富で楽しみが多いため、忙しい。

サロンパスの香る座敷へ孫を呼びつけ

嫁や婿の悪口を延々と聞かせるような祖父母は、もはや絶滅危惧種だ。


孫のほうもネットやゲームの情報を浴びるのに忙しく

親の悪口という、いらない情報はシャットアウトする。

だから私のように歪む心配は少ないはずだ。

良かった!日本!



というわけで、さらさんのコメントで思い出した昔話を

長々とお話ししてしまった。

とりあえずは、さらさんや私のように

家族の言動で小さな胸を傷める子供が絶滅することを願う。

《完》
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祖父母と同居する子供について・2

2023年09月13日 11時20分34秒 | みりこん流
祖父の口撃から父を守る手段を考えあぐねたが見つからず

そのまま祖父の悪口を聞き続けるしかなかった私。

それでも祖父の不満を心ゆくまで口にさせることによって

父への風当たりが弱まるのでは…

そんな微かな希望は持っていた。

当時、ガス抜きという言葉は無かった。


が、この方法は失敗だった。

人の不満はとどまるところを知らない。

小学生の孫に話してもおさまるどころか、ますますひどく

そして長くなっていった。

大人になってからわかったが、誰かが聞いてくれると思ったら

不満って永遠に湧き出てくるのね。


こりゃあ、まずいことになった…

子供だって思いますとも。

私にとって祖父は、欲しい物をジャンジャン買ってくれるパトロンだったが

引き換えにひたすら悪口を聞かされる苦行は辛い。

バカよ、能無しよ、と蔑まれる悪い男の子供…

それがお前だと言われているのと同じなんだから、そりゃ辛い。


中でも子供の私を最も苦しめたのは、数々の矛盾である。

祖父の説明によると、どうやら私は悪人から生まれた子供らしい。

それなのに祖父は、私が可愛いと言う。

矛盾。


礼儀にうるさい祖父だが、彼が我々孫にかまける暇があるのは

現場と事務を取り仕切る父がいるからだ。

父がいなければ会社は回らず、祖父は社長ではいられないはずなのに

その父を悪く言うのは礼儀に反するんじゃないの?

矛盾。


「人様の悪口を言ってはいけない」

祖父は折に触れて言うが、あんたが一番言ってんじゃないの?

