形式上寛文4年1664年4月5日付けで、家綱(松平信綱、井伊直孝、阿部忠秋、酒井忠勝、体制)は219家の諸大名に一斉に発給した寛文印知によって主従所領安堵体制が確立、安定したかのように見えていた江戸幕府体制だったが、日本には独自の周期があって権力者の思うままにはならない。
1707年~1717年 やがて日本の第三陰極に突入する。直轄鉱山収入の激減 幕府財政制度の危機正徳金銀への改鋳によるデフレ緊縮財政 享保(1716年から1736年)の改革 上米収奪の強化 出費緊縮の上 検見から定免に転換という1743年以降年貢増徴で180万2000石以上の税収により江戸時代の最高を記録し一息つくまで財政困難が慢性化する。この時代期に至るまで、あまり意識されていないが国家存亡危機に追い込まれていた。
文化面では天下国家も危機をよそに江戸庶民は赤穂事件と初代市川團十郎(1660年から1704年)の舞台上刺殺に驚いた時代、それでも通常はいい時代と描かれる元禄時代だった。この時代期になると幕府が財政危機に陥ってしまう 。この危機を乗り越えた知恵者が 、勘定奉行の荻原重秀 で(万治元年1658年〜正徳3年1718年)彼の前時代期金座歩合の見送り再具申による貨幣改鋳が財政特効する。荻原は小判の金含有量を減らし元禄の改鋳元禄小判の品位は慶長小判の84.29%とくらべ57.36%と金含有が減少、実質的な貨幣量を 1 ・ 5倍に拡大した 。ところがこのリフレ改鋳は元禄の悪貨と言われ、正徳金銀正徳4年(1714年)に発行した金貨と銀貨では 元禄時代の悪貨を是正するため金貨は小判と一分判金、銀貨は丁銀と豆板銀とした。
荻生徂徠の晩年は危機の真っ只中だった。元禄赤穂事件 《 元禄14年3月14日(1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、吉良上野介刃傷 元禄15年12月14日(1703年1月31日未明) 赤穂の浪人によって殺害 》によって権威の混乱が生じたことをきっかけに幕府の財力と権威によって専制統治できなくなる。
室鳩巣、浅見絅斎、三宅尚斎らは浪士は義士という考え方を、佐藤直方(佐藤直方は山崎闇斎門下の三傑と呼ばれた朱子学者で、厳格な学風)、荻生徂徠などは狼藉者の見解を主張した。このように価値観が大きく割れていた。また殉死(追い腹)もすでに禁止または廃れた時代とみてよい。
由井正雪による慶安の変《 慶安4年(1651年)》戸次庄左衛門による承応の変《 慶安5年9月13日(1652年10月15日)》の危機の後始末が終わり、寛文印知後に荻生徂徠は生まれているが、慶安・承応の変を以下のようにみている。
「政談」享保12年(1727年)頃成立。 幕政の危機に際し、その問題点と対策を論じ、参勤交代の廃止、武士と町人・百姓との分限に即した諸制度の確立、銭貨の大量鋳造、人材の登用などを幕府要人の諮問に答える形式で説く。 将軍徳川吉宗に呈上したものと伝える。より
浪人人口流入の放置が秩序を乱す。それまで存在しなかった都市問題、テロの容易な社会が浮上している。現代日本と相似形の危機を迎えており、荻生徂徠の献策、法の整備と通貨供給は非常に参考になる。荻生徂徠「政談」の中には現代に通じる献策もある。例えば江戸には医者が多すぎるので田舎に移すことというのが面白い。江戸の医者は中毒が起きて評判が落ちるのを恐れて無難な薬で病に取り組もうとしていない。江戸時代と現代は全く変わっていない。
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反「近代」の思想: 荻生徂徠と現代
荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。寛文6年(1666年)館林藩主時代の徳川綱吉に仕える医師方庵の二男として、江戸二番町に生まれた。延宝7年(1679年)徂徠14歳の時、父方庵は綱吉の怒りにふれ江戸を追放され、家族とともに母の実家のある茂原の地に移り住んだ。林羅山「大学解」などの漢籍を学び、元禄3年(1690年)父方庵が赦免されたのを機に、徂徠は25歳で江戸に父と共に戻った。
『荻生徂徠「政談」』(尾藤正英)吉宗の下で政務の機密事項にかかわる「隠密御用」を仰付けられ、政務の具申をなし、『政談』を献上。
執政の臣は言語・容貌を謹み、下へ向き慮外をいわず、無礼なる事のなきを第一とすべし。聖賢の深き戒也。疎そかに心得るべからず。俗了簡には、才智さえあらば、言語・容貌は構わでも苦しかるまじきと思えども、さにはあらず。執政の臣は外の役儀とは替り、古の大臣の職也。「赫々たる師尹(しいん)、民ともに爾(なんじ)をみる」といえる『詩経』の文を、『大学』にも引きたるにて、聖賢の道には甚だ重き事にいえり。執政の臣は重き職分なれば、その人の詞・行作をば、下よりは万人常に心を付けて見る事なる故、一言一事をも世上にて評判し、遠国までも伝え聞きて、天下に隠れなし。されば御役を重んじて、上の御為を大切に思入れたらんは、言語・容貌に心をつけ、慎まずして叶わざる事也。
元禄の比までいずれもこの嗜(たしなみ)ありて、言語・容貌も見事なりしに、正徳の比よりこの風衰えて、今は重々しき身持の人なしと承る。その事の起り、不学なる人の了簡はまわり遠なる事を嫌い、近道に御用を弁ぜんとし、殊に才智のある人は、その才智を働かさんとするより、容貌・言語の慎み崩るる事也。されども執政の職は己の才智を働かさず、下の才智を取用いて、下をそだて、御用に立つ者の多く出るようにする事、職分の第一なり。己が才智を働かす事は有司の職にて、執政などの職分には非ず。何ほど才智を働かせたりとも、下の才智を用いざる時は、己が才智ばかりにてたる事に非ず。然るを手前の才智を働く事、執政の臣の上にはかえっ職分の筋に違いて、畢竟不忠になる事を知らぬは、不学の過(あやまち)なり。