二宮尊徳の逸話に興味をもったので、尊敬する童門冬二の著作から、「経営学」を手にしてみた。知っているようで意外と二宮尊徳を知らないのは、偉人伝で知ったつもりでいるからなんだなと反省する。実際、江戸時代のどの辺の人物だったのか考えてみたこともなかったのは我ながら浅学の極みである。
いつものように、そうだったのかと思うところから引用。
『尊徳 (徳を尊ぶ )というのは金次郎の号だ 。名づけたのは藩主の大久保忠真である 。大久保はその後江戸城に招かれ老中筆頭 (総理大臣 )になる 。大坂城代を務めていた頃には大塩平八郎を発見している 。民のために身を粉にする大塩の態度に大久保は感動した 。 (大坂町奉行所に置くのは惜しい 。江戸城に戻ったら幕府で使ってみたい )と考えたフシがある 。密かに大塩にもそれが伝えられたと思う 。大塩は期待した 。しかし大塩が中央へ出る前に 、肝心の大久保の方が先に死んでしまって 、この話は流れた 。大久保忠真は 、常に 「社会を良くする人材の発見 」に努めていた 。』
藩財政の立て直しを金次郎(尊徳)は固辞したが。
『受け入れられなかった 。それは藩主の大久保忠真が 、この問題に異常な関心を抱いていたからである 。忠真は天明一 (一七八一 )年生まれの徳川譜代の大名だ 。大久保家はいわゆる三河以来の徳川家の譜代で 、特に先祖の忠隣は 、いろいろと話題のあった人物である 。家康は大久保家を重視し 、江戸城への関門にあたる小田原城に配置した 。途中で城主は阿部 ・稲葉に代わったが 、貞享年間に復帰し 、忠真はその後期大久保氏の七代目である 。』
『文政四 (一八二一 )年八月一日 、三十五歳になった金次郎は前に書いた下野桜町の宇津家の領地の実態調査に赴いている 。これは突然の話ではなく 、かなり前からの大久保忠真の要望だったが 、金次郎はその度に断わってきた 。しかし大久保忠真の熱意に負けて 、 「復興まではお引き受けいたしかねますが 、実態調査だけはいたしましょう 」と妥協して出発したものである 。したがってこの時は内密の調査であって 、大久保忠真とのあ ・うんの呼吸は整っていたが 、だからといって金次郎自身 、 「この調査を皮切りに桜町宇津家の財政再建の仕法を引き受ける 」という考えは全くなかった 。というのは 、現在では依然として家老服部家の財政再建に関わっていたからである 。しかしこの時の調査結果に付した意見書の中に金次郎は 、
「桜町宇津家の財政困難も 、皇国神代開闢の心を以て当たれば復興は疑いありません 」
と意見を添えている 。皇国神代開闢というのは 、日本の国のはじまりのことをいうが 、金次郎にすれば誇張でもなければ大袈裟な表現でもなかった 。』
『金次郎の場合は 、全体的なある計画を立ててその一部として 、 「一地域の復興 」を考えているわけではない 。与えられた" 一地域の復興 "がすなわち "全体"なのだ 。 だから 、 「全体の一部として復興を成功させ 、その成功によって全体に臨んでいく 」という態度ははじめから持っていない 。あくまでも 、今度の例でいえば下野国桜町の宇津分家の復興が 、この時の金次郎の全仕事であったのである。』
『二宮金次郎の他人に対する感化力は素晴らしい 。これは日本人の特性である 、 「何をやっているかではなく 、誰がやっているかだ 」という 、 「内容ではなく 、行う人間に対する印象や評価 」の方が 、モチベ ーション (動機付け )の大きな力になるということの好例だ 。』
人材を見いだす能力というのが、単なる登用ではないことがわかる。
大久保忠真のプロモーションなくして二宮金次郎なし。二宮尊徳の偉業を知るのも重要だなあと思ったが、このような出会いは時代の必然であることを鳥の目で時代を俯瞰して見ておくべきだろう。江戸時代と言っても一様に人心が安定していたわけではなく、1821年には道徳的秩序が荒廃していた。今と同じで、江戸で流行ったものは地方でも人気となる。文化文政の末期的風俗は「飲む打つ買う」を小規模に地方に拡散させ武士から農民まで貨幣経済に飲み込まれていた。当然ケツ持ち家業が裏街道に無宿人を集めて繁茂し始める。
このころの修身斉家治国平天下とはお題目で、上から下まで修身の入り口から崩れ落ちていた。社会に大きな危機が訪れる時は、目に見えないものから崩れてゆくものなのだ。
