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書評 『瀬島龍三 参謀の昭和史』 保坂正康

2016-02-16 15:25:51 | 今読んでる本

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『瀬島龍三 参謀の昭和史 』保坂正康著
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保坂正康は瀬島龍三氏(以下歴史上の人物として「瀬島龍三」と記載)をかなり厳しく評価している。私は瀬島龍三はソ連のエージェントでありかつ米国への情報提供の協力者、すなわちある時期まで二重スパイであったと考えているが、まず少し戦時の評価の公平感を取り戻すために、当時のことを再現してみよう。当時226事件後の陸軍参謀本部の太平洋戦争開戦時のリーダーは陸大33~34期であり、44期の瀬島龍三は補佐するスタッフ佐官の立場であったことを確認しておく必要がある。しかし瀬島龍三が表に出る語らない部分、抑留者の労働力補償の裏交渉や、台湾沖海戦の偽戦果を告発した現地参謀堀の報告電文握りつぶし(瀬島自身が告白、後日撤回)など、佐官の活躍の場は著しく広い。
当時の大本営が、将帥権の旗のもとで、つまり上を通し根回しできていれば、佐官クラスが北方も南印度支那も好き放題に方面作戦を作っていたこと、すなわち統合戦略のパッチワークと矛盾は、大東亜戦争を通鑑して見逃せない事実であろう。海戦直前のルーズベルトの親書さえ駐日大使に手交するのを1日握りつぶすことが出来たのだから本来の機関設計からしたならば大本営自体が無政府状態と言ってもいい。誰がこの状態を放置したのか、ここは大いに研究されるべき点であろう。

二重スパイは優秀でなければ長生きできない。その優秀さに役立った瀬島龍三の抜群の記憶力、判断力、文章力、そしてごますりの巧さ。そのような人物像に読める本ではあるが、本質を見るためには、瀬島龍三がものすごく臆病な人間であったことを読み取らなければならない。良く言えば用心深い。これが二重スパイに必要な素質だったのだろう。だから決定的に重要な事は何も言わず、死後将来の名誉を傷つけられないように大著『北方戦備』という私家本を防衛庁戦史室に奉納している。これなんかは北畠親房の神皇正統記を範とする行動だろう。講演で述べる戦争体験も判で押したように同じ内容を繰り返す。しかもいちいちエリートの見本のような自己保身の発言と手を汚さない立ち居振る舞いが秀でている。陸大44期の中には11人も5・15参加者を出し、卒業直前で前途を無にしているが、そのような跳ね上がりとは距離をおいている瀬島龍三は無傷で御前講演の栄誉に浴している。いかにも付き合いにくい感じだが、日常的個人としての瀬島龍三は参謀としても会社員としても非常に評価され、いまもって伊藤忠商事では崇拝さえされている。

伊藤忠商事内での働きも参謀本部とスタンスが同じで前線には出ず(手は汚さない)に大本営参謀総監のように環境をこしらえてしまう。シベリアにおいてもそうであったようだ。少なくとも同じ苦労はしても100分の1くらいの苦労だったろう。瀬島龍三、本当はシベリアにいたのではなくほとんどはモスクワ郊外の日本人将校思想教育学校にいたのだろう。
     * *
私はこの著作を読んで、改めてエリート教育の難しさを感じました。おそらく別な形で我が国が追い詰められた時、高級官吏は同じように選別され同じように自己都合で事実を歪め、同じように亡国の道を進み、同じように生き延びて言い訳の歴史を書くことでしょう。重要なところは、生き延びてという点にあり、唯一大西郷だけが言い訳をしなかった。そのように思うし、どうしたら、万人のエリートを率いる21世紀の大西郷を輩出することができるだろうかと言う答えのない設問と考えに深く囚われてしまいました。

この設問は魂の鍛錬の問題であって、手習いや教育の高度化の延長ではないのです。瀬島龍三は確かに優秀ではあったが死地にあっても魂のない人間、己の死を己の選択の一部と出来なかった人間というのが私の評価です。魂の鍛錬によって死を己の選択の一部とする心の所作で自由になる教育ができれたならば、千の生徒に一粒、万人を率いるダイヤモンドを輩出できるかもしれない。

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