今日は風邪の具合がよくならないので、会社を休みました。僕は休まないことで有名なんですが、休まないことが100%よいことではないだろうと思ったからです。鼻をかんだり、咳をしたり、だるそうに仕事している状態を、だらだらと続けるよりは、休んで、病院に行って、きっちり治したほうが課全体のために良いだろうと。
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「制止した父親の目の前で…踏切で男性救助の女性 電車にはねられ死亡」
今日はこの事件について色々と考えてみました。
ワイドショーでは、台に置けないほどの献花が積み上げられ、多数の人が手を合わせる姿を何度も映していました。
僕は、74才の老人を助けるために、まだ若い女性(といっても40歳ですが)が死ななきゃならないのは理不尽。社会的損失を考えれば、老人が死ぬべきだったのでは?と思ってました。
しかもこの老人の行動、明らかに自殺するつもりですよね。
もちろん、自殺だって尊い命が失われることには変わりないので、助けられるものなら助けるべきだと思いますけど。
えーと、ここから話がどう展開するのか自分でもわかってないんですが、一部の人、いや、大多数の人が不愉快になる文章を書くかもしれません。いまお詫びしておきます。
奈津恵さんが、自分の命も危ないと思っていたかどうかが分からないし、お父さんも「やめろ」と止めたとき「間に合わない」以外に「娘も危ない」と思ったかどうかもまだ不明なんで、断定はできないんですが、僕だったら自分の娘がこうなったとき、死ぬかもと分かっていて止められなかった自分を一生責めるし、老人のことも心底恨むでしょう。
奈津恵さんのご両親は、優しそうな人たちだから、恨んだり責めたりはしないかもしれませんが、悲しんではいるでしょう。奈津恵さんは自殺しようとしている老人を救いましたが、自分の両親や大切な人たちを悲しませたわけです。親しい人の死の悲しみは、完全に癒えることはありません。その人は二度と帰ってこないからです。僕は25歳のときに父を亡くし、31歳のときに友人を亡くしたので、一応言える資格はあると思います。人の死の喪失感は埋められないのです。奈津恵さんの御両親は、これから一生その喪失感を抱えて生きていくのだろうと思います。
そうまでして老人を救うべきだったのでしょうか? その行為は、美談として称賛され、人々の涙を誘っていますが、それだけでいいのでしょうか? なんか100%そういう空気になってることに違和感を感じるんですよ。違和感というより、危機感かな。日本人はいつからこんなに単純になり、簡単に感動するようになってしまったんだろう、という。
もちろん、彼女の行為は人間として美しいと思います。困ってる人を放っておけない性格だったらしいですね。救われた老人の家族は感謝していることでしょう。でも、彼女の行動の美しさに惑わされて、何も議論されないのはどうなのかと。どうしてこうなった、とか、どうすればよかったのか、も考えないと、彼女も浮かばれないんじゃないですか?
例えば、老人が自殺しなくてもいい社会にするとか、絶対にくぐれない踏切棒を開発するとか、自殺は残された人たちが悲しむからやめようという教育を小学校からするとか。
僕としてはその他に、なぜ人はこの事件に感動しているのか、その感動は適切なのか、を考えてみたいわけなんですが。
で、ここで考えやすくするために状況をシンプルにします。彼女は自分の命と引き換えに老人を救ったと。余裕で助けて自分も待避する自信があった、という可能性を考えると収拾がつかないから。
つまり、彼女は自分が死ぬことで老人を救うか、傍観することで老人を死なせるかの選択で前者を選んだと考えるわけです。まだ40歳で未来のある女性の命と、自殺しようとしている74歳の老人の命のどちらを選ぶかという問題です。
僕の道徳観や倫理観は世間とは違う可能性が高いので、この種の問題を得意とするあの人の助けを借りることにしました。ご存知ハーバード大学のマイケル・サンデル教授です。
彼の「白熱教室」の第1講に、こういう設問があります。
君が運転する電車の前方に5人の労働者がいる。このままだと轢き殺してしまうが、ブレーキが効かない。そこで退避線に入ろうとするが(ハンドルは効く)、そちらにも1人の労働者がいる。さてどうする?
白熱教室では、多数の生徒が退避線を選びました。1人の犠牲で5人を救うほうがいいと。
これを、本線には40歳の女性、退避線には自殺しようとしている老人が、と置き換えても同じでしょう。どちらかを殺さなければならないなら、多数の人が社会にとって有益なほうを生かそうとする。
では第2の設問。
今度は君は傍観者として線路を跨ぐ橋にいる。電車の前方には5人の労働者がいて、このままだと轢き殺されてしまう。しかし、隣にいる太った男を橋から突き落とせば、男は死ぬが電車は止まる。さてどうする?
