『ハーバーマスの公共性という概念は原則としてヨ ーロッパを舞台として展開された歴史をふまえて構成されている 。したがってその概念をそのまま別の展開を示した国に適用することには本来無理があることはいうまでもない 。しかしヨ ーロッパやハ ーバ ーマスを離れて考えれば 、何らかの形で公共性という観念を多少とも持たない歴史は存在し得ないこともまた明らかであろう。』
公共性と世間は、似ているようで大いに違う。阿部謹也がそれを何処まで結晶にしたか。
ここで導入している『ハーバーマス』の言う公的自律とは、これら公共と世間の上位概念と考えれば良い。
仮に上位概念の定義どおり討議可能性という前提が、教養であるならば、明示的公共〈顕〉に対しても、それほど明示的でない世間〈冥〉に対しても教養は結合しうる。
そういう前提にもかかわらず公的に自律的であるがゆえに、金科玉条で動かしがたいシンボル、記号、討議可能性の否定へと発展するものが公共的自律とはなんという皮肉だろう。
<ヘイトスピーチ>とか、<政治とカネ>とかお決まりの記号化を自律的で公的な価値と錯覚している。もし自律的と思っている、どれほど良心的なマスコミ的教養
(私はマスコミを権力者と結びつく狙いを持って、世間コンテンツ供給の代理店と化した一種の近代教養主義の残滓と捉えています。だから左翼が棲息しやすい。残滓=残りカス)
が実は無自覚な排他本能に由来する<古い世間>の新たな変形にすぎなかったとしたら、教養とは大いなる幻想であり、怠惰に耽溺する精神の阿片だろう。討議可能性のない教養は世間の自律理由と同じである。
『サガはすでに述べたように国家が形成される以前の社会の出来事を描いている 。自力救済は国家がない社会における秩序の基本となっていた 。したがって自力救済の義務は当然復讐の義務となり 、それはきわめて冷静に遂行されなければならなかったのである 。愛憎や侮辱されたという意識 、正義の感情とさえ無関係に実行されねばならない義務だったのである 。「この理由から 、復讐の義務のための殺人は 、近代的な意味での復讐とはまったく別物であった 」 。』
どの時代も有力権力者と結びついた世間は、事実上の日常の強制力を持っている。教養とは本来、個人と知識の独立を前提にこの日常的な強制力に対抗する力である。それを討議可能性と言ってもいい。しかし教養と結びついた世間は思いもよらない合金を社会に産む。ナチズムや啓蒙主義がそれです。近年支配のために創られた2値化啓蒙主義はその最たるものです。
もしもサガのような原始的な世間に教養という歴史飛躍仮定があったならば、ナチズムともイスラム国とも見分けのつかない残虐な復讐社会が生まれたことだろう。
時に教養は既存の権力者から世間を奪う力になる(しかし例は少ない)。しかし批判できない教養はだたの現状肯定の道具、世間の自律にすぎない。たしかに純粋な言葉の意味では抽象的に、若者の<いかに生きるか>という真摯な教養主義であっても、世間との関係を無視しては教養や啓蒙は無力である。
若者き者らが世間から超然としてその世間に対して討議の種を蒔かなければ、教養は何の力にもならないただの物知りに過ぎない。理屈を言うなと世間に跳ね返されても信じるところを実行するのが若き者達である。年齢ではない。この國に若さが失われているのではない。討議可能性を持つリアル世間=リアル社交場が失われているのだ。
『ここでは詳述できないがこの教養市民層がナチズムの受容に当たって大きな支えとなったことも指摘しておかなければならない 。教養市民層の一人一人は天下国家を論ずる中で自己の教養を完全なものとして意識していたが 、それはごく一部の有産階層の子弟の自己満足に過ぎなかったのである 。』
公共性と世間は、似ているようで大いに違う。阿部謹也がそれを何処まで結晶にしたか。
ここで導入している『ハーバーマス』の言う公的自律とは、これら公共と世間の上位概念と考えれば良い。
仮に上位概念の定義どおり討議可能性という前提が、教養であるならば、明示的公共〈顕〉に対しても、それほど明示的でない世間〈冥〉に対しても教養は結合しうる。
そういう前提にもかかわらず公的に自律的であるがゆえに、金科玉条で動かしがたいシンボル、記号、討議可能性の否定へと発展するものが公共的自律とはなんという皮肉だろう。
<ヘイトスピーチ>とか、<政治とカネ>とかお決まりの記号化を自律的で公的な価値と錯覚している。もし自律的と思っている、どれほど良心的なマスコミ的教養
(私はマスコミを権力者と結びつく狙いを持って、世間コンテンツ供給の代理店と化した一種の近代教養主義の残滓と捉えています。だから左翼が棲息しやすい。残滓=残りカス)
が実は無自覚な排他本能に由来する<古い世間>の新たな変形にすぎなかったとしたら、教養とは大いなる幻想であり、怠惰に耽溺する精神の阿片だろう。討議可能性のない教養は世間の自律理由と同じである。
『サガはすでに述べたように国家が形成される以前の社会の出来事を描いている 。自力救済は国家がない社会における秩序の基本となっていた 。したがって自力救済の義務は当然復讐の義務となり 、それはきわめて冷静に遂行されなければならなかったのである 。愛憎や侮辱されたという意識 、正義の感情とさえ無関係に実行されねばならない義務だったのである 。「この理由から 、復讐の義務のための殺人は 、近代的な意味での復讐とはまったく別物であった 」 。』
どの時代も有力権力者と結びついた世間は、事実上の日常の強制力を持っている。教養とは本来、個人と知識の独立を前提にこの日常的な強制力に対抗する力である。それを討議可能性と言ってもいい。しかし教養と結びついた世間は思いもよらない合金を社会に産む。ナチズムや啓蒙主義がそれです。近年支配のために創られた2値化啓蒙主義はその最たるものです。
もしもサガのような原始的な世間に教養という歴史飛躍仮定があったならば、ナチズムともイスラム国とも見分けのつかない残虐な復讐社会が生まれたことだろう。
時に教養は既存の権力者から世間を奪う力になる(しかし例は少ない)。しかし批判できない教養はだたの現状肯定の道具、世間の自律にすぎない。たしかに純粋な言葉の意味では抽象的に、若者の<いかに生きるか>という真摯な教養主義であっても、世間との関係を無視しては教養や啓蒙は無力である。
若者き者らが世間から超然としてその世間に対して討議の種を蒔かなければ、教養は何の力にもならないただの物知りに過ぎない。理屈を言うなと世間に跳ね返されても信じるところを実行するのが若き者達である。年齢ではない。この國に若さが失われているのではない。討議可能性を持つリアル世間=リアル社交場が失われているのだ。
『ここでは詳述できないがこの教養市民層がナチズムの受容に当たって大きな支えとなったことも指摘しておかなければならない 。教養市民層の一人一人は天下国家を論ずる中で自己の教養を完全なものとして意識していたが 、それはごく一部の有産階層の子弟の自己満足に過ぎなかったのである 。』