”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

高校軟式野球近畿大会 比叡山9年ぶりに優勝

2021-08-05 16:05:19 | 滋賀のスポーツ
 第66回全国高校軟式野選手権近畿大会は8月4日、和歌山県の紀三井寺球場で決勝があり、滋賀県代表の「比叡山」が、奈良県の天理に3−2で勝ち、優勝した。 比叡山は9年ぶり11回目の優勝。

比叡山高校は、8月25日(水)から6日間(雨天順延、準々決勝翌日の休養日1日を含む)、兵庫県の明石トーカロ球場(明石公園第1野球場)とウインク球場(姫路球場)で開催される全国大会に出場する。


頑張れ比叡山!
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大津の和田神社が家族連絡先など記入欄もある「防災お守り」 授与

2021-08-05 11:00:00 | 滋賀TODAY
 大津市木下町の「和田神社」では防災への意識を高めてもらおうと、災害時に役立つ「防災お守り」を手作りし、6月から神社で授与している。


お守りは「災禍除守」と名付けられ、財布やランドセルなどに入れて携帯することを想定しているため、大きさは縦7.5cm、横3.5cmの手のひらサイズです。
 お守りの中の紙には地震などの災害時に備えて、家族や学校の連絡先や本人の持病の有無のほか、離ればなれになった場合に家族で集合する場所などを書き込める欄がある。
お守りは1体300円で、贈りものとして複数購入する人も多いという。

 宮司の嶽山修平さんがおととし台風19号で長野県の千曲川が決壊した際に、現地で復旧作業にあたったことをきっかけに、防災お守りを作ることを思いついたということで、嶽山さんは「お守りは肌身離さず持ち歩くものなので子どもに持たせるなどしていざというときに役立てて欲しい」と話していた。

和田神社
大津市木下町7−13
電話: 077-522-2057
http://www.wadajinja.jp/

<NHK大津より>
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滋賀県など魅力的な商品満載 「WEB物産展」開設

2021-08-05 10:00:00 | 滋賀のグルメ・郷土料理
 新型コロナウイルスが滋賀県内でも急速に再拡大し、観光地や買い物に出掛けるのが難しくなっていることから、滋賀県やびわこビジターズビューローは8月2日から、インターネット上で滋賀県内の名産品を購入できる「滋賀WEB物産展」を始めた。



滋賀WEB物産展
主催: 滋賀県やびわこビジターズビューロー
サイト: 「楽天市場」のサイト内に、商品一覧や購入のページを開設
https://event.rakuten.co.jp/area/shiga/exhibition/
開催期間: 8月2日〜31日
内容:
 ・近江牛や近江米、信楽焼など約百店舗の計約1870品を揃えた。(先着15000回の利用に適用される)、3割引きのクーポンも用意。
 ・9月以降も順次、新商品を追加する。

 担当の滋賀県観光推進室の山田菜央さんは「外出が難しい中、滋賀の魅力的な商品をオンラインで見つけて欲しい」と呼び掛けている。

<中日新聞より>
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私の【国際線フライトと海外の旅の物語】(第1回) シリーズ始める(予告)

2021-08-05 09:00:00 | 海外の旅
 ブログ筆者が小さい頃は海外=国際の世界は「兼高かおる世界の旅」(TBS系)で、当時世界1周航路を就航させていた元パンナム(パンアメリカン航空)提供のTV番組を通じて世界を知るくらいあった。
自分が海外に行けるとは到底思えない高嶺の花・夢の世界だった。また自分の周りにもそんな人はいなかった。

 それが実現したのはその頃から10年以上先の話で、既に成人していたが1974年(昭和49年)の海外渡航が始まりである。もう半世紀近い47年前のことになる。滋賀の田舎生まれの私がその後、多くの時間、国際業務に関わるとは私本人も含めて誰一人想像しなかったであろう。

 それ以来数々のプライベートとビジネスで国際線フライトの旅をしてきた。
リタイアした今はもう昔のように飛ぶことはなくなったが今回、私の【国際線フライトと海外の旅の物語】と題し、海外旅行の昔談義や思い出を思いつくままに筋書なしで書いてみようと思う。

 書くにあたって振り返ってみると海外旅行、国際線のフライトなど、数えきれない多くの思い出や現地の人々やシーンが走馬灯のようにかけ巡る。
海外では数多くの人たちにお世話になった。その何分の一もお返しできていないが今も感謝一杯である。その時出会った人の何人かは亡くなったり、また今も健在と分かった人もいる。

 今回の連載は何回続くか分からないが書いて行くうちに思い出すこともあるだろう。
まずは初フライトの47年前から始めてみようと思う。。。。。
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【滋賀・近江の先人第199回】明治の三筆と呼ばれる近代書道家・日下部 鳴鶴(彦根市/近江八幡市)

2021-08-05 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

 日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。
本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。

業績
中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。
中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。
芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。中林梧竹(ごちく)、巌谷一六(いわや・いちろく)とともに「明治三筆」のひとり。

鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている[1]。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる。
なかでも、近藤雪竹(せつちく)、丹羽海鶴(にわ・かいかく)、比田井天来(ひだい・てんらい)、渡辺沙鴎(さおう)は「鶴門四天王」と呼ばれ、大正から昭和にかけて近代書道界の礎を築いた。
楷行草隷各体に巧みで、揮毫した碑は1000基とも言われ、なかでも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれている。
明治天皇の勅命により建碑されたのは大久保利通没後32年、鳴鶴73歳のときで、加賀山中温泉に半年間滞在し、全身全霊を込めて書き上げたと伝わる。

ヒストリー
1838年、彦根藩士・田中惣右衛門の次男として江戸の藩邸で生まれる。初名は八十八、のちに東作と改める。
1859年(安政6年)、22歳の時に同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる。
しかし1860年(万延元年)、藩主の井伊直弼が桜田門外で暗殺されたが養父三郎右衛門もその場で重傷をうけ、60日後に亡くなった。
直弼死後、禄は大幅に減り生活は困窮したが上京し書道に専念する決意をしている。
はじめ、巻菱湖(まき・りょうこ)や趙子昴(ちょう・しこう)の書を学び、また貫名海屋(ぬきな・かいおく)に私淑していた。

明治維新後、大久保利通や三条実美の知遇を得て、太政官少書記官、内閣大書記官を歴任するが、大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺されたことを機に退官し書道に専念する。
特定の人物に師事してはいない。しかし20代の時には、既に亡くなっていた貫名菘翁の書に傾倒していた。
明治13年(1880年)、清国の金石学者・楊守敬(よう・しゅけい)の来日を機会に巌谷一六らとともにその教えを受け、漢魏六朝の書法(碑学、六朝書、篆隷)の研究に専念して、わが国書壇に新風をもたらした。
明治24年(1891年)には、清国に渡り、呉昌碩などの学者文化人と交流し、「東海の書聖」来たると称され、書道の権威者と呼ばれるようになる。
その一方で碑文の揮毫や雑誌の刊行、名跡研究などに努めた。
大正11年(1922年)、肺炎のため85歳でその生涯を閉じる。

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