白熱教室では、さっきとは逆に突き落とさず5人を見殺しにする意見が多数でした。突き落とすという能動的な行為は、道徳的に抵抗があるようです。
僕に言わせれば、自分が生かす命を選択するという意味では、能動的だろうがハンドルを切ろうが同じなんですけどね。
ここからは僕の独自設定で考えてみます。
では設定を変えて、太った男も事態に気づき、自分が飛び降りて電車を止めようとしたらどうでしょうか。あなたは彼の行為を止めるでしょうか。
これは難しい。僕はたぶん「彼の英雄的行為を見守ろう」とか自分に言い訳して5人を救うと思いますが(第1の設問と同じ)、「バカなことをするんじゃない!」と止める人も同程度にはいそうです。
しかし、この太った男が自分の息子だったらどうしますか? 僕だったら止めますけど、止めない親もいるかもしれません。でもまあ、止める親のほうが多いと思います。少なくとも半々に別れそうなさっきの設定よりは、止める方に偏るでしょう。
では最後に、橋にはあなたしかいなかったら?
これは結構な数の人が飛び降りそうな気がしますね。しませんか? 少なくとも、見知らぬ太った男が飛び降りるのを見逃す、あるいは息子が飛び降りるのを見守るよりは、自分が飛び降りる方を選ぶ人が多いんじゃないでしょうか。
結局「そういう気がする」という曖昧な感覚になっちゃうんですけど、どうやら人は誰かを殺すより自分が死ぬ方を選ぶ傾向にあるようです。それは、太古の頃より遺伝子に組み込まれた同じ種を守ろうとするプログラムの発動かもしれないし、両親から愛情いっぱいに育てられた人の人間愛からくる行動かもしれないし、学校で習う?ワンフォーオール・オールフォーワンの精神に則ることなのかもしれない。
いずれにしろ、それを実践してしまったのが奈津恵さんでした。
どちらを殺すべきかというのは答えの出ない問題で、僕も答えが分からないんですが、ここまで長々と書いてきて微熱のある頭で考えた結論は、この事件をきっかけに心構えをしておこう、という事でした。
いつだったか、プラットホームから落ちた女性を飛び降りて助けた青年がいたじゃないですか。あの時は、とっさにホーム下の退避ゾーンに逃げたんでしたよね。
我々人間は、よほどひどい人格破綻者でもない限り、同胞の命を救いたいという衝動を持っているようです。だから、とっさに、反射的に飛び出してしまうんですが、そういう時でも自分と相手が助かる最善の手を打てるようにしておくべきだと思うんです。プラットフォームの下には退避ゾーンがあることを頭の片隅に置いておくとかね。自分はある日突然誰かを救うために自分の命を危険にさらすことがあるかもしれない、そうなったら、自分の命も守るようにしようと思っておくだけでも、だいぶ違うと思うんですよ。
美談かもしれないけど、頻繁にこんな事件があったら悲しいじゃないですか。飛び込んだ人も間一髪で助かった、というニュースの方がいい気分になれますよね。僕は上記のプラットフォーム事件でいい気分になりましたよ。
最後に、村田奈津恵さんのご冥福をお祈りいたします。
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「制止した父親の目の前で…踏切で男性救助の女性 電車にはねられ死亡」
今日はこの事件について色々と考えてみました。
ワイドショーでは、台に置けないほどの献花が積み上げられ、多数の人が手を合わせる姿を何度も映していました。
僕は、74才の老人を助けるために、まだ若い女性(といっても40歳ですが)が死ななきゃならないのは理不尽。社会的損失を考えれば、老人が死ぬべきだったのでは?と思ってました。
しかもこの老人の行動、明らかに自殺するつもりですよね。
もちろん、自殺だって尊い命が失われることには変わりないので、助けられるものなら助けるべきだと思いますけど。
えーと、ここから話がどう展開するのか自分でもわかってないんですが、一部の人、いや、大多数の人が不愉快になる文章を書くかもしれません。いまお詫びしておきます。
奈津恵さんが、自分の命も危ないと思っていたかどうかが分からないし、お父さんも「やめろ」と止めたとき「間に合わない」以外に「娘も危ない」と思ったかどうかもまだ不明なんで、断定はできないんですが、僕だったら自分の娘がこうなったとき、死ぬかもと分かっていて止められなかった自分を一生責めるし、老人のことも心底恨むでしょう。
奈津恵さんのご両親は、優しそうな人たちだから、恨んだり責めたりはしないかもしれませんが、悲しんではいるでしょう。奈津恵さんは自殺しようとしている老人を救いましたが、自分の両親や大切な人たちを悲しませたわけです。親しい人の死の悲しみは、完全に癒えることはありません。その人は二度と帰ってこないからです。僕は25歳のときに父を亡くし、31歳のときに友人を亡くしたので、一応言える資格はあると思います。人の死の喪失感は埋められないのです。奈津恵さんの御両親は、これから一生その喪失感を抱えて生きていくのだろうと思います。
そうまでして老人を救うべきだったのでしょうか? その行為は、美談として称賛され、人々の涙を誘っていますが、それだけでいいのでしょうか? なんか100%そういう空気になってることに違和感を感じるんですよ。違和感というより、危機感かな。日本人はいつからこんなに単純になり、簡単に感動するようになってしまったんだろう、という。
もちろん、彼女の行為は人間として美しいと思います。困ってる人を放っておけない性格だったらしいですね。救われた老人の家族は感謝していることでしょう。でも、彼女の行動の美しさに惑わされて、何も議論されないのはどうなのかと。どうしてこうなった、とか、どうすればよかったのか、も考えないと、彼女も浮かばれないんじゃないですか?
