殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

始まりは4年前・22

2024年08月20日 10時08分08秒 | みりこん流

『ドクターストップ・part2』

M先生が母をうまくあやしてくれているうちに

母の実子マーヤと打ち合わせていた11時40分になった。

関西で教師をしているマーヤが電話に出られるのが

この時間だった。

 

母は心療内科の入院に引き続き、今回の◯◯精神病院にも

同じ医療強制保護入院の措置で入る。

その措置を執行するためには親族の承諾が必要だが

私と母は養子縁組をしてないので、戸籍上はあかの他人。

心療内科は他人の私で大丈夫だったが、ここは厳密で

入院するにはマーヤの承諾が不可欠だそう。

 

マーヤの手が空いた時、彼女から病院へ電話すればいいようなものの

そこも厳密で、必ず病院側から電話することになっている。

そういうわけでM先生は、マーヤの授業が一段落した休憩時間に

電話をかけるのだ。

内容を母に聞かせないためだろう、M先生は別室へ去った。

 

数分後、戻ってきたM先生は言った。

「今、娘さんとお話しして承諾してもらったので

サチコさんの入院が決まりましたよ。

ハキハキして、しっかりした娘さんですね。

あ、学校の先生だから当たり前か。

先生が頼りないと困るよね」

愛娘マーヤを褒められてご機嫌の母だが

なぜ電話をしたのかは、おわかりでないご様子。

「娘さん、電話があるまで気が気じゃなかっただろうな〜。

生徒さんは、今日の先生、何かおかしいって思わなかったかな?

ハハハ」

どこまでも明るいM先生である。

 

マーヤの承諾があって初めて、母は上階の病棟へ移ることができる。

彼女は迎えに来た病棟看護師に連れられ、診察室を出た。

「じゃあね、また面会に来るからね」

「うん、来てね」

そう言って別れ、残るように言われた私はM先生と面談だ。

 

「先ほど娘さんが承諾されたので

サチコさんの医療保護入院の手続きが完了しました」

心療内科では医療強制保護入院という表現だったが

ここでは医療保護入院と、少し短め。

どっちでもいいらしい。

 

M先生は続ける。

「サチコさんは鬱病ですが、認知症も進行しています。

先ほどの認知症テストの結果は、30点満点の15点でした。

15点以下は、完全な認知症です。

脳の写真では前頭葉の萎縮があって…

ほら、前の方がスカスカになってるでしょ」

M先生はCT写真を指差しながら、説明する。

 

「だけど真ん中から後頭部にかけては、頭蓋骨の中身が満タンでしょ。

新しい記憶は消えるけど、他のことはしっかりしているという

マダラボケの状態です。

だから、好きなことや楽しいことはよく覚えてて

どんどん話すでしょ。

コーラスの話をする時なんか、目がキラキラしてたもんねえ。

だけど鬱病の方も深刻で、一人暮らしはもう無理と判断したので

ドクターストップをかけました」

 

またドクターストップだよ。

2回目ともなると、ありがたみが薄れるわ〜。

その一方で

「じゃあ私はドクターストップをかけられるランクの病人を

ずっと面倒見てたわけ?バカでねぇの?」

という思いも湧いた。

地元の内科医A先生が、私にストップをかけてくれなければ

今日も母を連れてウロウロしていたことだろう。

やっぱりバカでねぇの?

 

M先生との面談が終わり、帰ろうと診察室を出たら

さっき母を連れて行った病棟看護師が、駆け足でやって来た。

「お母様が、どうしても娘さんに会うと言っておられるんですが

ちょっと病棟まで来ていただけますか?」

ずっと我々に付き添ってくれていた相談員は

「どうなさったんですかね?」

と首を傾げているが、私にとってはさもありなん。

精神病院の看護師まで手こずらせる、それが母である。

 

相談員に案内され、エレベーターで病棟へ上がると

そこはロビーになっていて

病棟の入り口には頑丈そうな鉄製の扉がある。

我々部外者は病棟には入れないそうで

患者に会う手段は、ロビーにある二つの面会室のみ許されている。

病棟の扉も面会室も鍵がかかるようになっていて

看護師は皆、それぞれの扉を開閉する鍵を腰にぶら下げていた。

 

母は2人の看護師に支えられ

鉄の扉からヨロヨロとロビーに出てきた。

「何もかも取られた…」

そう言って泣きじゃくっている。

ちょうど面会時間が始まっていたので

面会室は二つとも先客で塞がっている。

そこで病棟の扉の前にある小さな椅子に母を座らせ

看護師立会いのもとで話すことになった。

 

「何もかもって、何?」

「着る物も、化粧品も、ぜ〜んぶ取られた…」

相談員が小声で私に説明する。

「患者様の私物は全部、看護師が管理する規則になってるんです。

持っておられる私物を使って

ご自分や周りの方を傷つけることもあるので

予防のために仕方がないんですよ。

お母様は、大切な物を取られたような気持ちになられたんでしょう。

あ、それから化粧品は一切ダメなので、後で持って帰ってください」

まあねぇ…化粧品も危ないわよね。

飲んだりしたら大変だものね。

 

「必要な物があったら、その都度、看護師に伝えてくださいね。

許可できるものであれば、お渡ししますからね」

相談員は泣いている母に話しかけ、2人の看護師もウンウンとうなづく。

 

「じゃあ、ケイタイ…」

母は小さな声で言った。

「え?」

「携帯よ!

携帯も取られたんよ!

あれはお金が関わる物じゃけん、他人が勝手にできんはずよ!」

急にしっかりして怒り出す母。

相談員は困り顔で私に説明する。

「携帯も私物の扱いなのでね〜

入院直後は看護師の管理になるんです。

ご本人に返すかどうかは、医師の判断になります」

 

「返して…携帯、返して…

あれが無いと私は生きられん…◯んでしまう…」

再びワッと泣き出す母。

 

生きられんじゃの◯ぬじゃのと、昔から簡単に言う癖があるけん

鬱病認定されたんと違うんか…

私から見れば、母はうちへ嫁に来た当初から何ら変わりは無い。

だけど今になって、人は病気だと言う。

やっぱり不思議な気持ちだ。

高齢になって、仮面の自分と本来の自分の区別がつきにくくなり

それで人の知るところとなったのだろうが

ともあれ母がゴネている理由は、携帯だとわかった。

《続く》

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始まりは4年前・21

2024年08月19日 09時52分55秒 | みりこん流

『入院』

母の担当医は、先ほど相談員が私から聞き取った内容の報告書を

別室で確認しているらしい。

母と私と相談員は、診察室でそれが終わるのを待っているのだ。

 

しばらくすると

「初めまして!院長のMです!」

担当医の院長先生が、颯爽と診察室へ入ってきた。

年齢は50才前後か…イケメン&長身だ。

ニッコリ母に笑いかけると、白い歯がキラリ…

七三に分けたヘアスタイルと相まって、昭和の映画スターみたい。

 

ヨッシャ〜!

私は心の中で、ガッツポーズ。

イケメンで長身の男性医師は、サチコの大好物だ。

 

担当医に、ファン心理や恋に似た感情を持つ老女は多い。

老いや病気の不安から、医師を信頼してすがりたい気持ちは

誰でもあるので、それは異質なことではない。

そのすがりたい人が美男子であれば言うこと無し…

老女あるあるだ。

 

母も例外ではない。

例外でないどころか、男性医師が大好き。

だから地元の内科医、A先生を慕っていた。

A先生はイケメンではないものの、とにかく優しいのがお気に入り。

心を病んでからは恋する乙女そのもので、毎日のように通っていた。

 

一方、昨年末に心臓の精密検査を受けた際の医師は

若い女性だった。

母は「あんな小娘…」と言って気に入らなかった。

今朝まで入院していた心療内科の先生も女医さんなので

母は受診し始めた当初から不満タラタラだった。

入院を勧められて最初は渋ったのも

自分より年下の女性が言うことを

素直に一回で聞くのがシャクだったからである。

 

しかし今回は違う。

M先生はイケメン&長身に加え、愛想が良くて優しそう。

母の理想を全て満たしているではないか。

隣の母を見たら、目がハートになっとる。

こりゃ、一目惚れだね。

 

「お家が立ち退きになるんだって?」

M先生は高身長を折りたたむようにしゃがみ

母をのぞきこんで心配そうに問う。

そうさ…さっきの相談員の聞き取りで

立ち退きが迫っていることを話しておいた。

次男の別れた妻で、元精神科の介護士アリサの入れ知恵である。

「立ち退きのことは、ぜひ話しておくべきです。

住む家が無くなるなんて、あんまり無いケースだから

医療関係者の興味を引くはずなので、入院や入所には有利だと思います」

 

話は飛ぶが、実家は道路の拡張工事に伴い

数年後には立ち退く予定である。

コロナで工事は中断されていたが、今年から再開された。

少しずつ実家の方へ近づいて

母の寿命と工事の到達、どっちが早いかというところ。

 

しかし問題は、家と庭の全てが立ち退きの対象ではないこと。

全部取られるのなら、立ち退き料がたんまり出ようから

代替え地に新築すればいいけど、うちは前半分だけだ。

残った後ろ半分に家を建てようにも広さが中途半端だし

母も90を超えて家を新築する気力は無く

年齢的にも、建てた家であと何年暮らせるのやら。

心中は穏やかでなかった。

 

けれども地元生まれ地元育ちの母には

同級生のネットワークがある。

仲のいい同級生が、自分の母親を引き取るために建てた

小さな家を借りる手はずになった。

引き取った母親がすぐに亡くなったので、家は新しいままだ。

しかも母の実家と至近距離。

実家愛の強い母にとって、これ以上の好条件は無く

月5万で借りる下話も済んでいた。

 

が、残念なことに3年前

家を貸してくれるはずの友だちが亡くなってしまった。

認知症のご主人は存命だが、もう家を借りる話などできはしない。

絶好の移転先を失い

「この年で、どこへ行けというの?」

と、コーラスほどではないが、悩んでいたので

「うちの近所に洒落たアパートか建ったけん。

そこを借りてあげるけん、引っ越しんさい」

母にそう言ったのが、この春先。

 

いい加減な気持ちで言ったのではない。

実家へ通うより、すぐ近所の方が私も楽だと考えた。

母はそれですっかり安心したのだが、問題は立ち退く時に

うまくアパートが空いているかどうか。

今は満杯である。

 

 

話を戻すが、M先生が真っ先に立ち退きの件を口にしたところをみると

アリサの言った通り、興味を引いたらしい。

しかし目がハートになっている母は

うちの近所へ引っ越す話に落ち着いているのもあり

「はい…でも私はあんまり気にしておりませんのよ」

と気取って答えた。

 

「そうですか!それなら安心しました。

お家が立ち退きになるなんて、大変なことですからね。

コーラスの方はどうですか?長く続けてこられたんでしょ?」

コーラスと聞いて、食いつく母。

歌が好きなこと、楽しかったこと

だけどしんどくなったことなどを次々と話す。

立ち退きの次はコーラス…M先生のリサーチは完璧だ。

母のツボを押さえて話をさせ

警戒心を解いて心を開かせるのがうまい。

さすがプロ。

 

「しんどくなったのか〜…

潮時だったんだね。

潮時って、あるよね。

コーラスもだけど、お料理もお洗濯もお掃除も、潮時じゃない?