矛盾。


「いつも笑顔で愛想よく」

祖父はそうも言うが、あんたはどうなんだ。

鬼のような顔で父をののしり、家族の笑顔を消してるじゃないか。

矛盾。


それらの矛盾は、子供の心を痛めつけた。

孫として、この上なく愛されているのはよくわかる。

しかしそれだけに、なぜ子供が悲しむことをするのか…

喜んで聞いていると思っているのか…

疑問は膨らむ一方だ。


子供だって苦しいので、疑問を払拭し、矛盾を解消しようと懸命に考える。

が、子供の頭脳と浅い経験で解決できるわけもなく、行き着いたのがこれ。

「人間には醜い裏がある」

当時の私は、矛盾という言葉を知らなかった。



やがて1年ほど経過した頃、意外な出来事によって

突然この苦行から解放された。

母の胃癌である。

可愛い一人娘が不治の病に罹り…そうよ、当時、癌は不治の病だった…

父の悪口を言う余裕が無くなったのだ。


その2年ほど前から、母は胃の不調を訴えるようになっていた。

私は子供心に、優しかった母が怒りっぽくなって

だんだん人が変わっていく様子を感じていたが

それは父との不仲が原因だと思っていた。


後から思えば、全ては母の病気が元だったような気がする。

しんどいから周囲に当たるようになり、やがてその矛先は父に向けられた。

気ままな一人娘の母は、父に期待する事柄が多過ぎたと思う。

仕事をするのは当たり前、うるさい舅を賢くかわし

妻に優しい言葉をかけて明るい家庭作りに努めて欲しい…。


職業柄、定休日の無い会社を切り盛りしながら

無口な父にスーパーマンのような夫像を望むのは酷というものだが

このように無茶な要望を父に言い、達成されなければ母はシクシクと泣いた。

それを見た祖父は、最愛の一人娘を悲しませる父を叱咤。

ののしるだけではおさまらず、孫に延々と悪口を聞かせる。

子供には、何とも暮らしにくい家であった。


この繰り返しに疲弊していた私は、母の病気を知っても冷静だった。

むしろ、これで何かが変わるかもしれないと期待すらした。

それよりも、我が家の窮状を聞いて大阪から駆けつけてくれた祖父の元カノ…

50代のハルさんが、しばらくうちで暮らすと聞いて嬉しかった。

それまでの家政婦さんが辞めたばかりの時に、母の病気が発覚したので

我が家は人手不足だったのだ。


ハルさんの明るく温かい雰囲気は、我々子供を癒した。

彼女は父と相性が良かったらしく、30代後半の父を弟のように可愛がり

父もまた、ハルさんを信頼していた。

祖父が父の悪口を言うとハルさんがたしなめるので、祖父は何も言えなくなり

我々姉妹は人並みの子供として、安心の日々を送るようになった。


母が市外の大きな病院へ入院する前日

祖父は紙に一筆書いて居間の壁に貼り、我々姉妹に声を出して読むよう言った。

『みんな頑張る、一致協力』


それを見た私はどう思ったか。

「あんただけ、頑張れば」

9才の子供は、ここまで歪んでいた。

言行不一致の矛盾を子供に与え続けると、ひねくれるんじゃよ。

一旦ひねくれたものは、元には戻らんのじゃよ。



母の手術は手遅れで、開腹してすぐに閉じられた。

誰かに教えられたわけではない。

事前に聞いていたのより短か過ぎた手術の時間で、察しがついた。

矛盾の渦で洗濯物のように回されて来た子供は、勘が鋭いものなのだ。


それからさらに1年が経って、ハルさんは家族の待つ大阪へ帰り

交代で祖父の今カノ、ミツさんがうちへ入った。

やはり50代の明るい人で、この人も父と相性が良かった。

祖父が父の悪口を言うのを嫌ったため、我々子供の精神生活は守られた。


さらに1年後、母がいよいよ死の床についた。

近所の病院での終末期、床ずれに苦しんでいた母のために

父は山間部にある実家の協力を得て、ワラ布団を作ってもらった。

現代は床ずれに良い塗り薬があるが

昔は床ずれができたら亡くなるサインとされ

ワラを入れたクッション状の布団を使うと楽になると言われていたからである。


父が持って来たワラ布団を見て、母はつぶやいたという。

「もう、遅いよ…」

元気なうちに、優しくして欲しかったということだろう。

その数日後、母は他界した。

最後まで、わかり合えない夫婦だった。


母が亡くなると、父に対する祖父の憎しみは再開した。

一人娘を悲しませたまま逝かせた…それが祖父には許し難かったようで

実際に祖父本人から、それを聞いた。

ミツさんとの暮らしは継続していたので、以前ほどではなかったが

その頃には私も11才になり、少しは成長していた。

年齢的なものというより、ハルさんとミツさんから学んだと言えよう。

それは、男のあしらい方。


「あら、お帰りなさい、ご苦労様」

「今日の夕飯は◯◯をこしらえてみましたのよ、お好きでしょ?」

彼女らはいつもニコニコして、男がホッとする言葉を口にした。

母や、6才の時に亡くなった祖母からは一度も聞いたことのないセリフだ。


そりゃあね、年取っても人のカノジョをやるぐらいだから

男あしらいはプロだわさ。

それでも家庭の太陽として、一家を回していく女には

この気働きが必要なのだと思った。

《続く》
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祖父母と同居する子供について

2023年09月11日 14時33分27秒 | みりこん流
前回の記事『あの世の扉』のコメント欄で

さらさんから興味深いコメントをいただいた

彼女も子供の頃、父方の祖父母と完全同居だったそうで

お母様のご苦労をしのばれている。


「父方の親戚達 おじやおばが

とにかく祖母と一緒に母の悪口ばかり言っていたので

子供である私は本当にそれが嫌で悲しく

人間の裏の部分を幼い時から見せつけてられて

人を心から信用できない捻くれた人間になってしまいました笑

子供も傷つくんです。

自分の大好きな母が、有る事無い事、同居もしてない外野から言われて。

同居って子供にも、何かしら影響があると思うのは我が家だけでしょうか?笑

だから私はあまり老人が好きではありません」

という内容。


親との同居に関しては経験上、一家言あるつもりだったが

子供の心理に関しては盲点だった。

特に、“人間の裏の部分を幼い時から見せつけてられて

人を心から信用できない捻くれた人間になってしまいました”の部分。

さらさんだけでなく、そのまんま私のことじゃないか。


老人を語らせたら長いと定評?のある私。

老人と暮らす悲喜こもごもに興味の無い人には苦痛でしかなかろうが

祖父母と同居する子供の心理についてお話しさせていただきたいと思う。

そしてついでに申し上げれば、この手の話題に興味の無い方々は

ご自身の幸運に気づいていただけるとありがたい。



さて祖父母と同居する子供って、今どきは滅多にいない。

我々、そして我々の子世代あたりが最後ではないかと思う。

代わりに親世代の敷地に子世代家族が家を建てるという

敷地の広い田舎ならではのケースは現在も見受けられる。


いずれにしろ私の世代までは、以下のようなことが

まことしやかに言われていた。

「祖父母と同居する子供は、優しい子に育つ」


どこがじゃ!

