公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

エデンの園の東 聖書より

2016-02-16 08:49:00 | 今読んでる本

「科学の方法はまた宗教の方法である」

説明]

1928年(昭和三年)六月二日
午前十一時、東京在住の同時の受洗者、新渡戸稲造、広井勇と自分と三人、之に加うるに我等の兄分なる伊藤一隆、大嶋正健の両君を加え総て五人雨を冒して青山墓地に会し(次頁につづく)
伊藤一隆 大島正健 新渡戸稲造(左から3) 広井勇(左から2) 内村鑑三(左端)


 「人は宗教と科学との衝突をいう、けれども私はいまだそうであると認めることができない。宗教は霊界の科学的考究の結果ということができるであろうし、科学は物界の宗教的観察ということもできるであろう。我々は宗教を攻究するに科学的方法を応用するを恐れないのみならず、普通の科学的常識にかなわない宗教的思想は棄却して採用せず、またこれに対して科学的研究法に宗教的精神の用なしと信ずる者は、いまだ科学宗教を両方とも解していないものといわざるをえない。それは真率な心、謙遜の心、すべてのものに優って真理を愛する心は、宗教においても科学においても最終最始に必要であるからである。

故にいわゆる宗教と科学との衝突なるものは、両者の研究物の差異より来たものといわざるをえない。同一の精神と同一の研究法とをもって、霊界を観察して宗教あり、物界を観察して科学あり、天文学と地質学と衝突あるのではなく、ただ天と地との差あるのみ、宗教と科学との別もまたこの類である。」

「科学は、宗教の補助者であるように、宗教も、また大なる科学の補助者である。科学は宗教に研究の方法を供するように、宗教は科学に研究の精神を供する。いわゆる両者の衝突なるものは、宗教がその方法を科学に強いた時か、または科学がその精神を宗教に適用しようと欲した時に起こったものである。二者各々その天職を守ればその間に衝突があるはずがない。」
内村鑑三 『内村鑑三著作集 第2巻』『宗教と科学』より引用

「ベルグソンが記憶の研究に這入っていった頃、心理学の方でも、意識心理学から無意識心理学への転換が行なわれる機運が来ていた。これはどういう事だったかというと、一と口で言えば、唯物論の上に立った自然科学の方法だけを頼んで人間の心を扱う道は、うまく行かなくなったという事です。心はそれ自体で存在するものではなく、私達の感官によって確かに知る事が出来る物的現象の現れである。 小林秀雄『考えるヒント3』より引用

「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して 、人が造られたその土を耕させられた 。神は人を追い出し 、エデンの園の東に 、ケルビムと 、回る炎のつるぎとを置いて 、命の木の道を守らせられた 。」
 聖書より
人が造られた土を耕す。土は血であり血で土である。神が人の原料である土=血を耕すとは、意図した弱肉強食と共喰いを繰り返すということ。つまり人類の進化に重要な役割を果たす遺伝子重複と点突然変異、結果遺伝子組換えを行ったということだ。このメカニズムは植物も動物も変わらないという事が近年の生物学で確認された。

「ケルビムと 、回る炎のつるぎ」とは、何であるのか今の知識では理解できないが、何らかの結界であることは疑いようがない。
命の樹とは、マドンナがはまっている秘密儀式カバラの生命の樹と同じことを意味する。


万能の有限人格があるという宗教妄想は非論理的神学だが、説明の便宜上、仮に有限の人格として人類の前に現れる神に相当する人格がいたとしよう。

彼はなぜ人間の結界を創造したのか?聖書の文脈からして命の木を護るためであることは明白である。誰から何を護るのか。おそらく絶滅あるいは別の遺伝子系列の種族から、遺伝子系列を護るのだろう。エデンの園の東に追い出す理由は、何なのか?彼の言う人間の罪ということが具体的に何を指すのか。聖書が偽書であったとしても興味深いミステリーだ。しかし引っかかってはいけない。

こういうミステリーは、謎を解くためではなく、謎を創るために生まれたと思われる。人が科学に魅了される如く、神及び神の言葉のミステリーに魅了されるように人間は仕向けられている。