サチコさん、ここらでちょっと休みましょうよ。

もうしんどいこと、み〜んなやめちゃいましょうよ。

入院して、楽しいことだけして

元気になってもらいたいな〜って、僕は思うんだけど

しばらくここに居てもらえますか?」

うまい…こう言われたら、イエスと言うしかあるまい。

 

「先生がその方がいいとおっしゃるなら、そうします」

M先生を見つめてうなづく、乙女サチコ。

「本当?良かった!

イベントもよくあるし、お友だちもできるから

慣れると楽しいですよ。

ねえ、Nさん、皆さんそうだよねえ」

M先生は相談員に相槌を求め、相談員もニコニコしてうなづく。

「ええ、それはもう楽しく過ごしていらっしゃいますよ」

 

入院と言われたら抵抗すると思っていたが

M先生が美男子だったことは、天の助けとしか言いようがない。

こりゃあ、何でも言うことを聞きそうだ。

もしも彼が、母の嫌いな低身長のブスオだったら

こうはいくまいよ。

《続く》

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始まりは4年前・20

2024年08月18日 09時50分17秒 | みりこん流

駐車場の車に着くと、母は車椅子から降りて

車の後部座席におとなしく乗る。

彼女は助手席に乗ってドライブするのが好きだが

しばらく前から助手席には乗れなくなった。

背が縮み過ぎて、シートベルトをしたら首吊り状態になるからだ。

 

介護士に見送られ、転院先の◯◯精神病院へ向かう。

山越えをして、20分余りの道のりだ。

「どこへ行きょうるん?」

途中、何度もたずねる母。

「大きい病院で検査をしてもらうんよ(嘘じゃない)」

「ふ〜ん…検査が済んだら家へ帰れる?」

「検査の結果が良かったらね。

悪かったらもう少し先になるけどね(嘘じゃない)」

「あの病院へ戻るのは、嫌じゃ…」

「あそこへはもう戻らんよ(嘘じゃない…追放されたんだから)」

「ほんま…?」

「あんたが戻りたい言うても、戻られんのよ」

(嘘じゃない…もう受け入れてもらえない)」

「えかった…」

 

“検査”の二文字に助けられ、母を騙すという行為は

からくも回避できた私。

しかし、こうも普通に素直だと、あるや無しやの我が良心はチクチクと痛む。

 

母の世話をするようになってから、彼女は私に言うようになった。

「あんたのお母さんは、ええ子を残してくれたもんじゃ」

「あんたと出会えた幸せに感謝しとるんよ」

けれども私はそれを聞いて

「努力が実った」と感激するようなタマではない。

それらは、子供の頃から言われ続けていた言葉の真逆だからだ。

「あんたらのお母さんは、ロクでもない子を産んで死んだ無責任な人」

「あんたらさえおらんかったら、私はもっと幸せになれた」

 

母は元々、前言撤回の多い人物だ。

本人は無意識だが、聞いた方は

前に言ったこととあまりに正反対なので

「どの口が言う?!」と誰もがびっくりする。

それが母である。

 

母は趣味の俳句を70年続け

入院する前の月まで、句会にも参加していた。

娘を思う母心を詠んだ甘口の句の他は

豪快、時に繊細な情景描写を得意とし

全国ネットの同人誌には毎月欠かさず三句ほど投稿。

ほぼ毎回、選出されて掲載された。

 

しかし彼女の場合、こよなく愛した俳句が

良くない方向に進んで行った。

自身をヒロインに設定してドラマチックを追い求め

自身の発する言葉で人の意識に爪痕を残したい…

若い頃から、その願望が強まる一方だったと私は分析している。

 

言うなれば歯の浮くような真逆のセリフは

無給の家政婦と運転手を維持するためのリップサービスに過ぎない。

だって便利じゃん。

老人は、無料と便利が大好きだ。

そのためなら何だってやる。

 

しかし素直は、うがって考えなくてもわかるというもの。

本来はこういう人だったのかもしれないな…

と思い、ガラにもなくセンチメンタルな気分になってしまう。

「行かんったら行かん!人◯し!恩知らず!それでも人間?!」

「やかましい!それ、ぶち込んでやる!」

この方が、よっぽど気が楽じゃないのさ。

 

ひょっとしたら私がもっと頑張ることで

彼女はまだ一人暮らしを続けられて

浮世の暮らしを満喫できるのではないか…

たびたびそんな錯覚をおぼえるが、いいや…と首を振る。

この素直は、本当に具合が悪いから出現したのだ。

今はやはり、一人で置いたら生命に関わる。

 

前日、心療内科へ入院するために迎えに行った時

「入院費はこれで払って」

母はそう言って私に年金の入る通帳を渡し、暗証番号を伝えた。

親子なら普通のことかもしれないが、疑り深い母と

信用されてない継子の間ではあり得ないことだ。

やっぱり彼女が通常モードでないのは、明らかだった。

 

母親を背負って姥捨山へ向かう息子のような気分を味わいつつ

車は◯◯精神病院へ着いた。

手を引いて玄関まで歩く時も、母は黙って素直に付いて来る。

うう…。

 

受付で書類を渡し、少し待っていたら

若い女性の看護師が迎えに来て、母を検査に連れて行った。

そして私は若い男性看護師に案内されて、応接用の個室へ。

昨日も長くやって疲れた、聞き取りというやつだ。

 

看護師の聞き取りが終わったら、今度は相談員の聞き取り。

物事の柔らかい中年女性だ。

母の入院中は、この人が担当になって家族の相談に乗ってくれる。

 

私が看護師の聞き取りを受けている間に

母は認知症テストを受けたようだ。

相談員はすでに、テストの結果を把握していた。

「テストで認知症がはっきりしました。

こちらで介護申請をするので、書類を書いていただきます。

ご本人からの申請ということにして、代筆してください。

サチコさんの印鑑はお持ちですか?」

ハイ!持っていますとも!

三文判を持って来て、本当に良かった。

忘れたら、昨日のようにまた二度手間になるところだった。

今度の病院はちょっと遠いから、また来るのはかったるい。

 

続いて相談員が言うには、入院はひとまず3ヶ月を目安にして

回復したら施設入所に切り替えるという話だ。

病院は隣の敷地で老人施設も運営しているので

そっちへ行くことになるのかもしれない。

 

となると、病院側が知りたいのは患者の支払い能力。

それを確認するためか、母の職歴を聞かれたので

公務員だと答えたら「うらやましいです〜」と言いながら

安心した様子。

 

もっとも患者の年金額は、病院で調べることができるそうだ。

介護申請をしたら、年金額のわかるサイトに入れるのだと

相談員が教えてくれた。

年金事務所か市役所の税務課か

それとも別の機関なのか知らないけど

アレらが病院や介護施設とグルなのはわかった。

 

やがて看護師に連れられて、母が検査から戻って来た。 

今度は母を交えて相談員と少し話したら

次は女性介護士の聞き取りだ。

この頃になると、もう話し疲れてあんまり記憶が無い。

 

それが終わったら、さっきの相談員と共に診察室へ移動して

いよいよ担当医との面談。

入院と言われたら、泣いて嫌がるだろうな…

まんじりともせず身構えて、母と一緒に先生のお出ましを待つ。

さて、母の運命やいかに!

《続く》

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始まりは4年前・19

2024年08月17日 09時24分50秒 | みりこん流

『転院』

母の入院作業が全て終わり、家に帰ると午後3時半。

朝の10時に母を病院へ連れて行ったきり

飲まず食わずだったが、空腹は感じないままだった。

明日から実家へ行かなくていい…この、ありがたき幸せ!

「今まで昼に留守をしてごめんね!明日からは家におるけんね!」

家族に言ったりして、喜びに浸る。

 

しかしその喜びは、わずか3時間の短いものだった。

午後6時半、病院から電話が。

「急なお話で申し訳ないんですが

サチコさんは明日、転院することになりました」

聞き取りをした男性看護師からだ。

あまりにも意外な話である。

 

しばらく入院した後、落ち着いたら転院させるという話は

女医先生から聞いていた。

転院先は隣市の◯◯精神病院か

遠い市外にある大きな総合病院を考えているが

どっちがいいかと聞かれたので

遠くて車の多い都市に通うのは難しいから

比較的近い◯◯精神病院の方がいいと答えた。

しかし、こんなに早いとは夢にも思わなかった。

 

「転院先は、◯◯精神病院です。

明日9時にこちらへ迎えに来て、連れて行ってあげてください」

「あの…母は何か、ご迷惑をおかけしたんでしょうか?」

とたずねると

「いえ、そんなことは…」

と、にごしながらも

「電話をかけさせて欲しいとおっしゃって

何回も詰所に来られています」

とだけ言った。

 

病室から出ないよう、ポータブルトイレも置かれたが

出入り口にセンサーのプレートを置くとも言われていた。

病室のドアに近づくとセンサーが反応して

ナースセンターのブザーが鳴る仕組みだ。

同室の3人は寝たきりで動けないので、これは母専用の措置。

諦めない女、サチコのことだ…

ナースセンターにある電話を目指し

幾度となくセンサーを踏んだと思われる。

電話の用件はただ一つ、私に迎えに来いと言うためだ。

 

この病院には内科や外科の患者も入院していて

母のような精神的症状の患者に対応できるシステムではないため

入院してから6時間余りで早くも母の扱いに困り

持て余したのは明らかだった。

要するに母は病院を一晩で追い出され、精神病院へ転院させられるのだ。

 

「サチコさんは、こちらへ入院されたのと同じく

◯◯精神病院にも医療強制保護入院として

移っていただくことになります。

うちへの入院はみりこんさんの承諾で大丈夫だったんですが

今度は実の娘さんの承諾が必要になります。

急なことなので、電話で承諾してもらって

書類は後から送ることになると思います。

担当医と直接、話してもらうので

娘さんの都合の良い時間を聞いておいてください」

私と母が他人だということは、家族構成の聞き取りの際

病院側に話してあった。

今回のような手続きをスムーズに行うためである。

 

私は取るものも取りあえず、転院の準備を始めた。

まず妹のマーヤに連絡し、電話に出られる時間をたずねる。

それから妹二人の住所と電話番号、携帯番号をメモに書いた。

マーヤに承諾書の書類を送るそうなので、住所を聞かれるのは必至だ。

一つ下の妹の住所は必要ないかもしれないが、万一に備えた。

 

そうそう、母の苗字の印鑑も忘れてはならない。

印鑑のいらない時代になりつつあるが

病院ではまだ重要な書類に使用している。

この日の入院では母の印鑑を持って来てなかったため

入院手続きの書類が一度で終わらなかった。

実家まで印鑑を取りに行くのが面倒だったので

コップや入れ歯洗浄剤を買いに出たついでに

ホームセンターで三文判を買い、書類に押して再び持って行ったのだ。

その三文判を用意する。

今日やったばかりなので、必要な物はよく覚えている私だった。

 

翌朝は小雨。

私の心と同じ、暗くて重々しい空模様である。

転院させるため、母を迎えに家を出たが

鋼鉄のハートを持つはずの私も、この時ばかりは足取りが重い。

だって、私が迎えに行ったら、母は家に帰れると思い込むだろう。

それが家とは違う方向に走り、別の病院に到着したら…

捨てられると思って泣くだろうか。

怒り出して暴れるのだろうか。

 

