公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

花三態

2012-12-29 22:35:00 | 今読んでる本
富貴名誉、自道徳来者、如山林中花、自是舒徐繁衍、
自功業来者、如盆檻中花、便有遷徙廃興、
若以権力得者、如瓶鉢中花、其根不植、其萎可立而待矣


富貴名誉の、道徳より来たるは、山林中の花のごとし、おのずから舒徐繁衍(じょじょはんえん)す、
功業より来たるは、盆檻(ぼんかん)中の花のごとし、すなわち遷徙廃興(せんしはいこう)あり、
もし権力をもって得るは、瓶鉢(へいよう)中の花のごとし、その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし

                 菜根譚
道徳人格によって得た名誉や富貴(地位)は野山の花 自ずからのびのびと育つ 舒徐繁衍(じょじょはんえん)
功績によって得た名誉や地位は鉢植えの花 主人の都合で植え替えたりすてられたり 遷徙廃興(せんしはいこう)
権力に取り行って得たものならば、いわば花瓶の花 みるみる枯れる 萎可立而待矣

 私の見方は菜根譚の編者洪自誠とはやや異なる。

 切花も生命の本質がその人格、事業に備わってあれば、花瓶の花にも根が生えて、都合で打ち捨てられてもそこに根を張り、周辺を潤して種種(くさぐさ)を繁茂させるならば、たとえ瓶鉢中花(へいようのはな)であったとしても、自ずから伸びてゆくことだろう。舒徐繁衍(じょじょはんえん)する根拠は、生命の利他性に素がある

 人格の陶冶、事業の発展のチャンスはいろいろな形でやってくる。ことをはじめるにあたっては、利他性を外さなければ、その動機に道徳富貴はなくとも良い。命あるかぎり瓶鉢中花(へいようのはな)、盆檻中花(ぼんかんのはな)、山林中花(さんりんのはな)いずれにもなりうる。これを花三態という。

 ただし知るべきは権力者は舒徐繁衍(じょじょはんえん)を恐れ都合で遷徙廃興(せんしはいこう)するということ。だから権力者にとって可愛いのは瓶鉢中花(へいようのはな)だけなのです。

 事業においては、弱いもの、小さいものは苦労しても責任の範囲で先行投資して利他的でなければならない。消費者に支えられ、支持されなければ長続きはしない。長く続く事業には品性がともない、経営者も自然と徳に目覚める。

 政治においても民主党も利他的に振る舞えばもうすこし長続きしたかもしれない。実力も基盤もないくせに権力に擦り寄ろうとすると自ずから利用価値が終わると枯れる。継続するためには周りを潤さなければならない。当たり前のことである。


安岡正篤は
「古今の士に率ね(おおむね)三品有り。上士は名を好まず。中士は名を好む。下士は名をも知らず。下士は名を好むことすら知らない。名などどうでもよい、ただ金さえあればよいというわけです。世の中にはこういう人間がなかなか多い。これを下士という。
 それが少し飯が食えるようになると、名誉・名声が欲しくなる。名刺に名誉職など肩書きを刷り込みたくなる。こういうのが中士。そんなこともばかばかしくなってくると初めて上士であるというのです。
 人間の今後の運命を決するものは、科学や技術ということではない。やはり人間の学問です。人間がいかにあるかということです。その人間の世の中を治めるのに何が一番大事であるか。 」
と述べている。花三態にやや近いことを言っている。人間の学は人間がよく生きて幸福になるための学問である。


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