日本のアウトサイダー (中公文庫)
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中原中也については彼のカトリシズムも性癖も理解できない文章だったが、萩原朔太郎については気の乗らない文章ながら論理は理解できそうだった。大正期という特殊な時代、日本人が何やら独自の文学を編み出そうとしていた時代が理解できないと萩原朔太郎のアウトサイダーは理解できない難しさがあるが、大雑把に日本は明治維新で文明を破壊し尽くして、よって立つ文明を失ってしまった。この前提がわからなければ、明治大正の文学者や詩人の悩みも理解できない。萩原朔太郎は前橋に1886年、明治19年に生まれた裕福な育ちである。明治20年代から30年代に若者が何を吸収できるかといえば、日清日露戦争の時代のただ近代一等国になるという国是の国際トーナメント戦がずっと続いていた時代、何か忘れているような、近代化の何を吸収したら良いのか文学の世界には全く指標のない時代であった。何なら創るしかないという気概で果たして文明は可能だったのかというと、それはかなり無理なことをしていた。彼ら、明治20年前後に生まれた世代は、江戸の文明から隔離され、歴史的社会を旧弊と蔑んでいた特殊な時代であり、その孤児のような青春は、戦後のわれわれの団塊の世代に相当する、根のない文明観が何もかも欧米を吸収しながら、アイデンティティを、民主主義から社会主義、社会主義から個人主義、個人主義から経済主義、経済主義から盆栽的幸福追求へと少しずつずらして消費生活を肥大化していた戦後時代という非文明の習慣化に似ている。最後にこう書かれている。
「今ないものを生むために、今あるあらゆるものから義絶することが、大正期のアウトサイダーの性格であった。しかもそのために自分が今在る所のものに対する不在証明を、しばしば贋造したのである。」
ダンディズムという虚構(よって立つ文明のないものが、あたかも在るかのように)を以て、ダンディズムの滅びの美学だけを詩にするような、文明なき第一世代の悲劇が一等国になったというプライドとの裏腹に無内容に複雑に入り組ませ、自然主義、古典主義、デカダン主義、浪漫主義を拒絶するポーズがダダイズムだったように。形を追いながらあらゆるものに不義理を重ねる文学行動がこの時代の特徴かも知れない。
1920年(大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイスム一面観」が掲載される[3]。高橋新吉が1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[4]。1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊。[5]。翌年1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋が詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)を発表する(辻が編集した)。「DADAは一切を断言し否定する」で始まる[6]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らがMAVOを結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助、橋本健吉、野川隆らによって創刊される。日本では1922年(大正11年)から1926年(大正15年)がダダ運動のピークとなった。ダダイスムは以降も、中原中也、坂口安吾、宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた[7]。