どんなものにも作者がいる。しかも作家は真空から創作できない。そこに信じていることとは関係なく聖書を読み解くヒントと原則がある。

聖書をこのように無神的に読むのは極度の異端論だろう。しかし極度仮定に耐えられなければ理論は神学といえども完全な真実とは言えない。おそらく聖書の中の原罪とは、智恵の実をアダムとイブが採ったことではなく、そもそもここはエデンの園の東でも、人間の失楽園の原因は罪でさえない。単なる保存、遺伝子系列の検索と破壊を不能とする隔離を行った生物存在の事実だ。神の分散危機管理に従い彼の遺伝子系列の一部を人間環境ヒューマノスフェアに残すという選択以外に合理的理由がない。東とか罪とかはすぐにはわからないことを神秘と謎に包む神の偽装にすぎない。


『主は人の悪が地にはびこり 、すべてその心に思いはかることが 、いつも悪い事ばかりであるのを見られた 。主は地の上に人を造ったのを悔いて 、心を痛め 、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう 。人も獣も 、這うものも 、空の鳥までも 。わたしは 、これらを造ったことを悔いる 」と言われた 。』

これは、ノアが生き残る洪水前の神の悔い。これなどは、遺伝子組換えの失敗例が多数存在したことの告白であり、より安定な種族を選別した後の遺伝子系列開墾の歴史を物語る。

やがて人類も地球が狭くなって、銀河間移動手段を得た時にヒューマノスフェアと同じことをするだろう。そう考えれば、聖書の記載はこの星で起きたことと限る解釈には理由がない。
巨大爬虫類の大量絶滅もヒューマノスフェアのための遺伝子開墾と考えれば、謎ではない。競争生物は除く(除草と同じ)という遺伝子の耕作だ。

自分の本質を他の星に広める手段を考える時、遺伝子の移植を行ない、正しく進化を導いて現在の水準に至らしめると考えるのが一番合理的な、しかも確証と実績のある方法だ。信仰心の無い合理的精神で聖書を見ると、聖書は第二の居住地を創造するマニュアル書であり、復活や昇天のときに再来するのは成就した居住地に設計者が検証に来るというまともなヒューマノスフェアのエンジニアリングのお話。古いというその性質、其れが聖書の唯一貴重な属性である。


『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた 、 「生めよ 、ふえよ 、地に満ちよ 。地のすべての獣 、空のすべての鳥 、地に這うすべてのもの 、海のすべての魚は恐れおののいて 、あなたがたの支配に服し 、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう 。さきに青草をあなたがたに与えたように 、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える 。
しかし肉を 、その命である血のままで 、食べてはならない 。
あなたがたの命の血を流すものには 、わたしは必ず報復するであろう 。いかなる獣にも報復する 。兄弟である人にも 、わたしは人の命のために 、報復するであろう 。人の血を流すものは 、人に血を流される 、神が自分のかたちに人を造られたゆえに 。あなたがたは 、生めよ 、ふえよ 、地に群がり 、地の上にふえよ 」 』

ここの「命の血」というのも遺伝子系列のことだろう。残念ながら神が報復し護るのはわれわれの個々の命ではない。地上に増える遺伝子系列の命を護る、其れが聖書の言葉の真意だ。しかもこの地上にて護るのではなく、はるか彼方の結界を守ると言っている。推定するに、神という人格がマニュアルを授ける際に嫌っていると思われるのは、秘密の漏洩、異種遺伝子系列の交雑、つまり違う銀河の生命による遺伝子干渉であろう。

彼らが後に(たぶんヒューマノスフェア設置のかなり後の検証の後に)人間に聖書を残した理由は、やがて我々も惑星の限界を超えて外の宇宙にゆく計画があるということを推察させるためなのだ。そのとき人類は「ケルビムと 、回る炎のつるぎ」が何であるのか目にすることだろう。人間主義者にとってはあまり気分の良い歴史ではないがこういう聖書の読み方も出来るという一例を示した。テキストは解釈可能な読者の存在を前提とし、かつその結果として存在している。

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