祖父母と同居して育った私はどうだ。

優しくないことにかけては自信がある。

そのような家庭環境の子供が皆、優しくなるわけではないぞ。


ともあれ祖父母と同居して育った子供と、核家族の子供…

この二者の違いは、ひとえに情報量だと思う。

家族の人数が多い分、情報量も多いということだ。

家族の人数が多ければ、各自の親戚や友人知人の出入りも多くなり

家庭内を飛び交う情報量は

核家族の何倍、何十倍になるというわけである。


しかし、もたらされる情報は玉石混淆。

躾けや礼儀作法から愚痴や悪口まで、さまざまだ。

子供は望むと望まないに関わらず、それらの情報をキャッチする。

そしてキャッチした情報について、色々なことを考える。

祖父母と同居する子供は考える機会が豊富な分だけ

核家族の子供より大人びているかもしれない。


これら豊富な情報が良い結果を生むケースはもちろんあって

私の周辺にも実例は存在する。

美容師を何人も抱える美容院を経営していたお母さんに代わり

母方のお祖母ちゃんの細やかな薫陶を受けて育った同級生のみーちゃんは

その成功例の際たるものだ。

美しいのは心だけでなく、子供の時分から礼儀、所作、話し方も美しく

成績まで良かった。

女の子ならこうありたいという見本のような人物だ。


しかし、ここでも話したが数年前、59才の時に病気で亡くなってしまった。

あんまり完璧だと早く召されるのかも…

私はそう思い、自分の性悪に安堵したのはさておき

他にも祖父母、あるいはどちらか一方と同居していた友だちはたくさんいる。

5人会の仲間で旅館の娘モンちゃん、肉屋の涼子ちゃん

両親が共働きで歌の上手いサヨちゃんなどなど…

我々が子供の頃は、そういう家が多かったのだ。

そして素直で優しい、安心感の持てる子が多かった。


が、私はそうはならなかった。

持って生まれた資質かもしれない。

しかし、それに加えてさらさんがおっしゃるように

人間の裏の部分を幼い時から見せつけてられて

人を心から信用できない捻くれた人間になってしまったのだ。


その裏の部分とは、祖父の壮絶な婿いびりである。

婿養子だった父に対する祖父の態度は最悪。

物心がついて以降、祖父から父の悪口を聞かされるのが私と妹の日課で

その内容は仕事の仕方や言動だけでなく、顔立ちや婿入り道具にまで及んだ。


大好きなお祖父ちゃんから

もっと大好きなお父ちゃんの悪口を延々と聞かされる日常は

私の心を二つに分割した。

黙って祖父の話を聞き続ける自分と

「もうやめてくれ!」と叫んで暴れたい自分だ。


やめてくれ!と言いたかったよ、そりゃあ。

が、誰よりも大好きな母は、祖父の一人娘。

母と祖父は仲の良い父娘ではなかったが、父に関しては同じ意見だった。

それは両親の夫婦仲が冷え切っていたからだ。

早い話が、離婚寸前よ。

もちろんその原因は性格の不一致もあるが

父に対する祖父の態度も大きかったと確信している。

父にすれば、自分を目の敵にしていじめる男の娘を誰が愛せるというのだ。


両親が表立って喧嘩をすることはなかった。

生真面目な母が不満を訴え、父が取り合わないという形の冷戦だ。

それが目立つようになったのは、私が小2の頃からである。

祖父が父の実家から長兄夫婦を呼び

本格的な話し合いが行われたことも複数回あった。

父の長兄は座持ちの良い人で、祖父をうまく取りなしてくれたが

大好きな父と離れ離れになるのではないか…

そう思うと8才の私の心は震えた。


そのような関係性の中で、私が父の味方をすれば

祖父と母は嘆き、父はますます辛い目に遭うのではないか。

私の抗議行動が、父と母を完全に決別させてしまうのではないか。

幼い私はそう思い、身を切られるような思いで祖父の話に耐え続けた。


私が小3になると、祖父と母VS父の関係はさらにヒートアップした。

一方的な母の訴えを聞いた祖父が、声を荒げて父を叱ることが日常。

しかし父は、やはり取り合わない。

祖父と母は反省どころか無反応を貫く父にいきり立ち

悪口に拍車がかかる一方だった。


父の何がいけないのやら、私には皆目わからなかった。

いつも一生懸命、働いている父

出張に行けば素敵なお土産を買って来てくれる父

目が合うとニッコリ笑ってくれる父

