「明治初期、福沢諭吉は「帝室論」の冒頭「帝室は政治社外のものなり」と述べた。皇室は政治の世界の外にある、との意味だ。また「日本人民の精神を収攬(しゅうらん)するの中心」とも記す。
福沢の述べた理想の皇室像や国民との関係は、象徴天皇制の下で実現し、すでに70年を超える歴史を経た。世界に誇るべき「伝統」となったと言える。
戦後、昭和天皇や現在の天皇陛下の折に触れてのお言葉に、多くの国民が遭難や被災を慰められ、励まされてきた。有識者会議のメンバーには、歴史の評価に耐えうる、禍根を残さぬ議論を望みたい。」日経社説
福沢の述べた理想の皇室像や国民との関係は、象徴天皇制の下で実現し、すでに70年を超える歴史を経た。世界に誇るべき「伝統」となったと言える。
戦後、昭和天皇や現在の天皇陛下の折に触れてのお言葉に、多くの国民が遭難や被災を慰められ、励まされてきた。有識者会議のメンバーには、歴史の評価に耐えうる、禍根を残さぬ議論を望みたい。」日経社説
生前退位の啓く地平は、皇位の義務遂行の空白を埋めるという表向きよりも、天皇となる皇太子の決意を見届けたいと考えた今上陛下の思召しにある。
福澤諭吉の帝室論を持ち出すまでもなく、皇室並びに帝室の連枝は、人倫の頂点であり中心を引き受ける御身内であるがゆえに政治社の関わる余地ない司祭継承、即ち、御身自身が触れることのできない神聖を受け止める現世の器である。皇太子よ忘れるな(天皇が神聖なのではない、神が神聖なのだよ)
ましてや日経社説の書くような戦後憲法の象徴天皇70年が福澤帝室論の実現であるなどとは見当違いも甚だしい。あたかも逆立ちした上に飲食を逆流させて微笑むが如き倒錯と無知、付け焼き刃の知識の福澤の権威をよすがにした無知のペンの焼き直しである。
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