手こずるようであれば、病院から搬送車を出して

スタッフが同行する旨を前日の電話で言われているが

親一人、自分で連れて行けないなんて情けないような気がする。

その一方、母を騙して姥捨山へ捨てに行くようで

どっちにしても気が重いのは確か。

 

病院は、家から車で5分と近い。

着かなきゃいいのに…と思いながら、病院に続く細い坂道を登り始めたが

いつもは上から次々と対向車が降りて来て離合に手こずるというのに

こういう時に限って1台も来んじゃないか。

だから、すぐ着いた。

 

受付で迎えに来たことを伝えて待っていると

30代半ばぐらいの男性の介護士が、母を車椅子で連れて来た。

「みりこん…」

母は嬉しそうに私の名を呼び、子供のような小さい両手を伸ばす。

うう…つらいぞ。

 

介護士は、母を駐車場の車まで送ってくれると言う。

昨日持って来たばかりの入院の荷物と、転院先に渡す書類を受け取り

車椅子の後を付いて行く私の心は

歩を進めるごとにますます重くなっていった。

 

が、その介護士、病院の玄関を出ると

車椅子でおとなしく運ばれる母に、優しく話しかけるではないか。

「検査に行きましょうね」

 

その言葉は母だけでなく、私にも言っているように聞こえた。

転院先に着くまで、このセリフで行け…

そう教えてくれているみたい。

でなければロビーの喧騒から離れ、自動ドアの開閉音も消え

静かになったタイミングで、唐突に言うはずがない。

さすがプロだ。

 

その温かい配慮と、決めのセリフを入手した安堵に

私の心はたちまち軽くなった。

向こうに着いたら、まず色々な検査があるのだから

嘘をついて連行することにはならない。

それから先のことは転院先のプロにお任せすることにして

今は考えまい…。

《続く》

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始まりは4年前・18

2024年08月16日 08時32分13秒 | みりこん流

『ドクターストップ』

入院の決心をしたとはいえ、その決心を簡単に覆し

周りを責める材料にするのも母の特徴だ。

よって母の決心は、あんまり信用してない。

 

この入院が失敗したら…つまり病院を抜け出して逃げ帰ったり

病棟で暴れて強制退院させられるようなことになったら

次の入院は難しくなるかもしれない。

そして母は、最初に病院へ連れて行った私を一方的に恨むだろう。

私の言うことを聞かなくなって実子のマーヤを追い求め

以前よりもっと厄介なことになる可能性は高かった。

 

そもそも母は、私に世話をさせるのが不本意なのだ。

老いた彼女の世話をするのは一人娘のマーヤと

長兄の娘、祥子ちゃん…この二枚看板を予定していた。

「あの子らにお金をやって面倒を見てもらうけん。

あんたらの世話になることは絶対に無いけんね!」

まだ若い頃から、私と妹に宣言していたものだ。

 

しかし老後のフタを開けて見ると、そうはいかんかった。

巡り巡って継子の世話になる、あまりにも予定外の老後…

それは彼女にとって、敗北を意味する。

親身に世話をすればするほど、母の心が枯渇していくことに

私は気づいていた。

それが病気の原因になったと思っている。

 

ともあれ本人が入院したいと言っているのだから

躊躇するわけにはいかない。

たとえどんな結果になろうと

行動してみないことには何も進まないではないか。

丁か半か…

私は博打打ちのような気持ちで心療内科の女医先生に電話をし

母が入院したがっていると伝えた。

 

「入院したいって言い出しましたか〜」

「先生のおっしゃる通りにすればよかったと言ってます」

「やっぱりしんどいんじゃね〜…

数値を見ても、しんどくないはずがないんよ〜。

でも寂しいとか、◯にたいとかの気持ちが先になって

本当は身体がしんどいことに、本人は気がついてないんだわ〜」

「え〜…」

「でも気がついて自覚が出たんだから、入院させましょう。

明日の午前中に連れて来てください。

とりあえず着替えとお薬手帳と保険証を持って来てもらうとして

とにかく先に入院させて、後のことはそれからにしましょう」

 

こうして6月25日、母は心療内科のある総合病院へ

入院することになった。

マーヤの出産以来、52年ぶりの入院に

母は何を期待しているのかウキウキしている。

病室に入れられた途端に絶望するんじゃないのか…

病院までの道すがら、私はそれを案じる一方

あれはどういう気持ちなのか、自分が一生懸命に世話をした

ペットか何かを手放すような、うすら寂しい気分になった。

 

病院に着いて血液検査、コロナとインフルエンザの検査

身長体重の測定などがあり、終わったら看護師が母を迎えに来て

荷物と一緒に病室へ連れ去られてしまった。

その後はロビーの一角にあるテーブルで

男性の看護師から入院までの経緯、本人の病歴や職歴

アレルギーと偏食の有無などの聞き取りがあった。

 

「入院にあたって、何かご心配なことがありますか?」

最後に看護師がたずねる。

「心配はしてないんですが、母はものすごくワガママなので

病院の皆様にご迷惑をかけることだけが心配です」

と言ったら、彼は笑って答えた。

「大丈夫ですよ。

いろんな患者さんがいらっしゃるので

慣れていますから安心してください」

 

それが終わると介護士の聞き取りだ。

介護士の聞き取りは、洗濯にクリーニング制度を使うか否かなど

入院生活の細々した内容をたくさんたずねられた。

 

それから、女医先生との面談。

「サチコさんには、ドクターストップをかけます。

だから今回は任意入院でなく

医療強制保護入院という形になりますからね。

患者さんの意志とは関係なく、医師が決める入院です」

にこやかに明るく、けっこうシビアなことをおっしゃる女医先生。

ドクターストップって、ボクシングの試合中

倒れた選手にかける、ちょっとカッコ良さげなものだと思っていたが

まさか、母がかけられるとはね。

 

「しばらくここへ入院してもらって

落ち着いたら精神病院を紹介しますから

そっちへ転院してもらうことになります」

という話なので、母は当分帰れないらしい。

 

女医先生と話していたら、先ほど聞き取りをした男性看護師が

母を車椅子に乗せ、目の前のエレベーターから出てきた。

「どうしても娘さんに会うとおっしゃって、病室で暴れられて…」

すごく困っている様子。

だから言ったろう…サチコを甘く見ちゃいかん。

 

「みりこん!わたしゃこんな所、嫌じゃ!連れて帰って!」

泣きじゃくる母。

「はいはい、その前にどんなお部屋か、見せてちょうだいな」

女医先生と別れ、看護師と母とでエレベーターに乗り込む。

「部屋に行ったって、変なお婆さんしかおらん!」

あんたもじゃ…と思いながら病室へ。

なるほど4人部屋には、寝たきりのお婆さんが3人。

どなたも目を閉じ、口を開け、起きているのか寝ているのか。

「ほれ!見て!変なのしかおらんじゃろ?!

こんなのに囲まれたら、私までおかしゅうなるわっ!」

もうおかしいわ…と思いながら、なだめる。

 

そこへ介護士が来て

「入院に足りない物があるので買って来てください」

とメモを渡した。

前日、必要であろう物を準備したつもりだが

飲み物用と洗面用に加え、入れ歯洗浄剤をすすぐために

コップが合計3個いるのは知らなかったし

入れ歯ケース、入れ歯洗浄剤なども忘れていた。

この病院には売店が無いので、必要な物は町へ出て買うのだ。

 

そのまま母を置いて買いに行き、病室に戻ると

放心状態でベッドに横たわっていた。

目は開いているが、私が来たことに気づかずボ〜ッとしている。

かたわらにはポータブルトイレ。

看護師の聞き取りの際

「部屋から出られない措置を取るので、ご了承ください」

と言われたけど、こういうことなのね。

この状況、母は最高に嫌がるはずだ。

嫌過ぎて、おかしくなったのかも。

 

声をかけて泣かれたら困るので、買った物を介護士に渡し

そのまま帰ったが、冷酷な私もあの姿はさすがに胸にこたえた。

誰よりも自由気ままに生きてきた母が、急に狭い4人部屋に入れられ

ポータブルトイレで用を足すことを強制される現実は

衝撃以外の何ものでもなかっただろう。

自分の親であれば、涙が出るかもしれないな…と思った。

《続く》

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始まりは4年前・17

2024年08月15日 14時56分28秒 | みりこん流

『入院の勧め』

順番が来たので、A先生の診察室に入った。

この日は点滴が無いので、いつものように問診。

毎日A内科医院に来て、一体何をしているかというと

週に一度弱のペースで点滴をする他は、A先生に会うだけだ。

 

もちろんA医院で処方されている血圧の薬や骨粗相症の予防薬

頚椎捻挫用の鎮痛剤や湿布薬、そして心療内科の薬…

それらの薬をもらうため、日替わりのように問診も行われる。

しかし主体になっているのは、寂しさを訴える母に

先生が優しい言葉をかけてくれること。

それで母は落ち着き、満足するのである。

 

が、この日はやはり、ちょっと違った。

いつにも増して機関銃のようにしゃべるそのテーマは

うちの義母ヨシコ。

「この子の姑さんは優しい息子としっかり者の嫁と

可愛い孫に囲まれて、その上、娘さんまで来るんです。

いつも家族と一緒で、何の心配も無い。

姑さんがうらやましい!」

この話、私にはよく言うが、A先生に話すのは初めてだ。

 

「人をうらやんでも仕方がないじゃん。

サチコさんはサチコさんの人生を生きにゃあ」

「いいえ先生!この子の姑さんはね、ホンマにいい人生なんですよ。

それに引き換え、私は一人ぼっち。

これほどみじめな人生が、どこにあります?」

「一人で頑張っとる人は、たくさんおってよ」

「もう嫌なんです、先生!

この子の姑さんの人生と、私の人生を取り替えて欲しい!」

ワッと泣き伏す悲劇のヒロイン。

 

しかしA先生、ちっともたじろがない。

こういう患者に慣れているのだろう。

「そうか、そうか…」

ニコニコしてうなづきながら、優しく母の手を握る。

こういうところ、彼のお父さんそっくりだ。

今は亡きお父さんはA内科医院の先代で

私の実母の胃癌を発見し

他界するまで小まめに往診を続けてくれた人である。

 

その後、幾分落ち着いた母を待合室に待たせ

A先生は私を呼んだ。

「次に心療内科へ行くのはいつ?」

「明後日です」

「先生に頼んで、入院させんさい」

A先生は真剣な表情だ。

 

「患者の方から入院を頼めるんですか?」

「頼めるよ。

明後日、言うてみんさい。

一人暮らしは限界じゃわ。

何かあったら危ないけん、一日でも早い方がええよ。

僕からも連絡しとく」

「わかりました…お願いしてみます。

すみません、いつも先生を頼ってご迷惑をかけてしまって…」

「全然。

町の人に頼ってもらうのが僕の仕事じゃけん」

「ありがとうございます」

「いいね?入院させるんよ」

別れ際、A先生は念を押すように再度言った。

 

施設か入院か…考えていた時期もあったけど

目の前の慌ただしさに、最近はかき消えていた。

それが急に、入院の方から近づいてきた感じ。

母の進路は突然、入院に決まったのかもしれない。

 

2日後、母を連れて心療内科へ行った。

A先生から連絡が行っているようで、女医先生は母に入院を勧めた。

「先週の血液検査で、腎臓が弱ってるみたいなので

ちょっと入院してみましょうか」

 

しかし母は頑なに拒否。

「入院?嫌です!