童門冬二は震災復興とは何かということを冒頭に置きながら、今一度時代を超えた尊徳の経済思想を日本人の血肉にするべきという思いで書いているのがよく分かる。今はどうだろうか、歴史を辿ると、アベノミクス緩和は田沼政治に似ている。たぶんこれから一時的に経済は活気を示すだろう。それもいい時代は2023年位まで、2030年を超えると国の中に普通の人が近づけないほど危険なエスニック・グループがあちこちに繁茂するだろう。彼らは今緩和しようとしている労働移民の連れ子2世たちの無職世代と生活水準の低い日本人達だ。かつて再生モデルであった<修身斉家治国平天下>はひとつながりの民族だからできる偉業。しかも世界の人口は今より15億人も増えている。
パッチワークの国民では不公平を民族として国威校正(国のために推譲)することができなくなる。もはや国民純度は低く、皇国神代開闢の精神へ戻ることができなくなる。
おそらく2070年台にはそのような日本に対しては国際的圧力で所得移転を強制され、自国のことを自国で決められない国民国家の司法権の空洞化が完成している。
グローバル契約条項が国内法より優位な奴隷社会、強奪社会できあがるだろう。日本の制度的滅亡に続く、民族的滅亡である。
安倍晋三は田沼意次のように今日の歴史的成果を貶められ、一部の国民には最後の抵抗の象徴になるかもしれないが、いずれ国民に忘れられる、日本はもう無いのだから。それまでに関東の震災がなければよいのだが。。
この不幸な危機は避けられないが、影響を最小限に食い止めるには、移民も含めた国民登録制度+義務的な兵役および医療訓練をともなう徴兵制、及び予備役登録という人工的所得分配制度を作っておくことだ。そうしておけば下水道の下流のような契約を逆手に取って世界に出てゆく最強の希望の旗ディアスポラ世界民族ができる。
<最大多数の最大幸福>という美しく書きなおされた巧妙な収奪を前提とした自由な競争(本当は収奪の自由を、幸福という一方的に押しつけた前提を美名に競うというスローガン)が当たり前の社会で、推譲が育つかどうか。この島のあらゆる物が流されてしまわなければ皇国神代開闢の精神復興は無理かもしれない。
最後に
「予が足を開け 、予が手を開け 、予が書簡を見よ 、予が日記を見よ 。戦々競競深淵に臨むが如く 、薄氷を踏むが如し 」
いつものように、そうだったのかと思うところから引用。
『尊徳 (徳を尊ぶ )というのは金次郎の号だ 。名づけたのは藩主の大久保忠真である 。大久保はその後江戸城に招かれ老中筆頭 (総理大臣 )になる 。大坂城代を務めていた頃には大塩平八郎を発見している 。民のために身を粉にする大塩の態度に大久保は感動した 。 (大坂町奉行所に置くのは惜しい 。江戸城に戻ったら幕府で使ってみたい )と考えたフシがある 。密かに大塩にもそれが伝えられたと思う 。大塩は期待した 。しかし大塩が中央へ出る前に 、肝心の大久保の方が先に死んでしまって 、この話は流れた 。大久保忠真は 、常に 「社会を良くする人材の発見 」に努めていた 。』
藩財政の立て直しを金次郎(尊徳)は固辞したが。
『受け入れられなかった 。それは藩主の大久保忠真が 、この問題に異常な関心を抱いていたからである 。忠真は天明一 (一七八一 )年生まれの徳川譜代の大名だ 。大久保家はいわゆる三河以来の徳川家の譜代で 、特に先祖の忠隣は 、いろいろと話題のあった人物である 。家康は大久保家を重視し 、江戸城への関門にあたる小田原城に配置した 。途中で城主は阿部 ・稲葉に代わったが 、貞享年間に復帰し 、忠真はその後期大久保氏の七代目である 。』
『文政四 (一八二一 )年八月一日 、三十五歳になった金次郎は前に書いた下野桜町の宇津家の領地の実態調査に赴いている 。これは突然の話ではなく 、かなり前からの大久保忠真の要望だったが 、金次郎はその度に断わってきた 。しかし大久保忠真の熱意に負けて 、 「復興まではお引き受けいたしかねますが 、実態調査だけはいたしましょう 」と妥協して出発したものである 。したがってこの時は内密の調査であって 、大久保忠真とのあ ・うんの呼吸は整っていたが 、だからといって金次郎自身 、 「この調査を皮切りに桜町宇津家の財政再建の仕法を引き受ける 」という考えは全くなかった 。というのは 、現在では依然として家老服部家の財政再建に関わっていたからである 。しかしこの時の調査結果に付した意見書の中に金次郎は 、
