公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「代表的日本人」 内村鑑三(著)齋藤訳

2015-01-22 16:18:36 | 今読んでる本
西郷隆盛に関して、内村鑑三は、西洋のオリバー・クロムウェルに相当すると言っている。100年以上前の1908年英文発表された本書である。
今も大西郷の評価は分かれる。
死後墓を暴いてまで25年間さらし首にされたオリバー・クロムウェルと同様、英雄であり大罪人であった時代に書かれた事を考慮して評価するが、本当に時代に流れてあせていない大西郷を、代表的日本人のいの一番とした内村鑑三はさすがであると思う。


日本が戦争に連戦連勝し始めた時代、日本が少しずつ狂い始めていた時代に何か危機感を覚えていたと示唆する記述も見える。
いわゆる朝鮮の無礼な事件だけが大西郷の大陸進出雄飛の動機ではなかったと人格から思料している。軍を動かすからには日本の単独の利害で動かすことなど、大西郷の考えることでないことは容易に理解できる。侵略・進出史観しか教えられていなければ、まず西郷隆盛の人格と天との関係を知る必要がある。

読者がキリスト教を信じることを前提として、天と大西郷の関係を神と信仰との関係から理解してもらおうと努力している。^_^大先輩の努力は実っただろうか



さて。上杉鷹山はとばして、次は二宮尊徳

引用させていただく。
あるとき金次郎は、小田原藩分家の知行地である三村(物井、横田、東沼、いずれも現在の栃木県真岡市、元二宮町)の立て直しを小田原藩主にお願いされた尊徳は、意外にも藩主からの施しを召し上げるとの策を提案する。これがまことに道理、人道に従った報徳思想の実践。
『「仁術さえ施せば、この貧しい村人たちに平穏で豊かな暮らしを取り戻せるはずです。」(略)なんと大胆で筋の通った、費用のかからない計画でしょうか。このような計画を承諾しない人がいるはずはありません。道徳的な力を経済改革の重要な要素とすることで、村を復興する案などかつてほとんどありませんでした。(略)西洋からやってきた「最大多数の最大幸福」の思想にまだ毒されていない、生粋の日本人だったというべきでしょう。』



尊徳の善政は見事に成功し、年貢は5倍になり、穀倉は10年分の蓄えをもたらした。ちょうど1833年(天保四年)癸巳年の飢饉のころは、三村は、尊徳の夏ナスの味が秋ナスに似たことに勘をはたらかせ、ヒエを植えさせた。おかげで三村は無事であった。
この天保期は徳川体制にほころびが出始めた頃で、日本が危機を迎える周期にはいっていた。既存道徳の崩壊が地方で始まっていたという風景が見えてくる。御蔭参りの流行を契機に世の中の権威が崩落し始めていたこの頃、葛飾北斎は70歳代、間宮林蔵58歳、千葉周作39歳、井伊直弼はまだ18歳、勝海舟は10歳だった。天保八年(1837年)、やがて天下を驚かす大塩平八郎の乱が起こるのだ。
2年後の天保十年(1839年)蛮社の獄と幕府のパニック反応は続く。日本の次の大きな危機は1953年*~57年米国の属国となった時、その次は2073~77年ころにあたる。自分は生きていないだろうが、子どもたちが晩年、孫達が老年の盛の指導者層になった頃、今からどんな危機かは予想もできないが、自ら生み出した21世紀前半の日本の高度な繁栄が仇となって危機に陥る。

*計画経済を指向する日本社会党の浅沼稲次郎の第4次吉田内閣不信任案提出の演説の中にさえ、「昨年四月二十八日、独立国として国際場裡に再出発をしたのであります。現実に独立した日本の姿を見れば、日米安全保障条約並びに行政協定に基づいて、日本の安全はアメリカの軍隊によって保証され、アメリカ軍人、軍属並びにこれらの家族には、日本の裁判権は及びません。」と言わしめたほど、売国と引き換えの国際場裡復活だった。(昭和28年:1953年3月14日 衆議院本会議)この桎梏はわずかに地位協定で修正されたが、基本的に国際社会に配慮した顔つきをした属国としての裨益路線は変わっていない。「逆コース」批判に右翼が反発という芝居がかった刺殺の対象になり、この程度のナショナリズムでさえ暗殺の対象になった。これを国難と言わなければ、先祖に笑われる。


不況続きでまだ日本人は気づいてないかもしれないが、平成25年の癸巳から5年間、今を含める平成30年までの期間が、日本がまだよかった時代のピーク時期(江戸時代ならば1773年、江戸市中がまだ混浴で繁盛してた田沼政治経済の大緩和期、田沼意次が53歳、松平定信15歳の時期)に相当する。それから60年後に本当の大危機がやってくる。

60年後のその時は、尊徳の仁術を思い出し、裸一貫から出直して来いというもいいことだろう。孫の子の世代に勝海舟や西郷隆盛が現れることを願う。

ちなみに勝海舟が70歳、徳川慶喜が56歳になったころ癸巳年(明治26年:1893年)の日本は西南戦争の傷も癒え、GDPも購買力平価でドル換算した参考値だが、20年前の1.5倍になった(毎年3%近い成長をしていたことになる)。帝国憲法が発布して、国の形が近代化に満ちて高揚していた若葉の国家のころにあたる。そうです。勝海舟は地獄と天国を見ている世代に当たるのですが、必ずしも明治政府を褒めてはいない。徳川慶喜は超然として反省がない。

この本はその後、日清戦争、日露戦争を経た1908年に書かれている。日本人が日本人をどのように理想化し、自画像化したかという意味で時代の価値観を残してくれている貴重なエッセイ集である。「譲」の価値観が失われた、今の価値観と対比してみるのが良いだろう。
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