抱き上げて「高い高い」をしてくれる父

背が高くてカッコいい父

町の人たちに好かれている父

やっぱり大好きだ。


「それなのに、お祖父ちゃんとお母ちゃんはどうして?」

私の軽い頭の中は、ずっとその疑問でいっぱいだった。

この状況を何とかしたかったが、考えたって名案が浮かぶわけもなく

結局は現状維持。

これまで通り、祖父の聞き苦しい悪口に耐えるのさ。

今で言う、ガス抜きの役割をしようと考えたのである。

《続く》
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あの世の扉

2023年08月31日 09時12分17秒 | みりこん流
高齢化社会と言われる昨今、周りの老人たちを眺めていて

つくづく思うことがある。

語弊満載を承知で言うなら

彼ら彼女らは、ただの長生きではないのではないか…と。

長生きには二通りあって、まだこの世に必要な人と

あの世の扉が開かない人に分かれるのではないか…と。


“まだこの世に必要な人”という意味は、誰でもわかると思う。

人格卑しからず、誰かの精神的あるいは経済的な支えになっていたり

各分野で活躍していて、当面、いなくなったら困る人のことだ。

そして“あの世の扉が開かない人”の方は

「こんなのに来られたら困るから、そっちでもうちょっと修行せぇ」

ということで、あの世へ行く時期を先延ばしにされている人のことだ。


あの世で「いらん」と言われる人が、この世でいるわけないじゃんか。

どっちの世界にも歓迎されぬまま、不平不満を口にしながら生きながらえるのが

“あの世の扉が開かない人”である。

「ああ、あの世の扉を開いてもらえないのよね。

扉が開くまで、この世でのたうち回るしかないのよね」

周囲の年寄りに翻弄されっぱなしの私は、そう思うことにしているのさ。

そうでもしなきゃ、やっとられんのさ。


なんてひどいことを…明日は我が身じゃないか…

私の本心を知った人々は言うだろう。

しかしそれは、親と暮らしてないから言えるのだ。

いっぱしのことが言いたかったら、イメージではなく

まず老親と同居するという人生を棒に振る大チャレンジを

やらかしてからにしてもらおうではないか。


長生きをするとは、愛する家族や気の置けない友を

一人、また一人と見送る悲しみを重ねることだ。

それでなくても年を取ると孤独感が増し、大勢の中にいても寂しくなって

自分だけが取り残されているような気持ちになる。

自動的にそうなるらしいのは、自分の祖父で知っているつもりだ。

饒舌な彼から、そういう気持ちを日々延々と聞かされて成長した。


それでも健気に自身を鼓舞し、明るく楽しく生きたいと願うのが人間というもの。

しかし、周りがそうはさせてくれない。

「ささ、おじいちゃんは、おばあちゃんは、あっち」

「その話はもういいから、ね?」

愛想笑いの向こうに透けて見える、「邪魔なんだよ」。

年寄りの勘は、若い者の何倍も鋭いのでわかるのだ。


経験を重ねて勘が磨かれた人もいるだろうけど

あの世が近づく年齢になると、勘は自然に鋭くなっていくもの。

あの世は感覚の世界だからだ。


そのための準備として、勘を含む感覚が徐々に敏感になっていく。

道路標識や道しるべなんか無いのに

方向音痴でも漏れなくあの世に到達できるところをみると

そうとしか思えない。

昔、記事にしたことがあるが、40年以上前

家庭内のアクシデントによって

図らずもそういうことになった私はそう思っている。


今はナビがあるかもしれない。

携帯電話だって普及しているかもしれないので

現在地と目的地を調べることができるかもしれない。

その分、研ぎ澄まされるべき感覚は偏り

勘も敏感も必要な箇所には働かず、不要な箇所にはやたらと働いたりする。


特に自分が中心でない時、その感覚は過敏に働く。

そりゃ情けない。

腹が立つ。

我慢ならない。

文句を言いたくなる。

周囲の我慢によって細々と保たれていた上辺の平和は

一瞬で崩壊。

冷たい空気と置かれた距離に、寂しさはますますつのり

その気も無いのに「早く◯にたい」とまで口にする。


言い方を変えれば、自分がいつまでも中心でいたい人に

このような誤作動が起こるのではなかろうか。