家がいい。

入院するんだったら、わたしゃ◯んだ方がマシ」

女医先生が何を言ってもダメなので、入院は決まらなかった。

「もし本人が入院したいと言い出したら

いつでもいいから電話してください。

すぐ対応します」

と言われ、その日は帰った。

 

帰りの道中、母はブツブツ言う。

「どうして入院させたいんかしらん。

何が腎臓よ、私は元気なのに」

「最近は三食きちんと食べられんけん、身体が弱っとるんじゃろ」

「どこも痛うも痒うもないんよ?!」

「血には現れるんじゃろ」

 

私から、入院した方がいいとは言わない。

入院を勧めるようなことを言ったら、後が大変だ。

「一人じゃないなら、施設でも病院でもどこでも行きたい!」

日頃はしょっちゅう言っているが

お産以外の入院を知らない母は

病気入院がどんなに楽しくないものかを知らない。

 

思っていたのと違っていたら最後

「継子に騙された!」と騒ぎ出すのは間違い無しだ。

騒ぐだけならいいが、恨み言を言うために

電話をかけまくるのはお決まりのコース。

そうなった時に

「自分が入院するって言ったんじゃん」

そう言い返せる球が必要だ。

球が無ければ応戦できないので、私からは入院を勧めない。

 

母は自分で決めたことでも、思い通りでなかった場合

全てを人のせいにして暴言を吐き続ける。

しかし、こちらに返す球さえあれば

聞くに耐えぬ罵詈雑言を何十秒かはストップできるし

別の話にすり替えるきっかけにも使える。

私が多少なりとも切り返しの口を持っているとしたら

それは母で鍛錬したものである。

 

入院するしないを争点に、長い戦いが始まると思っていたが

2日後、母は意外にも自ら

「入院してみようかしらん」

と言い出した。

「このまま一人でおるのもしんどいし

元気になるんだったら入院したいわ。

一昨日、先生の言うことを聞いて入院しときゃあよかった」

何度もそう言って悔やむ母。

 

「本気で言ようる?」

「本気」

「ただの憧れじゃったら、やめといた方がええよ。

そんなに楽しい所じゃないよ。

一旦入院したら、やっぱり帰りますとは言われんけんね」

「わかっとる」

「私は入院しろとは言うてないけんね?

後から、あんたのせいじゃ言わんといてよ?」

「言わん」

決心は固い様子だった。

《続く》

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始まりは4年前・16

2024年08月14日 15時35分07秒 | みりこん流

『鬱病』

毎朝、実家へ行くようになって半月が経った。

暖房ガンガンの蒸し風呂の中で、母の回復を待つのが嫌になった私は

その間に洗濯その他を済ませ、やがて起きられるようになった母を連れて

A内科医院とカフェのハシゴという日課だ。

 

日課とはいえ、A医院にもカフェにもそれぞれ定休日がある。

その時は、布団から出て動けるようになると

車で少し遠出をして買い物と外食をご所望。

ドライブ、買い物、外食の三大好物に、母はご機嫌だ。

 

ある日、いつものように母を連れてA内科医院に行くと

待合室に同級生のヤスヒロがいた。

認知症のお母さんを連れて来たのだ。

「ヤッちゃん!」

話しかけると、彼はキョトンとして言う。

「…どなた?」

「やぁね、みりこんじゃん」

「…嘘…」

「嘘じゃないわ」

「どしたんね…あんまり痩せとるけん、わからんかったわ。

どっか悪いんか?それで来たんか?」

「母親を連れて来たんよ」

「あんたも苦労するのぅ…ワシもよ」

そう言って、お母さんを見るのだった。

 

ヤスヒロの話によると、彼のお母さんは最近

要介護1から2に進んだ。

要介護2になって、週1回のデイサービスが

2回になると喜んでいたら、逆だったそうだ。

介護保険で借りる手押し車などの補助や税金の面では

わずかに手厚くなったものの、なぜかデイサービスが隔週になり

困っているとボヤいていた。

 

要介護度が上がったのにデイサービスの回数が減る…

この残念な措置は多分、お母さんとヤスヒロが

一緒に住んでいるからかも。

要介護の人に同居する親族がいる場合

条件が厳しくなるのは聞いたことがある。

ヤスヒロはお母さんの施設入りを切に願っているけど

道のりは遠そうだ。

 

 

さて、6月も下旬にさしかかった頃…

母とA内科医院に行ったら、A先生が言う。

「もう一回、心療内科へ行ってみようや。

薬を変えた方がいいと思う」

 

月に一回の心療内科通いは、ひとまず4月で終了していた。

最初に弱い薬で様子を見て

2ヶ月後に中くらいの強さの物に変え

さらに1ヶ月後、調子が良いのでA内科医院に返されたため

不安神経症の薬はA内科医院から処方されていた。

 

この時、A先生は、母のいない所へ私を呼んで言った。

「鬱病だと思う」

「えっ?朝が調子悪いだけで、午後は普通に元気なんですよ?

昨日だって夕方、私が帰った後で美容院に行ってて

びっくりしたんです」

そうなのだ。

母の具合が悪いのは、とにかく朝。

昼が近づくにつれて元気を取り戻し、午後は元気な頃と変わらない。

 

「それが鬱病なんよ。

朝はドヨ〜ンとして動けんけど、昼頃、だんだん元気になって

午後から夕方はすごく元気。

で、夜になるとまた落ち込んできて、朝起きたら最悪。

典型的な鬱病の症状よ」

「知らんかったです…

寂しいから呼ばれてると思ってました。

私が行ったら元気が出るんじゃなくて

昼が近付くから元気になるということですか?」

「そうなんよ。

調子の悪い時間と、調子のいい時間がはっきりしとるじゃろ。

専門の先生に診断してもらって、治療させんさい」

「わかりました」

母は性格の悪い寂しがり屋ではなく、れっきとした鬱病らしい。

ああ、びっくり。

 

数日後、A先生の紹介状を持ち、母を連れて再び心療内科へ行った。

A先生が言った通り、診断は鬱病。

薬は今まで飲んでいた不安神経症の薬と同じ種類だが

成分が1.5倍程度、強めの物に変わった。

薬が合っているかどうかを見るため

次は1週間後に行くことになった。

 

しかし、この薬はあんまり効かなかった。

母は不安を感じたら飲むことになっている精神安定剤に

依存するようになり、以前は夜間を中心に飲んでいたのが

朝や日中もたびたび飲むようになった。

 

その精神安定剤を飲むと、不安な心はひとまず落ち着くが

副作用として足のフラつきが出たり

ボンヤリするようになると、薬局で聞いた。

だから飲んだ時は、階段の上り下りをしないように

一人で外出しないようにと言われていた。

 

だが、一人暮らしの身でそれを守るのは難しい。

もっと長く一緒に居る必要があるのだろうか…

とも思ったが、今以上の世話をする自信など私には無く

また、今以上の世話をするつもりも無かった。

階段を踏み外しても、外で事故に遭っても、それは運命…

本人も90年は長いと言ってるんだから、年に不足は無かろうよ…

そう思うことにした。

 

心療内科へ行って数日後…

いつものように呼ばれて行ってみると

珍しいことに母は自力で洋服に着替え

鏡台の前で化粧をしているではないか。

「どしたん?今日は気分がええんじゃね」

「ええこともないんじゃけど、これからA先生の所へ行こう思うて。

もう電話してあるけん、連れて行って」

シャキッとした話し方といい、テキパキした動作といい

昨日までの彼女とはとても思えない。

鬱病と聞いてなかったら、昔の母に戻ったと錯覚していただろう。

 

A内科医院へ行くと、受付の周辺にいる数人の女性たちの態度が

何となくいつもと違っていた。

言葉は変わりなく優しいが、ほんのわずかによそよそしく

母と目を合わさないようにしている感じ。

 

医療従事者は絶対に言わないだろうけど

母が「これから行く」と電話をかけた時に、何かあったと思われる。

鬱病だか認知症だかで身内と他人の区別がつかなくなり

私や家族に対するのと同じく、地獄の底から聞こえるような声で

人を人とも思わない命令的でぞんざいな口をきいた可能性大。

他人には高く明るい声で歌うように話す母を

優しい常識人だと思ってきた人は、驚いて怖がると思う。

世話になった人に恩を仇で返すのも、病んだ老人の特徴である。

《続く》

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始まりは4年前・15

2024年08月13日 10時05分05秒 | みりこん流

『猛獣使い』

今年の6月4日に転倒し、首を捻挫してから3日目。

午前10時に、暗〜い声で母から電話がかかった。

「起きられんのよ…」

人に電話をかける時、いきなりこんな声でこんなことを言っても

感じが悪いとは思わない、それが母である。

 

「起きられんとは?布団から起き上がれんの?

どこか、痛いん?」

昨日は元気だったのが、一夜明けたらこれなので

信じられない思いだ。

「首や足が痛うて、起き上がれんのよ…」

「無理に起きんでも、寝ときゃあええじゃん」

「……」

私の発言が不本意らしい。

 

「全然、起き上がれんの?」

「どうしても立たれんのよ…」

「トイレは行った?」

「行った…」

「じゃあ起き上がれるんじゃん」

「……」

また不本意らしい。

 

「病院、行く?」

「ほうじゃねぇ…A先生の所へ行こうか…」

要するに、来いということだ。

ただでさえ忙しい朝

こちらが行くと言うまで引っ張られたら何もできない。

行くと言ってさっさと電話を切り、当面の用事を済ませた方が得策である。

 

実家へ行くと、玄関は閉まっていた。

チャイムを押してしばらく待ったものの、いっこうに出て来る気配は無い。

裏の勝手口へ回ってみたが、ここも開いてない。

仮病かと思ったけど

2階の寝室から降りて来られないのは確実らしい。

 

勝手口には頑丈な折りたたみ式の網戸があり、内側からロックしてある。

母の枕元にあるはずの携帯に電話しても、出ない。

網戸を開けたら、勝手口のドアとの間に鍵がぶら下がっているので

それを使ってドアを開け、家に入れる仕組み。

よってまず、網戸を開ける必要がある。

 

簡単だ、網を破った。

網を挟んで閉じてあるゴムの所へ指を差し込み

強く引っ張ったら、網はゴムから離れる。

家の網戸を修理した時に知った。

そして破った箇所から手を入れて、網戸のロックを外した。

先で何回も、こんなことがあるかもしれない。

だったら先に破って準備をするまでだ。

後で何か言われたって、知ら〜ん。

 

こうして2階の寝室に行ってみると

母は夜中に私を呼び出していた去年と同じく

暗い部屋で暖房をガンガンにかけ、布団をかぶっていた。

「暑いが!」

だって6月だ。

さっき泥棒の真似事をした私は汗をかいていた。

 

「へでも寒いんよ…」

「起きるん?寝とくん?」

「もうちょっとしたら、起きてA先生の所へ行く…」

カーテンを開けようとしたら、ひどく嫌がるので

牛乳とお茶を飲ませ、暗い灼熱の部屋で起き上がるまで待つ。

 

ポツリポツリと1時間ほど会話をしていたら

起き上がれるようになったので服を着替えさせる。

A先生に会うから化粧をすると言うので眉を描いてやったら

曲がっていると気に入らなかった。

ここら辺になると、いつもの母だ。

 

