公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

釧路の雨 離農3

2021-10-23 19:06:26 | 日記

北海道釧路市の日本製紙釧路工場(旧十条製紙)の紙生産が8月16日、終了した。日本製紙は昨年11月、同工場の紙・パルプ事業の撤退を発表していた。今後は設備の整理などを行い、9月末までに閉場する。10月には継続していく発電事業の新会社を設立する予定だ。1920(大正9)年創業の同工場は漁業や石炭と共に釧路を支えてきた。広い跡地の利用方法は決まっておらず、地域に与える影響は大きい。

 同社によると、同工場で紙を生産する抄紙機2台は16日、午前8時と同10時に停機したという。同社は工場内の安全確保などの理由から、工場内の取材には応じなかった。

 西口恭彦工場長は書面で「紙パルプ事業の収益に陰りが見え始めて以降、経営環境は悪化の一途をたどり、施策を全て講じて生産継続に努めたものの、今回の決断に至りました。10月以降は主に発電事業を運営の柱として再出発します」などのコメントを出した。

歴史
釧路市は「釧路市統合年表」を作成
江戸時代
1600年代(寛永年間):松前藩によりクスリ(クシュリ、久寿里)場所が置かれる[6]。
1799年(寛政11年)頃:釧路の厳島神社が創祀。
江戸幕府が東蝦夷地を直轄したのが契機という説あり。
明治
1869年(明治2年):「クスリ」から「釧路」に改称。
1880年(明治13年):戸長役場が置かれる。
1891年(明治24年):鳥取神社が創祀。
1897年(明治30年):安田炭鉱開坑する。
1900年(明治33年)7月10日:一級町村制が施行され、釧路町となる。
1901年(明治34年):前田製紙竣工 北海道初の製紙パルプ工場が稼働する。
1906年(明治39年):丸三鶴屋の前身となる丸三越後屋呉服店が開店。
1908年(明治41年):石川啄木(詩人)が編集長待遇で釧路新聞社(現・北海道新聞社)勤務のため来訪。76日間滞在する。
1909年(明治42年):電話開通。電気も使用可能になる。
大正
1912年(大正元年)8月:北海道庁立釧路中学校(のちの北海道釧路湖陵高等学校)が開校。
1917年(大正6年):釧路駅駅舎を現在地に移転。旧釧路駅を貨物列車専用の浜釧路駅とする。
1919年(大正8年)8月:北海道庁立高等女学校(のちの釧路江南高校)が開校。
1920年(大正9年)7月1日:北海道区制が施行され、釧路区となる。市章を制定する。現在の釧路町域の一部を釧路村として分村[20]。
1920年(大正9年):木村組炭礦と三井釧路炭礦の合併により太平洋炭礦設立。
1922年(大正11年)8月1日:市制が施行され、釧路市になる。
昭和(終戦まで)
1927年(昭和2年) - 水道を敷設し給水開始。
1935年(昭和10年) - タンチョウが国の天然記念物に指定される。春採台地竪穴群・モシリヤチャシ跡・鶴ヶ岱チャランケチャシ跡が国の史蹟となる。
1936年(昭和11年)10月3日 - 暴風雨により大通り(ママ)七丁目付近の崖が崩壊。直下の民家2軒を直撃して7人が死亡[21]。
1945年(昭和20年)7月14日 - 15日:米軍による釧路空襲で192名死亡、焼失倒壊家屋1,618戸、罹災者6,211名、負傷者273名。都心部が焼け野原となる。壊滅的な被害を受けた栄町地区は戦後一部を公園化する。停戦後、スターリンがトルーマンに「留萌と釧路を結ぶ線以北にソヴィエト赤軍を進駐させる」という提案をしたが、トルーマンは拒否した。
昭和(戦後)
1949年(昭和24年)
この年:北海道学芸大学釧路分校(現在の北海道教育大学釧路校)が開校。
10月10日:鳥取町および白糠村の一部を編入。
1952年(昭和27年)3月4日:十勝沖地震が発生。
1952年(昭和27年)10月:日本銀行釧路支店が開業。
1954年(昭和29年)8月:太平洋炭礦でガス爆発事故。
1959年(昭和34年)10月:本州製紙(現在の王子製紙)釧路工場が操業開始。
1961年(昭和36年)
7月20日:釧路空港が開港。
8月1日:釧路駅が民衆駅として改築される。
1964年(昭和39年):都市改造事業によりメインストリートである北大通の片側3車線化工事始まる。
1967年(昭和42年)
この年:釧路スポーツセンターを開設。
8月31日:太平洋炭礦でガス爆発事故。
1968年(昭和43年)5月16日:十勝沖地震が発生。
1975年(昭和50年)10月1日:釧路市動物園開園。
1978年(昭和53年)7月1日 - 8月20日:釧路西港埠頭にて北海道こども博覧会開催



気象庁|過去の気象データ検索

10月。この季節の釧路の雨は冷たかった。傘を持つ手が骨まで冷えた。そのせいかリウマチのような熱が出て学校へはいつも行きたくなかった。それ以外、暗く絶望的な雲の下初秋の出来事は何も思い出せないくらい釧路のことは遠い昔のことになりました。2015年、昔のことを病床の母に聞いても、呆けてどこまで本当のことかわからずじまい。

