「自由な社会は、人間というものが、基本的に完全ならざる存在、完全たりえぬ存在であって、しかも完全ならざるがゆえに責任を伴う存在であるとの認識によってはじめて可能になる。」
ドラッカー 『産業人の未来』
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よい社会の結果解釈がドラッカーの言う責任かもしれない。
しかし、ドラッカーが思い描くような自由な社会がもし存在するとしたら、責任ということを非常に合理的に教育できる社会だろう。しかしながら公教育は責任を合理的に教育することに恒に失敗している。公教育はそれ自身が社会帰属強制(矯正でもある)の一つのやり方であり、帰属すべきカテゴリーの完全性を前提とする教育を施すことを公共の使命としている。 それが故に、公教育にとってドラッカーの思い描く自由な社会は、破壊的な社会である。
そもそも考え方の手順として公教育では、社会に対する帰属のしかたに、あるカテゴリーを描きおいて、そのカテゴリーに属するが故に、帰属する責任が対応して発生すると教育する。
ドラッカーやわれわれ自由発展主義者の考えのように、人間の社会は完全ではないということから責任を紐解いて教えてしまうと、学校自身に対する疑問が生じる。なぜなら学校は公教育を通じた社会帰属の強制装置を原点としているからだ。
生徒にとって学校は監獄であり、裁判所であり、警察であり、家庭である。学校自身は自由に移動させることが出来ない。生徒を獲得するために競争することもない。従って、ほとんどの学校関係者が善良な奉仕者であるにもかかわらず、もっとも偽善的な腐敗は学校に多く、一部の不祥事以外は露見せずに転がっている。
従って責任の本質を教育する自由な社会を望むのなら、公教育は終わらせなければならない。教師の生産性を測定し、公開し、生徒が教師を選ぶシステムに変わらなければ、自由な社会の責任の本質を教えることは永遠に実現しない。
公教育は過去の産物の代表に過ぎないが、責任を不完全性を根拠に体系的に教育する事に成功したときには、もっと社会はよくなっていることだろう。
学校とは異なり、会社は責任と価値の体系で動いている。しかし合理的責任というものに基づいて個々人が合理的に献身しているかどうかは疑わしい。なぜ他人のせいに出来ない責任が個々人に発生するか、それは自由と発展を求めるからだ。自由と発展の限りにおいて全責任を受け入れる献身が成立する。
学校は賢い者から教えをいただくことを当然としているが、時に自由と発展の刺激にならない賢さを含んでいる、学校の賢さは既存の権威と定説に逃げ回る賢さであって、自ら責任を受け入れる賢さではない。
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「アホから教わるのがほんまの賢や」 森 毅
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