「どうしたん?昨日は元気そうじゃったのに

今日はしんどそうなね」

A先生に言ってもらい、ご満悦の母。

点滴の間、待合室で待ったが

昼前に点滴を終えて出て来た母は、人が変わったように晴れやか。

朝とは別人だ。

 

起きてから何も食べてないので、町内のカフェで昼ごはんを食べた。

母の食欲は相変わらず旺盛だ。

カフェのオーナーは私のママ友、物の分かったソツの無い子なので

チヤホヤしてもらってご機嫌の母は、珍しく奢ってくれた。

 

翌日から毎日、このプログラムが始まる。

朝は「起きられん」、「立てられん」と言って奴隷を呼びつけ

おしゃべりの相手をさせて着替えを手伝わせ

A先生とカフェのハシゴだ。

 

朝になると呼ばれ、暖房ガンガンの暗い寝室で母が起きるのを待ち

昼が近づいたら着替えをさせてA先生、それが済んだらカフェ

それから家に帰って午後3時ぐらいまで、母が一方的に話すのを拝聴。

新たに始まった、この日課に味をしめたのか

それとも本当に朝は具合が悪いのか、私にはわからないまま

5日、1週間と日は経っていった。

 

この日々が始まるまでは、たいてい午後から実家へ行っていたので

時間的には余裕が残っていた。

しかし午前中から呼び出され

午後遅くまで拘束されるようになると負担は倍増した。

 

なぜなら我が家は、昼休憩に男3人が帰って来る。

私がいなければ、時に気を利かせて外食する者もいるが

帰って来る者もいるので、昼食の支度をして出るのは決定事項。

義母ヨシコは自分一人で男どもの世話をしているつもりになり

気だけソワソワして機嫌が悪い。

「今まで何十年、そこにおるかとも言わんかったのに

身体が弱ったら急にあんたを娘扱いして。

それほど世話になったわけじゃないんだし、ほどほどにしたら?」

彼女にしては珍しく、ごもっともな意見を頻繁におっしゃる。

 

ほどほどに…人は簡単に言うけど

いざ自分が火の中へ飛び込んでごらん。

ほどほどに逃げるとか、ほどほどに焼かれるとか、無理だから。

しかしこんな日常が、いつまでも続かないのはわかっていた。

末期が来ていることは、感じていたからだ。

 

人の首っ玉に食らいついたら、相手が◯ぬまで離さない

母の性格はよく知っている。

◯んで役に立たなくなったら、しれっと他の犠牲者を探して

同じことをするのも知っている。

母が特別なのではなく、手がかかるようになった老人は皆そうなる。

母の場合、昔からそうだったというだけだ。

 

この状況をできるだけ先延ばしにするため

私は長年に渡って彼女をコントロールしてきた。

老人でなく自分が生き残るためには、そうするしかない。

その上で訪れた、末期なのである。

 

何でもハイハイと言いなりになるそぶりはしても

お楽しみや接待などのエサは満腹になる量を与えないことや

何かきついことを言われても、黙ったり凹んだりして弱みを見せず

テンポよくポンポン言い返すことや

何を考えているかわからないという最後の砦を残すために

心の距離を安易に縮めないなど

彼女と接するには数々の技術が必要になる。

みんな逃げたし、戦う技術を持つのは私しかいない。

私はこの死闘に勝つつもりである。

《続く》

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始まりは4年前・14

2024年08月12日 11時17分49秒 | みりこん流

『第三の転倒』

父の実家を見に行ってから数日後の6月4日。

午後3時半に地獄の底から聞こえてくるような暗い声で

母から電話があった。

「こけたんよ…」

 

頻繁に電話をしてくるようになった近年

ありふれた挨拶や「今話しても大丈夫?」などの助走を省き

「しんどいんよ」、「寂しいんよ」、「ゴミが溜まっとるんよ」

と、いきなり本題を口にする。

こっちは母の電話を受けるために生きているわけではないので

急に言われても話題に付いて行けないこともあるが

これはすぐにわかった。

 

「こけたんよ…」

母は繰り返す。

「わかった、すぐ行く」

会話はこれで終了し、実家に向かう。

 

二度目の「こけたんよ」には

「すぐ来て医者へ連れて行け」の言葉が含まれている。

電話ができるのと、自分のミスに腹を立てて機嫌が悪いことから

命に別条が無いのはわかっているが

今忙しいからもう少し待てだの明日行くだのと

こちらが言う権利は無い。

行くまで電話がかかってくるのは決定事項なので

さっさと行くしか道は無いのだ。

 

夕食はすでに作り終えていたので、その点は気楽。

実家へ行く日はもちろん

急にかかって1時間は続く電話に対処するため

家事は努めて早めに行う。

昼食は朝食の前や後、夕食は昼食の後に前倒しで作り

いつ空襲が来てもいいよう備える習慣になっていた。

 

母は時間と自由だけはたっぷりある一人暮らしだが

こっちは働く男3人と、何もしない姑を抱えて平常運転。

本来なら、母の面倒まで見る余裕は無い。

しかし「今忙しいから後で」が通用しない、それが母である。

 

実家に行くと、母は苦虫を噛み潰したような顔で待っていた。

どこもかしこも締め切った暗い部屋で見たら、マジで怖い。

それにしても、転倒はこれで三回目だ。

初回はアゴを打って黒くなり、次はメガネでマブタを切った。

今回は、右の額の生え際が少し赤くなっている。

前回、前々回と同じく手やヒザが無傷のところをみると

また顔から転んだようだ。

やっぱり脳の衰えか…。

 

どこの病院へ連れて行こうかと考えるまでもなく

母はいつものA内科医院へ行く気でいる。

内科だと、結局は外科のある病院に回されて

二度手間になると思ったが、本人が行くと言うのだから仕方がない。

転んで心が折れたこんな時、大好きなA先生を求める母であった。

 

A内科医院へ行く時、裏の勝手口から出て

母が転んだ現場を見た。

隣との境界線にあり、土に少し傾斜があるものの

なんてことない場所。

「何で転んだか、わからんのよ。

何かのバチが当たったんかね。

私が何をした、いうんかしらん」

忌々しげに言う母。

 

そりゃ当たるだろう、と言いたいが、言わない。

多くの人を振り回し、鋭い言葉で傷つけ

言いたい放題やりたい放題で90まで来たのだ。

本当のバチなら転んだぐらいじゃ済まんぞ、あんた…

とも言いたいが、言わない。

 

お目当ての医院は、家から歩いて3分の近距離。

もちろん、いつものように車でお連れしたが

時間帯の関係なのか、A先生はおらず

最近、彼の後継ぎとして戻ってきた30代の息子先生が診てくれた。

 

母は、この子がお好みでない。

優しい笑顔と温かい言葉で機嫌を取ってくれるパパ先生と違い

若いので年寄りに冷たいと言い

「あ〜あ、来て損した」

とまでほざく。

そんなに元気なのに、来て損したのは私である。

 

「安静にしていれば心配ないと思いますが

念のためMRIを撮っておきましょう」

A医院は内科なので、MRIは無い。

痛み止めの薬をもらい、紹介状を書いてもらって

翌朝、別の病院へ行くことになった。

夜中に母を救急病院へ連れて行くことになった時

最初に電話をして断られた、うちの近くの病院だ。

 

その病院で出た診断は、軽い頚椎捻挫。

俗に言う、ムチウチ症である。

今朝起きてから、首が痛いような気がすると本人が言うので

そう診断された。

痛み止めはA内科医院から出ているので

交通事故に遭った人が首に巻く、硬い首輪みたいなのをもらったが

他にこれといった治療法は無い。

 

町の医院から紹介されて総合病院に来た人は

当面の診断や治療が終わったら元の医院へ返すという

医師会の決まりがある。

母もMRI写真と共に、再びA内科医院へ返されたので

さらに翌日、MRIの写真を持って行くことになった。

 

「昼から行ったら息子が診るかもしれんけん、朝行く」

当然のようにのたまう母。

願わくば…あぁ願わくば…

前日もMRIを撮りに行って、朝から午後まで家を空けたので

何時に行ってもいいのなら、せめて今日は

昼からにしていただければありがたいんでごぜぇますが…

しかし、奴隷のささやかな願いに耳を貸す女ではない。

 

A医院へ午前中に行く意義を長々と唱え

反論する私を長々となじり

そんなけしからん私と血の繋がっている亡き家族への恨みを

長々と述べる…長々ルーティンが待っているだけだ。

何を言われても平気だが

彼女が意思を曲げることは無いので時間の無駄。

こっちの都合など気にも止めない、それが母である。

 

A内科医院へ行ったら母の睨んだ通り

息子先生でなくA先生が診てくれた。

彼の話では、日にちが薬だそうで

薬がある間は通院の必要も無いという話。

治療しようにも年寄り過ぎるので

痛くなったら弱めの鎮痛剤カロナールを飲むしか無い…

ということである。

 

朝ならA先生がいるという読みが当たり、母は大満足。

A医院から帰って外食に連れて行ったが

食欲はいつものように旺盛、ご機嫌の方も著しく良好だったので

私は3時頃帰った。

 

しかし、翌朝から大きな変化が訪れる。

その日以来、母も変わったが、私の生活も変わった。

老人がコトの大小に関わらず、何かのきっかけで

坂道を転げ落ちるように衰えていくというのは

周りの例を見て知っているつもりだった。

だから一応は警戒していたものの、こうも急激だとは思わなかった。

《続く》

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始まりは4年前・13

2024年08月11日 21時35分07秒 | みりこん流

マーヤが帰省した時の記憶が薄れて来たからか

私の差し入れがあるので料理を作らなくなって楽になったのか

2月に入ると、母はだんだん元気を取り戻していった。

元気になったら、うごめき始めるのはコーラスの虫。

性懲りもなく、また再開しおった。

 

しかし今度は発表会やコンサートに出ず、練習だけの参加だそう。

舞台に立つと、緊張で胸が苦しくなるという理由からだ。

先生にも病名は伝えてあるため、特例を認めてくれた。

 

けれども母の本意は別のところにある。

舞台でライトを浴びると

その高揚感を生涯忘れられない人がよくいるけど、彼女もそのクチ。

舞台への思いを捨て切れなくて

実はやる気になった時だけ、舞台に出たいのだ。

 

母は老人性の体温低下で、この数年はひどく寒がりになった。

肌を出したドレスが苦になってきたので、寒い時期は避けたい。

けれども初夏以降のコンサートには、出る気満々。

そこで冬の間は病気を理由に練習だけ顔を出し

暖かくなるのを待つ…それが母の密かな予定である。

 

そのことでまたゴタゴタするかもしれないが

もはやどうでもいい。

母はもう、舞台には立てないと思う。

病気でなく、もっと現実的な問題。

身長がますます縮んだので

ドレスのスソはどれも長くなってしまい、床を引きずるはずだ。

銀のハイヒールも足が弱ったので、もう履いて歩けはしない。

 

とはいえこのハイヒールには、秘密がある。

母は数年前、急に「カカトが高い」と言い出し

新しいのを買えばいいのに、なぜか靴の修理屋へ持ち込んで

カカトを切ってもらった。

その時、修理屋さんは止めたそうだ。

「カカトを切ると、バランスが取れなくなってグラグラするから

やめた方がいいですよ」

しかし母は耳を貸さず、どうしても切ってと言い張ったら

シブシブ切ってくれたそうだ。

 