「桜町宇津家の財政困難も 、皇国神代開闢の心を以て当たれば復興は疑いありません 」
と意見を添えている 。皇国神代開闢というのは 、日本の国のはじまりのことをいうが 、金次郎にすれば誇張でもなければ大袈裟な表現でもなかった 。』
『金次郎の場合は 、全体的なある計画を立ててその一部として 、 「一地域の復興 」を考えているわけではない 。与えられた" 一地域の復興 "がすなわち "全体"なのだ 。 だから 、 「全体の一部として復興を成功させ 、その成功によって全体に臨んでいく 」という態度ははじめから持っていない 。あくまでも 、今度の例でいえば下野国桜町の宇津分家の復興が 、この時の金次郎の全仕事であったのである。』
『二宮金次郎の他人に対する感化力は素晴らしい 。これは日本人の特性である 、 「何をやっているかではなく 、誰がやっているかだ 」という 、 「内容ではなく 、行う人間に対する印象や評価 」の方が 、モチベ ーション (動機付け )の大きな力になるということの好例だ 。』
人材を見いだす能力というのが、単なる登用ではないことがわかる。
大久保忠真のプロモーションなくして二宮金次郎なし。二宮尊徳の偉業を知るのも重要だなあと思ったが、このような出会いは時代の必然であることを鳥の目で時代を俯瞰して見ておくべきだろう。江戸時代と言っても一様に人心が安定していたわけではなく、1821年には道徳的秩序が荒廃していた。今と同じで、江戸で流行ったものは地方でも人気となる。文化文政の末期的風俗は「飲む打つ買う」を小規模に地方に拡散させ武士から農民まで貨幣経済に飲み込まれていた。当然ケツ持ち家業が裏街道に無宿人を集めて繁茂し始める。
このころの修身斉家治国平天下とはお題目で、上から下まで修身の入り口から崩れ落ちていた。社会に大きな危機が訪れる時は、目に見えないものから崩れてゆくものなのだ。
童門冬二は震災復興とは何かということを冒頭に置きながら、今一度時代を超えた尊徳の経済思想を日本人の血肉にするべきという思いで書いているのがよく分かる。今はどうだろうか、歴史を辿ると、アベノミクス緩和は田沼政治に似ている。たぶんこれから一時的に経済は活気を示すだろう。それもいい時代は2023年位まで、2030年を超えると国の中に普通の人が近づけないほど危険なエスニック・グループがあちこちに繁茂するだろう。彼らは今緩和しようとしている労働移民の連れ子2世たちの無職世代と生活水準の低い日本人達だ。かつて再生モデルであった<修身斉家治国平天下>はひとつながりの民族だからできる偉業。しかも世界の人口は今より15億人も増えている。
パッチワークの国民では不公平を民族として国威校正(国のために推譲)することができなくなる。もはや国民純度は低く、皇国神代開闢の精神へ戻ることができなくなる。
おそらく2070年台にはそのような日本に対しては国際的圧力で所得移転を強制され、自国のことを自国で決められない国民国家の司法権の空洞化が完成している。
グローバル契約条項が国内法より優位な奴隷社会、強奪社会できあがるだろう。日本の制度的滅亡に続く、民族的滅亡である。
安倍晋三は田沼意次のように今日の歴史的成果を貶められ、一部の国民には最後の抵抗の象徴になるかもしれないが、いずれ国民に忘れられる、日本はもう無いのだから。それまでに関東の震災がなければよいのだが。。
この不幸な危機は避けられないが、影響を最小限に食い止めるには、移民も含めた国民登録制度+義務的な兵役および医療訓練をともなう徴兵制、及び予備役登録という人工的所得分配制度を作っておくことだ。そうしておけば下水道の下流のような契約を逆手に取って世界に出てゆく最強の希望の旗ディアスポラ世界民族ができる。
<最大多数の最大幸福>という美しく書きなおされた巧妙な収奪を前提とした自由な競争(本当は収奪の自由を、幸福という一方的に押しつけた前提を美名に競うというスローガン)が当たり前の社会で、推譲が育つかどうか。この島のあらゆる物が流されてしまわなければ皇国神代開闢の精神復興は無理かもしれない。
最後に
「予が足を開け 、予が手を開け 、予が書簡を見よ 、予が日記を見よ 。戦々競競深淵に臨むが如く 、薄氷を踏むが如し 」