例えば、老人が自殺しなくてもいい社会にするとか、絶対にくぐれない踏切棒を開発するとか、自殺は残された人たちが悲しむからやめようという教育を小学校からするとか。
僕としてはその他に、なぜ人はこの事件に感動しているのか、その感動は適切なのか、を考えてみたいわけなんですが。
で、ここで考えやすくするために状況をシンプルにします。彼女は自分の命と引き換えに老人を救ったと。余裕で助けて自分も待避する自信があった、という可能性を考えると収拾がつかないから。
つまり、彼女は自分が死ぬことで老人を救うか、傍観することで老人を死なせるかの選択で前者を選んだと考えるわけです。まだ40歳で未来のある女性の命と、自殺しようとしている74歳の老人の命のどちらを選ぶかという問題です。
僕の道徳観や倫理観は世間とは違う可能性が高いので、この種の問題を得意とするあの人の助けを借りることにしました。ご存知ハーバード大学のマイケル・サンデル教授です。
彼の「白熱教室」の第1講に、こういう設問があります。
君が運転する電車の前方に5人の労働者がいる。このままだと轢き殺してしまうが、ブレーキが効かない。そこで退避線に入ろうとするが(ハンドルは効く)、そちらにも1人の労働者がいる。さてどうする?
白熱教室では、多数の生徒が退避線を選びました。1人の犠牲で5人を救うほうがいいと。
これを、本線には40歳の女性、退避線には自殺しようとしている老人が、と置き換えても同じでしょう。どちらかを殺さなければならないなら、多数の人が社会にとって有益なほうを生かそうとする。
では第2の設問。
今度は君は傍観者として線路を跨ぐ橋にいる。電車の前方には5人の労働者がいて、このままだと轢き殺されてしまう。しかし、隣にいる太った男を橋から突き落とせば、男は死ぬが電車は止まる。さてどうする?
白熱教室では、さっきとは逆に突き落とさず5人を見殺しにする意見が多数でした。突き落とすという能動的な行為は、道徳的に抵抗があるようです。
僕に言わせれば、自分が生かす命を選択するという意味では、能動的だろうがハンドルを切ろうが同じなんですけどね。
ここからは僕の独自設定で考えてみます。
では設定を変えて、太った男も事態に気づき、自分が飛び降りて電車を止めようとしたらどうでしょうか。あなたは彼の行為を止めるでしょうか。
これは難しい。僕はたぶん「彼の英雄的行為を見守ろう」とか自分に言い訳して5人を救うと思いますが(第1の設問と同じ)、「バカなことをするんじゃない!」と止める人も同程度にはいそうです。
しかし、この太った男が自分の息子だったらどうしますか? 僕だったら止めますけど、止めない親もいるかもしれません。でもまあ、止める親のほうが多いと思います。少なくとも半々に別れそうなさっきの設定よりは、止める方に偏るでしょう。
では最後に、橋にはあなたしかいなかったら?
これは結構な数の人が飛び降りそうな気がしますね。しませんか? 少なくとも、見知らぬ太った男が飛び降りるのを見逃す、あるいは息子が飛び降りるのを見守るよりは、自分が飛び降りる方を選ぶ人が多いんじゃないでしょうか。
結局「そういう気がする」という曖昧な感覚になっちゃうんですけど、どうやら人は誰かを殺すより自分が死ぬ方を選ぶ傾向にあるようです。それは、太古の頃より遺伝子に組み込まれた同じ種を守ろうとするプログラムの発動かもしれないし、両親から愛情いっぱいに育てられた人の人間愛からくる行動かもしれないし、学校で習う?ワンフォーオール・オールフォーワンの精神に則ることなのかもしれない。
いずれにしろ、それを実践してしまったのが奈津恵さんでした。
どちらを殺すべきかというのは答えの出ない問題で、僕も答えが分からないんですが、ここまで長々と書いてきて微熱のある頭で考えた結論は、この事件をきっかけに心構えをしておこう、という事でした。
いつだったか、プラットホームから落ちた女性を飛び降りて助けた青年がいたじゃないですか。あの時は、とっさにホーム下の退避ゾーンに逃げたんでしたよね。
我々人間は、よほどひどい人格破綻者でもない限り、同胞の命を救いたいという衝動を持っているようです。だから、とっさに、反射的に飛び出してしまうんですが、そういう時でも自分と相手が助かる最善の手を打てるようにしておくべきだと思うんです。プラットフォームの下には退避ゾーンがあることを頭の片隅に置いておくとかね。自分はある日突然誰かを救うために自分の命を危険にさらすことがあるかもしれない、そうなったら、自分の命も守るようにしようと思っておくだけでも、だいぶ違うと思うんですよ。
美談かもしれないけど、頻繁にこんな事件があったら悲しいじゃないですか。飛び込んだ人も間一髪で助かった、というニュースの方がいい気分になれますよね。僕は上記のプラットフォーム事件でいい気分になりましたよ。
最後に、村田奈津恵さんのご冥福をお祈りいたします。