母からそれを聞いた当時、私は隣のおじさんを思い出したものだ。

彼は急に「ベッドが長過ぎるから切れ」と言い出し

おばさんが困って、うちへ来たことがある。

おじさんはやがて認知症とわかったが

最後には包丁を振り回して警察沙汰になり、精神病院へ入院した。

この包丁事件は、記事にした覚えがある。

 

認知症になると、何かとんでもない物を切りたくなるのか。

それとも既存の品物の形を変えたくなるのか。

隣のおじさんと同じ雰囲気を感じた私だったが

本当はあの頃から、おかしかったのかもしれないのはさておき

「舞台に立つと足がグラグラして、立っているのがやっとなんよ」

母はコンサートのたびに言うようになった。

 

だけど本人、カカトを切ったのは忘却の彼方。

グラグラを身体の衰えだと思い込み、徐々に自信を無くしていったが

本当はハイヒールのカカトを切ったからだと思う。

しかし、それを母に言ったところで手遅れだから、言わない。

ともあれ、しばらくは練習のある毎週月曜日の午後は電話がかからないし

呼ばれることも無いのが保証されたのだから、それを喜ぼうではないか。

 

母は小康状態を保ったまま、5月いっぱいまでを過ごした。

毎日の電話と、差し入れ付きの訪問は依然として変わらず。

しかし我々夫婦と行く買い物ツアーの回数は

ジワジワと増加しつつあった。

買い物ツアーとは、午前中から市外に出て

ホームセンターやスーパーをハシゴし

合間で外食をする、なかなかの強行軍である。

 

気がつけば母からの電話は、不安の訴えが目的ではなくなっていた。

人混みと買い物と外食の好きな彼女は、毎日でも出かけたい。

先週や数日前に行ったことなど忘れているのか

忘れたフリなのかは知らないが

こちらが「行く」と言うまで電話をかけて、お出かけをねだる。

母は楽しいかも知れないが、我々は運転と介護で

ちっとも楽しくないのが実情。

自分主導でやって行こうと決めたはずなのに

いつの間にか、また母の主導に変わっていた。

 

一つ許したら最後、当然のように二つも三つも要求し

叶うまで電話をかけてくる彼女の性質は熟知しているので

いずれそうなるとは思っていた。

一人暮らしが嫌になり、人を求める気持ちが強まればなおさらだ。

 

そうなったらもう、我々に休日は無くなる。

母にかまけることが多くなり、同居する義母ヨシコも機嫌が悪い。

そのため、この状況になる時期をできるだけ引き伸ばしたつもりだが

それも限界に来たようだ。

 

そんな5月の末、例のごとく買い物に行った。

先週も行ったばかりだし、運転させる夫に申し訳ないので

「一人で大丈夫」と言ったが、やはり夫は一緒に来る。

家に残っても年寄りに振り回されるので

同じ地獄なら外に出た方がマシという、いつもの夫の弁である。

 

その日の買い物ツアーは、ハシゴする店を一軒飛ばしたため

いつもより早い午後1時半に終了。

早く終わって良かった、と思う我ら夫婦。

しかし母は、「まだ帰るには早いね」と言い出した。

 

ドキッ!

母はひとたび出かけたら、時間いっぱい人を使い倒すので

いつもは帰る時間を早からず遅からずに調節している。

しかし、この日は私に油断があった。

深く反省。

 

「お父さんの実家へ行ってみようか」

それは運転する人間が言うセリフと思うが、それが母である。

夫は変わらず無表情、しかしいつも以上の強引に

かなり驚いているのがわかった。

 

父の実家は、県内の山間部にある。

現在地から、1時間弱というところか。

日頃は人が住んでいないので、ただ見に行くだけだ。

子供の頃は毎年、夏休みや秋祭りに泊まらせてもらったが

1年で一番楽しい時間だった。

優しい伯父一家、広がる田畑、輝く稲穂、吹き渡る風…

私の原点とも言える。

母もまた、父や娘と泊まりに行っていた頃が

良い思い出として残っているようで、道中はツラツラとその話をしていた。

 

やがて目的地に到着。

やっぱりいつ来ても美しく気持ちのいい場所だ。

「ここに来るのも、これが最後になるわね」

母は家の前に立ち、映画のヒロインのように言う。

そのセリフが現実になるとは、その時は思わなかった私である。

《続く》

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始まりは4年前・12

2024年08月10日 09時47分47秒 | みりこん流

『変化』

正月が来て、今年になった。

マーヤが帰ったと同時に電話が。

「置き去りにされた」、「見捨てられた」

嘆きの女王は今年も健在、一心に嘆くのだった。

 

去年まではマーヤたちが帰った後、少なくとも1日か2日は

静かになった家で疲れを癒す余裕があったが

今年は呼び出しが早かった。

寂しさがつのって心を病んだ末に、やっと会えた最愛の娘だ。

例年よりも別れの辛さがこたえるのだろう。

 

以後は再び、毎日の電話と1日か2日おきの訪問が再開されたが

マーヤが帰省した後の母は、マーヤ前のそれと違うように感じた。

待ち人来たりて、精神的な刺激が強過ぎたため

故障がひどくなったのかもしれない。

ボ〜ッとすることが多くなり、物忘れもひどくなった。

かと思えば愚痴や悪口はますます研ぎ澄まされ

的確な描写が冴え渡っていて、時に私は腹を抱えて笑う。

言うなれば、落差が大きくなったのだ。

 

妹のマーヤと連絡をとり始めたのは、この頃である。

何かあっても早めに対応できるよう、備える必要を感じた。

彼女が関西へ帰った直後から始まった、母の口癖も気になっている。

「マーヤの所へ行きたいのに、引き取るとは言うてくれん」

嘆きの女王のセリフが、変わってきたのだ。

 

以前はしきりに「娘に迷惑は絶対にかけられん」と言っていた。

私には迷惑をかけていいらしいのはさておき

それが今度は「行きたい」になった。

行きたいと言って嘆き、それから怒り出し、やがて泣く…

この繰り返しなので、引き取るつもりがあるのかどうか

はっきり確認したいのもあった。

 

答えはわかっている。

無理だ。

教師のマーヤは中学3年の担任である。

加えて働き盛りの夫に、思春期の子供3人。

ここにあの母を投入して、家庭崩壊しないわけがない。

私が確認しておきたいのは、母を任せてくれるかどうかだ。

 

引き取る意思があるのなら、私はそれまでの気楽な繋ぎでいい。

しかし無いのであれば、全てを私に任せるという

実子の承諾を得ておきたい。

それは、親切や信頼といったボヤけた世界の話ではない。

入所や入院に向けた手続きや支払いの現実に

他人の私は踏み込めないからだ。

 

しかし、マーヤの返事は想像の上を行っていた。

年末年始の滞在中は毎晩、「苦しい、死にそうな」

と言って起こされ、大変だったらしい。

仕事でパニック障害の生徒を何例か見ているマーヤには

その様子が芝居がかって見えたそうだ。  

 

年が明け、マーヤたちは実家を後にしたが

隣の市内まで走ったら、母から

「苦しい、死にそうな、戻って来て」と電話があった。

急いで実家に引き返すと、母は平然とテレビを見ていて

机の上には“御供”と書かれた熨斗袋(のしぶくろ)。

正月明けに法事をする予定の母の親戚に、これを持って行けと言う。

マーヤは持って行き、改めて関西へ帰った。

 

「子供たちが怖がってしまって…」

そりゃ怖がるわ。

マーヤは、できることなら私に任せたいと言い

私は本気で母に対峙する決意を新たにした。

 

ともあれその話を聞いて、母の真意がわかった。

母はマーヤの帰省が近づいた12月後半から

一緒に暮らしたい気持ちが強くなったらしい。

以前はマーヤを地元に帰らせることばかり考えていたが

現実的にそれは不可能であり、いつまで待っても叶いそうにない。

そこで自分が行こうと思うようになったのだ。

 

だから大晦日、マーヤたちと一緒にうちへ来るという

大異例を決行した。

私に会わせて礼を言わせ、マーヤに

「自分は何もしてない」という自覚を持たせようとしたらしい。

そこから正月中、引き取って欲しい願望を遠回しにたたみかける。

けれども娘に嫌われたくないので遠慮があり

遠回しになり過ぎて不発に終わった。

 

マーヤが関西に帰ってしまうと、次のチャンスはお盆。

それではあまりにも遠過ぎるので、再チャレンジだ。

仮病の電話だけでは弱いので、熨斗袋もプラス。

いかにも母が練りそうな作戦じゃんか。

 

が、そこは認知症一歩手前。

記憶力に問題がある分、昔より精度は落ちている。

マーヤが再び戻ってくれたことに満足し

熨斗袋を持って行かせた間に、肝心な話をを忘れてしまったのだ。

私に少しは洞察力があるとしたら、それは母の屈折した作戦に

さんざん引っかかってきた成果である。

 

じきに2回目の心療内科へ行く日がやって来た。

薬の方は、調子が良いようなので

今飲んでいる弱目の薬をもう1ヶ月、続けることになった。

 

この時、12月の初診で行った血液検査の結果が出ていて

女医先生が言うには栄養失調の状態だそう。

「食事はちゃんと摂れてますか?

特にタンパク質が足りてない数値が出てるんですけど」

とたずねられた。

 

「この人、毎朝、焼肉食べてるんですよ」

と言ったら

「えっ!朝から焼肉?」

と驚かれた。

「じゃあ、年相応に栄養の摂取がしにくくなってるんですね〜」

だそう。

 

そうなのだ…母は食欲だけはある。

何年か前にテレビで見たらしく

朝食で肉を食べたら身体にいいと信じて、ずっと朝焼肉を続けている。

昼はコンビニのサンドイッチとコーヒー、夜は野菜と魚…

こだわりの強い母は、この方針を崩さない。

 

それでも栄養失調と言われたのだ。

認知症の進行には、栄養状態も深い関わりがあると聞く。

精神の方はもう仕方がないけど

認知症まで進んだら本人も周りも大変になるではないか。

 

帰省して以降、マーヤの家と携帯には

良く言えば恨み言、悪く言えば暴言の電話が続いるそうで

家族も怯えているという。

自分の願いを聞き届けてくれなかった者への報復である。

これを実子にまで執行するようになったとはな。

老化とは、そして病気とは、すごいものだ。

シロウトに、あの電話はきついぞ。

ヅカヅカ踏み込んでアハハと笑える私のメンタルでないと

毒にやられてしまう。

 

そういうわけで、食事を作るのが億劫になってきた母に

もっと頻繁に差し入れを持って行くことにした。

焼け石に水とわかっているけど、私にできるのは料理しかない。

女は食べ物が届くと、一瞬でも頬がゆるむものよ。

少しでも目先の転換になれば、という思いである。

《続く》

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始まりは4年前・11

2024年08月09日 10時23分40秒 | みりこん流

昨日は宮崎県を中心に、大きな地震がありましたね。

元旦に起きた能登半島の地震を彷彿とさせましたが

皆様がお住まいの地域は大丈夫だったでしょうか?