離農はたぶん2〜3歳の頃だろうと思う。その頃日本は新しい消費景気にあふれていたらしい。昭和34年(1959年)にはテレビの家庭普及率は23.6%に達した。

子供社会は今よりずっと単純で即物的で、大人びた金属屑拾いも平気だったというかむしろ廃品や金属の値段を知っているのは当時の子供のたしなみだった。小学高学年の魚用の木箱(今は発泡スチロールのトロ箱だが、当時は大量の木箱が必要だった)打ちアルバイトが2個で1円。もちろん間借り生活の我が家にはテレビなどない。

少し遡るが

私が4〜5歳の頃一時、家族を忘れたかのようにどこか(後にカルルス温泉とわかる)へ働きに行っていた母は、一年以上音信不通のまま、ひょっこり帰ってきて、釧路市新川町の父子暮らしであった木造二階建ての安アパートに帰り着いた。その直後母は父が市外へ長期出張中(出張 嘱託調査員活動の間、私は同じアパートの向かい側の住人で全くのアカの他人の後藤家に末子のように預けられていた)の父に断りなく勝手に荷物をリアカーに乗せ遠縁の親戚の銭湯若松湯の開業をたより、駒場町に引っ越した。出張から帰ったら父には新川町に帰っても家がなかった。

なぜ離農後もっと景気のいい札幌でなく、釧路にしたのかさえもよくわからない。時代も所得もそれほど個人の空間的飛躍を許してはいなかったのだろうと思う。今から思えば金銭的に札幌は釧路から東京ほどに十分に遠く(17時間ほどかかる)、母方の親類や遠縁がすむ釧路に安心感があったのだろう。一家は農業の借金とこの空間に囚われていた。

 

釧路といえば産業は漁業。ニシンこそ取れなくなっていたが夏は昆布秋は鮭漁の漁業は200海里施行前の隆盛期だった。出港となれば関係する地域経済の裾野は広い。世界中の海で魚とり放題時代の景気のいいうちは日本随一の漁業基地釧路も良かった。舗装前の凸凹道にはトラックの荷台から新鮮な鯖が落ちていた。それも昭和50年半ばには200海里規制で地元経済の将来が見えなくなっていた。後にまだ景気の良かった高校時代にかけ替えたばかりの幣舞橋の豪華さが、不況期にはかえって落胆を深めた。

釧路市奨学金は、収入制限がない(裕福な金持ちの子弟でももらえる)制度だったが校長の推薦は裏で担任がこっそり決める仕組みだったので、当然貧乏しか優位性のない自分には返済不要な奨学金を得る機会は回ってこなかった。世間は場末の家族には冷たかった。

時間を戻す。やがて息子が大学に進学するなどとは想像もできないこの貧困空間に囚われた一家は(周りも基本は貧乏人だった)離農後、根無し草借家生活だった。親戚や知人を見回しても大学を出たものなど、教師以外にはいなかった(一人だけ母のいとこがいた)。年配者にはまだ青年学校出

青年学校とは、1935年に公布された青年学校令によって、実業補習学校と青年訓練所とが合併して発足した勤労青年教育機関だ。1926年に発足した青年訓練所の目的は、16歳から徴兵年齢(当初20歳以上であったが、43年に19歳以上、44年に17歳以上に引き下げられた)までの青年に軍事教練を施すことだった。また、1893年に設けられた実業補習学校の目的は、公民教育と職業教育だった。青年学校では、軍事教練、公民教育と職業教育を同時に行った。

で代用教員からの成り上がりの教師から陸軍中野学校出身者エリートまでいた、東京はともかくオリンピックも終わり完全に中央の保守的政治経済が復活していたが、北海道は特に釧路は社会党極左派が政治を握る、水道代タダというまだ社会主義思想が幅を利かすそういう時代だった。


小学生の時、目の前に思い描く将来の職業の憧れは川向こうの大手製紙会社の工場の煙突だった。サラリーマンは製紙会社も炭鉱も国鉄も自衛隊も羨ましいくらい生活が安定していた。川のこっち側の水産加工と開き魚の干場の並ぶ生臭い魚加工の街と比べれば、対照的な文明力香ばしい人工の悪臭がしていた川向こうでさえ、工業は人工的であこがれの対象で、まさにこの写真のように黄金に輝いていた。






その工場も今年10月で閉鎖され、発電所だけが残るらしい。

https://blog.goo.ne.jp/o2009kay/e/071d87b86822abfcefcabde23dcefadd

 

どこでも歩合か嘱託(契約)扱いの親父と違い定期的収入のあるサラリーマンに憧れていた。しかし自分がサラリーマンに向いていない性格とはその頃は知らなかった。


在学中に親がこの土地を離れなければ、釧路市奨学金をもらっていたら、きっと金井漁業(金井漁業 分割会社を清算へ 負債18億円、採算事業は継承)あたりに就職していただろうが、その金井も商社としてはもう廃業して姿がない。


そのような不安定で出口の無い経済空間と縁を切るため、早く脱出するために、忘れるために早くからの飛び出す覚悟は少年の必然で、そういう打ち上げ花火のような自分には故郷を愛した記憶がないのは当り前のこと。

阿寒の山の遠い稜線やカモメやキツネの世代を重ね変わらぬ風景のように変わらない自然を見つめることは出来ても、変わり果てた社会まで目を向けることは出来ない。

自然美の思い出はあるが、本質的に私には貧乏と長ずるにしたがって顔を出してくる世間の冷酷を懐かしむような郷土愛が無い。


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