あの世の扉が開かない人は、自分がいつまでも主役でいたい人ではないのか。

年を取っても脇役に回りたくない老女優…

周りを見回すと、そのような人ばかりである。

その根性は見上げたものだ。

長生きがしたければ、そうなればいい。

皆に愛され、尊重され、健康で、そこそこ幸せで…

そんな長寿はまず無いと思うことだ。


どうしてそんなことになるかというと

アレらの日常は「気が済まない」を軸に回っている。

行かなければ気が済まない、やらなければ気が済まない

言わなければ気が済まない…。


気が済まないという感情は、気持ちの中で最も強い。

強気はけっこうなことなのだが、問題はこの“気が済まない”が

周囲にとって不都合な場面で発動することだ。


家事をしなければ気が済まない、お小遣いを上げなければ気が済まないなど

良いところで発動するのであれば周囲は喜ぶ。

しかし、それは起きない。

“気が済まない”の発動は、必ず誰かの協力や忍耐を必要とする事柄に限定。

しかも急で頻繁。

そして言い出したらきかない。

これが老化というものなのである。


車でどこそこへ連れて行ってもらわなければ気が済まない。

気になった片付けや作業を人にやってもらわなければ気が済まない。

つまらぬことや言ってはいけないことを口に出さなければ気が済まない。

言うなれば我々子世代の生活は、老人の“気が済まない”に支配されているのだ。


そしてアレら自身もまた、この世の残留期間が長引くにつれて

“気が済まない”に支配される割合が増えていく。

肝心なところで発動せず、見当違いの場面で急に気が済まなくなるのだから

関わったらロクなことは無いということで、周囲から敬遠される。

それでも“気が済まない”の気持ちはおさまらない。

願いが叶って気が済む状況を身悶えしながら欲する。

その気持ちは辛くて苦しいと思う。

しかしこれが老化なので、どうしようもないのである。


その痛みを知りつつも、こっちは支配なんてされたくない。

せっかく生まれてきたんだもの、私も自分の人生を生きたいよ。

年取ったらなおさらだよ。

だけどその生は、そもそもアレらに授けられたもの。

諦めて支配される身の上に甘んじ、何とか折り合いをつけて

アレらにあの世の扉が開かれ、静かになるまでと歯を食いしばりながら

どうにか息をしているというのが、紛うことなき現実である。


これほど頑張ったんだから

扉のオープン後はさぞや幸せな晩年が待っているだろう…

なんて思ってない。

「親を大切にしてると、いいことあるよ」

そう言ってくれる人もいるけど、無責任なこと言うな…と思ってしまう。

いいことなんか、あるもんか。

長い長い同居や介護生活の果てに、待ち構えているのは自身か伴侶の病気だ。

同じ境遇の人々を観察してきたが、おしなべてそういうことになっている。


ここでもお馴染み、一回り年上の友人ヤエさんも半世紀以上に渡り

大舅、大姑、舅、姑を看取るという大仕事をやってのけたが

全てが終わるとすぐに精神を病んだ。

心だけでなく、身体の方もボロボロだ。

もう会っても私がわからない。


だからそうならないように、一生懸命をやめた。

真面目に取り組まない。

観察から、「我慢したら後でいいことがある」という考えこそ

自分の心身を追い詰めるとわかったので、絶対思わない。

アレらがキレて、「もう◯にたい」なんて口走ったら

「どの方法がお好み?」

「失敗したらどうするん?自◯は健康保険証きかんよ」

と言う。


そんな一生懸命を辞めた私と義母ヨシコが今、ハマってるのはミョウガの収穫。

庭の片隅に自生してるんよ。

長いこと気がつかなかったんだけど、今年、ひっそりと成っているのを発見。

二人で見つけるの、楽しい。



もう終わりで、花が咲き始めてる。

ミョウガは私の大好物、そしてヨシコの大嫌いな食品。

自分は嫌いなのに、私が喜ぶから探す…

その姿を見て、ありがたいと思う…

私に許されているのは、そんな小さな幸せ。

それでいいと思っている。

私には、小さな幸せがお似合いだ。


ミョウガの親というか葉っぱはこれ。

コメント (6)
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