被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

さて、この老人シリーズも11話目。

怠け者で筆の遅い私だが、オリンピックに負けじとばかり

連日アップにチャレンジしている気分になっている。

陰気なテーマだけに、興味の無い方にとっては食傷気味かもしれない。

しかし一旦取り組んだら急いで記録しておかなければ

年齢的に忘れてしまいそうなので、まだまだ続けるつもり。

ご自身やご家族にとって、明日は我が身の方には

ジワジワと迫り来る老いの恐怖を実感していただきたいと思う。

 

 

さて、薬を服用し始めた母は、劇的に落ち着いた。

最初なので、かなり弱い薬で様子を見ると聞いていたが

弱い薬で十分という感じ。

今後は月に一度のペースで受診し

薬が合っているかどうかを見るそうである。

心療内科を紹介してくれたA先生は

「心療内科の薬は患者さんの症状に合わせるのが難しくて

一回でピッタリ合って症状が改善するのは珍しいんよ。

良かった良かった」

と言った。

 

落ち着いたとはいえ、夜中の呼び出しが無くなっただけで

薬を飲んだからといっても性格まで良くなったわけではない。

昼間は今までと同じ嘆きの女王であり

私をアゴで使い倒すブラック会社の社長である。

 

それにしても精神安定剤…つまりよく眠れる薬の服用により

一発で改善された症状を考えると

母は老人性の睡眠障害に陥っていたのだと思う。

睡眠障害は、鬱病の前段階で発生することが多いからだ。

 

彼女は若い頃から、夜の10時に布団に入ると即、寝落ちして

朝の6時まで一回も目が覚めないタチ。

夜中にトイレに起きるなんてことは、別世界の話として生きてきた。

それが近年、夜中に目が覚めるようになった。

夜中に目なんか覚めたことがないんだから、そりゃびっくりする。

びっくりして、色々と考えてしまう。

夜中に布団の中で考えることは、ろくでもないことに決まっている。

あれこれ考えているうちに不安になり、それが癖になったと思われる。

 

母のように、あんまり元気過ぎるまま年を取るのは

自分を追い詰める一因になるのかもしれない。

ともあれ夜中に起こされなくなったので、私に文句は無い。

当面、施設も病院も遠ざかったように思えた。

 

そうこうしているうちに、去年の年の瀬だ。

年末には、母の実子マーヤが帰省する。

毎年のお盆と年末年始、マーヤは一家で実家を訪れ

数日間を過ごすのが恒例である。

 

その間は静かで実家には呼ばれないし、電話もかからないと断言できる。

なぜならマーヤの滞在中、母は我々継子を寄せ付けない。

継子と実子の間に一線を引きたい母の主義と

母娘の蜜月を誰にも邪魔されたくないからだ。

 

この10年ほど、母は年末になると

正月の支度や買い物のために私を呼ぶ。

けれどもその作業は、マーヤの一行が車で到着する前日

または当日の数時間前までと厳密に決まっている。

母は周到に逆算し、私の出入りとマーヤの帰省が被らないよう

ちゃんと調整していた。

 

マーヤの帰省が近づくと

楽しみ半分しんどさ半分で感情が乱高下するが

それをやり過ごせば、数日間は解放されるのだ。

ブラボー!

 

が、その年は例年と少し違った。

マーヤが帰って来るのに、掃除機がどうしてもかけられないと言う。

母は人一倍几帳面なので、台所や部屋を散らかすことは無い。

断捨離もとうの昔に済ませ、家はいつも綺麗に整っている。

ただ、掃除機が無理だと言うのだ。

 

精神が弱ると掃除が苦手になると聞くけど

なるほど、よく見ると隅々にホコリが溜まっている。

そのホコリが見えないのは、白内障の手術も虚しく

とみに衰えてきた視力のせいもあるけど

近年、カーテンを全く開けなくなり

暗闇を好んで生活するようになったのもある。

やっぱり症状は色々な所に現れるんだな〜と思った。

 

例年との違いは掃除機もだけど、そもそも私が掃除機をかけるために

実家の全室に出入りしたこと自体が異例。

長年、実家への出入りは玄関と、勝手口のある台所

それからお坊さんが来た時の仏間しか許されておらず

夜中に呼ばれるようになってから、母の寝室へ入るようになった。

自分の実家ではあるものの、すでに母が相続した他人の家なので

入りたいとも懐かしいとも思わないが

母が私に全室への侵入を許すからには、よっぽどしんどいのだろうと感じた。

 

いよいよマーヤが帰ってからも、異例はあった。

大晦日の午後、母とマーヤ一家が突然うちへ来たのだ。

これにはぶったまげた。

 

マーヤと会うのは父の葬式以来、20年ぶりだ。

彼女の夫と3人の子供たちとも、それ以来…

いや、末っ子の女の子は父の死後に生まれたので

よく考えたら初対面である。

が、マーヤは毎年の年賀状に家族写真をプリントしてくれるので

成長の過程は把握していた。

 

マーヤが小声で言うには

「姉ちゃんに会って礼を言え」

母が言い出したので、みんなで来たのだそう。

腹違いの姉妹が顔を合わせるのを激しく嫌ってきた母が

自ら会わせるのは異例中の異例である。

 

玄関が賑やかなので義母ヨシコも出て来て

母と親しく言葉を交わしていた。

この二人が会うのは、義父アツシの葬式以来9年ぶりだ。

 

が、ヨシコ、それが母だとは気づかないままに終わった。

ずっとマーヤの姑だと信じていたらしい。

「マーヤちゃんの姑さんは、小柄な人じゃね」

一行が帰った後で言う。

「あれは、うちのサチコじゃ」

「ええっ?!

知らん人じゃけん、旦那さんのお母さんだとばっかり…」

ヨシコの驚くまいことか。

母の外見が、それほど変化してしまったということだろう。

それよりも勘違いしたまま、会話がちゃんと成立していたのが怖い。

《続く》

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始まりは4年前・10

2024年08月08日 10時19分29秒 | みりこん流

A先生の紹介で、心療内科を受診することになった母。

そこはうちから車で5分と近いが

先日、母を救急で連れて行っただけの、ほぼ知らない病院だ。

 

私が子供だった昔は、市内唯一の救急病院として名を馳せていたが

歴史の古い病院にありがちな、車社会への対応ができないまま

増築を繰り返して現在に至っている。

到達するには車の離合が難しい坂道を登らなければならず

駐車場も狭いため、私にとっては避けたい場所。

だから、心療内科ができていることも知らなかった。

 

この前、母を連れて行った時は時間外だったので閑散としていたが

今回、明るい時に行ってみると、なかなか賑やかだ。

母が救急で受診した循環器内科から外科まで数種類の科があり

心療内科もその一つになっている。

「待合室で知り合いに会っても、何の病気で来とるかわからんけん

お母さんにはいいと思うよ」

A先生が言っていたのを思い出して、なるほど…と思った。

 

心療内科の先生は40代ぐらいか…あっさりして明るい女医さんだった。

A先生から詳細な連絡が行っているようで

母に少し聞き取りをした後、ここでもやはり先生が気にしたのは

夜中に電話で私を呼ぶ行為。

時間や回数、その時の母の様子を詳しくたずねられた。

 

そして診断はすぐに出た。

“不安神経症”という病名だ。

若い人であれば、パニック障害と言うらしいが

老人の場合は不安神経症なんだそう。

 

「私は精神病なんですね…」

うなだれる母。

しかし先生、そこは心療のプロ。

「精神病じゃありませんよ。

不安神経症という症状が出ているだけです。

お薬で治りますからね、大丈夫ですよ」

老人が聞き取りやすいように、ゆっくりと大きな声でなだめるのだった。

 

それから認知症テストを、先生自らしてくれた。

動物や花なんかのイラストが4つか5つ描いてある絵本を見せて

覚えるように言い、今度は10から20までの数を逆から言わせて

さっきの絵本に何の絵があったかをたずねる。

母、全滅。

さらに鉛筆や腕時計などの実物を並べた小ぶりなケースを見せた後

少し別の話をしてから、さっきのケースに何が入っていたかを聞く。

これは一つクリアして、得意そうだった。

 

「短期記憶が、ちょっと来てますね。

お年寄りがさっきのことをすぐ忘れる、よくあるやつです。

ほら、脳の写真を見ても、前頭葉の萎縮が始まっていますから

物忘れは仕方がないですね。

年相応なので、気にしなくて大丈夫ですよ」

という話だった。

認知症で施設入りの道のりは、遠そうだ。

 

薬は2種類、出た。

様子を見ながらなので、ごく軽い薬だそう。

朝、昼、夕、それぞれ食後に飲む錠剤と

夜中に不安になったら飲む精神安定剤の錠剤。

どっちも直径5ミリぐらいの小さい粒だ。

 

「せっかく行ったのに、注射も点滴も無いなんて!」

残念がる母を連れて帰ったが、その夜から呼び出しがパッタリ無くなった。

そして翌朝、晴れやかな声で電話がある。

「あんた、朝までよう寝られたわ!

あの女医さん、やっぱり本職じゃねえ!」

こんな明るい声は久しぶりに聞く。

 

以後、電話は依然として日中に複数回あるが

母の要請で実家へ行くのは2〜3日に一度でよくなった。

不安時に1錠飲む精神安定剤に依存して、ガンガン飲んでいる様子だが

ようやく訪れた小康状態…

「飲み過ぎじゃないのか」、「3時間は空けるように言われたじゃん」

などと言って生真面目に制限する気は起きなかった。

 

ただ、このまま飲み続けると蓄積して行って

時期は個人差があるのでわからないものの

一気にツケが回ってガクッと来るかもしれない…という話は聞いていた。

次男の別れた嫁アリサが、元は精神科の介護士で

母が心療内科の薬を飲み始めた頃に教えてくれたのだ。

 

それから彼女はもう一つ、貴重な話をしてくれた。

「お年寄りに手がかかるようになると、みんな施設を考えるけど

順番待ちでなかなか入れないでしょう。

だけど認知症と強い不安感はセットになっていることが多いから

精神病院でも扱えます。

聞こえが良くないので、お年寄りも家族も精神病院を避けたがる分

病室は割と空いていて、施設より入りやすいんです。

病棟の出入り口と病室に鍵をかける鉄則はありますけど

それ以外の待遇は施設と同じなので、ある日ガクッと来ることがあったら

施設だけじゃなくて精神科の入院も考えるといいですよ」

医師や看護師が聞いたら怒るかもしれない、際どい内容だが

それを聞いて、ものすごく楽になったものだ。

 

似た内容の話は同級生のけいちゃんから聞いていたので

万一の時の裏技として心に留めていた。

彼女の認知症のお母さんが、精神病院に入っていたからだ。

しかし実際に精神病院で働いていた…

しかも当時は身内だった人物から直接聞くと、現実的でわかりやすい。

今となっては、アリサはこれを伝えるために

うちへ嫁に来たのではないかとまで思ってしまう。

 

精神病院の介護士はストレスが多かったようで

彼女は二度と介護の仕事をやりたくないと言っていた。

そのストレスが残り続けて散財癖に繋がり

離婚に至ったのかもしれない。

有り金を使い果たされた次男は気の毒だったが

私にとっては万金に値する情報だった。

 

アリサは結婚直前に一度、母に会ったことがある。

その時に母の表情や体格を見て、感じるものがあったらしい。

例のごとく、当日になって急に連れて行けと言い出した母の要請で

お寺の行事に行った時、私と母を送迎してくれたのだ。

今日は車検で車が無いと言っても通用しない、それが母である。

「どうして?どうして〜?」

行くまで電話攻撃は終わらない。

私という無料のタクシーに味をしめているので

町内のお寺でも自力で行く気はさらさら無い。

ちょうどうちへ来ていたアリサが見兼ねて、快く車を出してくれた。

 

「ヨシキのお祖母ちゃんです、よろしくお願いしますね」

母は気取って微笑み、迎えに来たアリサに挨拶した。

が、翌月結婚した彼女夫婦に、祝いは無かった。

それが母である。

結局離婚したし、全然いいんだけどね。

《続く》

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始まりは4年前・9

2024年08月07日 15時23分22秒 | みりこん流

『前進』

夜中に長男と二人で母の所へ行った私は、その後どうしたか。

夜間受付のある救急病院へ行くことにした。

だって、前に進むと決めたんじゃ!

 

電気を点けるのを嫌がる母の枕元に座り、真っ暗な部屋で

彼女が昔の恨み言や先の不安をツラツラとしゃべるのを聞きながら

落ち着くまで待つ…このバカバカしさといったら!

しかも最初のうちこそ

1時間ほどで起き上がれるようになっていたものの

回復する時間はだんだん遅くなっていた。

この現象は、体調の問題ではないような気がする。

聞いてくれる者がいるので

毒を吐き続ける時間が長くなってきて、まさに毒演会。

 

つまり母は、今後も悪質化する一方で

私がチャラチャラとお世話ごっこをしてみても

何の意味も価値も無い。

こんなことを繰り返していては、ダメじゃ。

これからは母の主導でなく、私がどうしたいかを主体に動く。

 

施設か病院か…だから私は考えるようになった。

要介護も取れそうにないし、入院できそうな病名も無いので

絵に描いた餅だけど、それでも考えないよりはいい。

考えた結果、施設でも病院でもいいから

とりあえず行動して、ルートを模索するのだ…

という当面の結論に達した。

 

逸れた話が長くなったが、そういうわけで私は

長男が運転役をしてくれたために

母を管理しやすくなったこの夜を好機ととらえ

病院の門を叩くことにした。

もちろん、母には了解を得ている。

一度見てもらった方がいい…その意見は母も私も同じだ。

 

しかし、考えの方は異なる。

今夜は私だけでなく長男もいるので、母は喜んでいた。

孫だからではなく、自分のために複数の人間が動いてくれる…

それが嬉しいのだ。

ドライブが大好きなので

長男の運転で救急病院まで行くのもまんざらでない。

そして私は、その心理を利用したまでだ。

 

私は車中から、救急病院へ電話した。

義父アツシが入院していた、うちの近くの病院だ。

そこには老人施設が併設されているので

先々、病院と施設のどっちへ転がっても大丈夫。

 

通常は家から電話をし

受け入れの返事を聞いてから出発するのだろうが

母は気が変わりやすい。

病院とのやり取りを聞いているうちに

行かないと言い出す恐れは大いにある。

それを考慮し、後戻りしにくい距離を走ってから電話をかけた。

母の気が変わって「降りる!」と言い出しても

そこは寂しい町外れ…一人で帰れないもんね。

行動するために、まず家から出る。

後のことは、それからだ。

 

しかし、私のヨコシマな思惑は天に見抜かれたのか

90才という母の年齢と、胸が苦しいという症状を伝えたら

「当直に心臓の専門医がいない」

と、あえなく断られる。

そして代わりに、別の救急病院を紹介された。

やはりうちの近くだ。

我々3人は、そっちの病院へ向かった。

 

到着後は心電図を取り、色々な検査をしたが

医師の診断結果は「異常無し」。

行動を起こしてみたものの、初戦敗退だ。

 

その頃には母はすっかり元気になり

着て来たコートの下がパジャマだったのを悔やんだ。

帰りに買い物がしたかったらしい。

病院に連れて行かれて懲りたのか、疲れたのか

その夜の呼び出しは無かった。

 

翌日、母を連れて、いつもの内科医院へ行った。

月に一度の健康診断と

夜中に救急病院へ行ったことをA先生に報告するためだ。

「一度、心臓の精密検査をしてみましょう」

A先生は言い、町内にある病院の紹介状を書いた。

私が17年前まで勤めていた病院である。

 

12月半ばを過ぎた頃、母は心臓外科の診察を受け

24時間装着して心電図を取る、小さな機械を付けてもらった。

後日、検査結果を聞きに行ったら、またもや「異常無し」。

チ〜ン。

「バリバリに元気です」

と言われてご機嫌の母は、その晩、私を呼ばなかった。

 

検査結果が出た翌日、書類を持ち

母を連れてA先生の内科医院へ行った。

「もうね、夜になると胸が苦しゅうて苦しゅうて…」

症状を訴える母だが、A先生の興味は別のところにあった。

 

「この前から、夜中に娘さんを呼んどるよね?

僕が知っとるだけでも3回」

「はい先生、胸が押しつぶされそうに苦しいから

いつも呼ぶんです」

A先生は、深刻な表情で言った。

「心臓は大丈夫とわかったから、心療内科を紹介します。

サチコさん(母の名前)、専門の先生に見てもらおうや」

 

母を点滴室に送った後、彼が言うには

「夜中に呼ばれたら、やっとられんよね。

病気じゃないのにそういうことをするのは、心因性なんよ。

精神科だと、お母さんが抵抗を感じるけん

心療内科のある病院にしといたよ」

…母の性格をよくご存知で。

 

それから、母の口癖が気になるそうだ。

“不安で不安で仕方がない”、“夜中に目が覚めたら不安になる”

“不安で居ても立っても居られない”、“私はもうダメ”

“こんなに苦しいんなら死んだ方がマシ“、“一人で死にとうない”…

母が先生に繰り返し訴える言葉を

カルテにそのまま書き留めてあった。

 

こういう嘆きの語録、母にとっては普段の日常語なので

私は慣れている。

が、他の人が聞いたら変に聞こえるんだろうか…

そう思うと、何やら不思議な感じがした。

 

こうしてA先生が紹介してくれたのは

先日行った救急病院の心療内科。

A先生のにらんだ通り、母は心療内科を

内科に毛の生えたような所だと思い、すんなりと付いて来た。

思わぬ方向から、病院と縁ができたような気がする。

《続く》

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始まりは4年前・8

2024年08月06日 08時43分02秒 | みりこん流

『女優』

夜中の呼び出しは、その後も数日間、続いた。

2時、あるいは3時…

車を飛ばして実家へ行き、母が落ち着くのを見届けてから

早朝に帰宅する。

 

私は夜の7時台という超早寝で、夜間の呼び出しに備えた。

このハードな日課でみるみる痩せたため

減量したい人に母を貸し出す商売でも始めようかと

半分真面目に考えたものである。

 

本当に具合が悪ければ、駆けつける甲斐もあろう。

夜中に電話で人を起こし

わざわざ来させるほどの体調不良が生じれば

たいていはそのまま入院するだろうから

夜中の呼び出しはせいぜい1〜2回で終わる。

 

しかし母の場合、電話からして芝居がかっている。

そして芝居なんだから、何回でも続く。

「しんどいんよ…苦しいんよ…」

枕元の携帯に出たら、いきなりこれだ。

次の句も決まっている。

「一人で死にとうない…」

 

一人暮らしの母は防犯に神経質で

家のどこもかしこも、常に厳重に施錠している。

しかし呼び出される時は、いつも玄関の鍵が開けてある。

私は実家の鍵を持ってないので

開けておいてくれれば助かるが、母の寝室は2階。

今にも死にそうな人間が、1階の玄関まで降りて鍵を開け

それからまた2階の寝室へ戻っているというわけだ。

 

わざわざ玄関の鍵を開けたのなら

電気も点けておいてくれれば、なお助かるが

夜中に明かりを煌々と灯したら、向かいの交番が異変を感じる。

異変を感じてもらっては困るため、家中、必ず真っ暗だ。

そして本人は真っ暗な寝室で布団をかぶり

息を潜めて私の到着を待つというホラー。

 

夜中の呼び出しが始まって何日目だったか

やはり深夜3時に電話が鳴る。

「救急車はどうやって呼ぶん…」

毎晩、同じセリフでは芸が無いと思ったのか

この夜はセリフを変えてきた。

 

これを聞いて飛んで来ると思っただろうが

敵は救急車の呼び方を質問しているのだから

優しい!私は、まず呼び方をお伝えしなければ。

「119に電話するんよ」

「……」

不本意な答えだったらしい。

 

少し間を置いて、再び質問が。

「ねえ、救急車はどうやったら来てくれるん…」

「じゃけん、119に電話するんじゃが」

2〜3回、このやり取りを繰り返した後、本題に入る。

「震えがきて、どうにもならんのよ」

「寒いんじゃないん、暖房つけんさい」

「つけとるけど、寒いんよ…

私はもう死ぬんじゃわ…わかるんよ…一人で死にとうない…」

出た…最近お気に入りの、“一人で死にとうない”攻撃。

 

“一人で死にとうない”

それは老人にとって、便利なフレーズだ。

この言葉の本意は

「いつ死ぬかわからないから、いつもそばで見守れ」

ということであり、簡潔な一節の中には

“絶対、逃がさんぞ”という、強い束縛が配合されている。

実際に言われたら、わかる。

 

「はいはい、お見送りに行きますけん

玄関を開けといてちょうだい」

「わかった…」

今夜もこれから死ぬ人が、1階へ降りて鍵を開けてくれるそうだ。

 

実家へ行くために化粧をしていたら、長男が起きてきた。

今宵は電話のやり取りが長く

耳が遠くなった母に大きな声でしゃべっていたので

目を覚ましたようだ。

 

「ワシも行くわ」

彼はそう言って、実家まで車を運転してくれた。

親の欲目かもしれないが

“夜勤続き”の老親が心配になったのだと思う。

 

「死にそうなのに、玄関開けるパワーはあるんか…」

この不可思議に、長男も気づいたようだ。

いつもこうだと言ったら

「女優じゃ…」

小声でつぶやいた。

 

二人で2階の寝室へ向かうと、母は例のごとく暖房をガンガンにかけ

頭から布団をかぶって寝ていた。

が、この夜は長男が一緒だと知って張り切る女優。

「マコト、おばあちゃんは胸が苦しいんよ…」

いつもにも増して迫力の演技。

急に孫扱いされた長男は、目をパチクリするのだった。

 

この頃の私は、すでに覚悟を決めていた。

前に進む覚悟である。

 

それまでの方針は、現状維持。

母の実子であるマーヤを始め、他の人に災禍が及ばないよう

できるだけ長く前座を務めるつもりだった。

そうしているうちに年月が経ち

施設か病院、どちらかの方向が自然に決まるか

あるいは母の生命が尽きて、いずれにしても終了するだろうという

何もかも母次第の受け身の体制を取っていた。

終了まではできるだけ彼女に寄り添い

悔いのない世話をしようと思っていたのである。

 

しかし、夜中に呼ばれるようになってから考えが変わった。

好きな時間に人を呼びつけ

睡眠を取らせないのは立派な暴力だと判断したのだ。

 

母は昔から、人がどこまで自分のワガママを聞いてくれるか

じっと観察するところがあったので

性格上、あるいは精神的な分野の症状かもしれない。

だから私も腹は立たず、仕方のないことだと思っている。

それでも、病人が振るおうと元気な者が振るおうと

暴力は暴力だ。

 

このまま母と私のどちらかが倒れるまで

命懸けのバトルを繰り広げている場合じゃない…

母を施設か病院に入れることを真剣に考え始めた。

それが、前に進むということだった。

《続く》

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