出版社 芙蓉書房
発売日 1982/1/1
大川周明の国家改造計画は三月事件の十三年前、ロシア革命の翌年のシベリア出兵の頃からのものであり、時代の空気が高いところから流れてきていることがよくわかる。事実徳川義親は三十万円の資金を与えている。皇居内に拠点を与えられていた大川周明は震災の直前まで御文庫を拠点としていた。時が降って十数年後には三月事件という未遂クーデターが佐官クラスを中心に企てられるが、二二六クーデター実行段階では大尉中尉クラスの企てへと変化する。これが昭和維新と言われる首領のない叛乱の特徴。
橋本欣五郎が文書を残していた(正確には内田キヌ:戸籍上は絹子:が書写していた)おかげで、宇垣大臣が野心を抱きながら最後に腰を上げなかった理由が少し理解できる。国家改造とは言っても何をどう変えるかは、非政党の人による君側の奸を除く、すべて計画が否定形であり、国家運営の芯が通っていない。大川周明の主張は抽象の世界にあって実体論的手順がない。
オリジナリティは生命を燃やして生まれる。ここに書かれている昭和解釈は自分の違和感というオリジナリティの源泉から汲み上げ、様々の記録から批判的に再構成したものである。
思うに、大川周明は国家改造とは言いながら何をどのように改造して国家とするのか、さらには外交面で大東亜の解放の先に既存共産主義はどう位置づけられるのかなど、この統治に関する維新思想の国家像ならびに国家運営の基礎となる最高指導者の曖昧さが原因で、決起から、満州事変、違法な手続きも辞さない既成事実の圧力利用へと安易に流れて行く。違和感は計画の未熟と拙速とは対照的に、ぶれない資金源の流れである。佐官幕僚クラスの関与からいわゆる青年将校 尉官クラスの決起で、下士官以下兵卒の逆境を知らぬ顔ですまそうとしている幕僚クラスの無責任。この陸士世代間の丸投げぶりに第一の違和感を感じる。永田(永田斬殺事件:相沢事件は、1935年(昭和10年)8月12日皇道派青年将校に共感する)殺しの相沢が佐官であるという異様な組み合わせ。もう一つ、真崎甚三郎が満洲事変不拡大という抑制に対して、讒言が天皇の耳に至り、事実かどうかは不明だが、満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から真崎は繰り返し叱責されたというのも昭和天皇の戦中の態度とは整合しない異様である。1933年昭和八年6月、真崎は大将にはなるが軍事参議官という名目だけの閑職に追われる。その罪滅ぼしを意識したのか、昭和天皇は真崎の長男を長く通訳に使っていた。しかし真実は教育総監を暗殺すると言うスキームだけが決まっていて動かし難いから、決行直前に狙っていた渡辺錠太郎に人事決定するための無理な讒言であったと考えれば腑に落ちる。
故にもしかしたらこれら讒言などは全部作り話なのかもしれない。これほど不自然な二二六昭和維新に至るねじれは、われわれは作り話を歴史と思わされている可能性がある。
事実に戻る。補足昭和10年《10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国体明徴声明)。第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。》この憲法解釈についての執着だけは他の主張に比べて具体的であることと真崎の冷や飯に第二の違和感を感じる。ちなみに吉田茂がエドワード・マンデル・ハウス大佐に米国で会うのは国体明徴声明すなわち天皇親政声明の前年昭和九年のことである。君臨すれども統治せずという昭和天皇のスタンスは変わらないが、近衛文麿の夢は別であったようだ。
少なくともこの時期までに、財閥とマスコミは満蒙の取得が国家経済の目標という論調であることは疑いない。同時に邦人保護が軍の進駐に意義があると考えていた点では、現在のイスラエルのエルサレム進駐と同じ構図(オスマントルコ崩壊後の中東と清朝支那国崩壊後の東北部は似てる)が続いていた。参謀本部はその非合法状況を放置していた。熱河を取りに行った時点で関東軍の役割が治安維持ではなくなった。これはイスラエルがゴラン高原を獲ったことに匹敵する。満蒙を守るためには長城を超えることさえタブーでなくなった。戦争のイデオロギーは急速に変遷する。これが権益保護の名分の下にグランドプランのない戦争(満蒙領有の反作用を考慮していない)を始めてしまった日本が見落としていた現場と本部の執行モラルハザードが罠にはまる弱みであった。
ではどうすべきだったか、当事者の意識を分解して公約数を求めれば、1915年対支21個目要求前の状態に戻る、日本は当時の常識である帝国主義を放棄すべきだった。事実、犬養毅首相は外務省を通さない交渉で満洲国を国民党政府の領地として認めた上で、自治政府としての満州国の運営を目指していた。少なくとも1922年昭和七年の5月15日まではその可能性があった。できれば単独での交渉ではなく、英国を同席させるくらいの工夫があって良かったのだろうが、アングロ・アメリカは狙いを太平洋の覇権に定めていたので効果があったかどうか、結局やはり戦争だったかも知れない。
列強や金融強者に伝統的な資産収奪の常套手段は初め勝たせて後に総取りする罠を仕掛ける。罠は二億ドルを貸し付けた時に始まっていた。日露戦争の終盤アングロ➖アメリカは日本の戦争資金を正確に把握していることを杉山茂丸や後藤新平、児玉源太郎に伝えていた。それで慌ててポーツマス会談になった。日露戦争後に極東に起きたことは日本を身の丈以上の軍備をせざる得ない状況に日本を追い込み、ロシア南下阻止のため日英同盟を結んで英国の軍事負担の肩代わりをさせて負債を負わせることだった。日英同盟の三次改訂でドイツが仮想的に加えられ、日米戦争が1911年までには想定されるようになった。ワシントン軍縮会議が継続した1922年までには日英同盟は解消された。この時点で日米戦争の障害が全て取り除かれた。1925年ロンドン軍縮会議が取り決め1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に日本は本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。有効期限 すなわち罠の執行時限は1936年昭和十一年である。日本の内情からわからない戦争終末までのプロセスは外側から見たほうがスケジュールの見通しが良い。日本は英米の道具、鵜飼のウであり美味しいカモであった。他方コミンテルンには共産主義革命に日支戦を利用するという戦略があった。少なくとも尾崎秀実はこれを知る立場にあり、近衛文麿に近づいていた。
他方石原莞爾大佐は仙台歩兵第四連隊長時代に中央に対して送ったその書簡『軍事上ヨリ見タル皇国ノ国策』1933年昭和八年六月にて、皇国とアングロサクソンの決勝戦に向け東亜聯盟の完成のため、軍閥を相手とする政治工作をやめて強固な満洲国の経済基盤の確立を急ぎ一切の政治機関の撤退、最終的に治外法権の返還まで提案している。この書簡は石原が昭和十一年新設の戦争指導課長の頃に印刷配布されている。
戦後日米関係の名誉的地位を得たグルーこそトルコ以来の橋本欣五郎の国際情勢の情報源であり極東大戦争の戦後プランの立案者だったのだろう。他方戦争破壊プランの追い込み役はスティムソンであり、計画作成者はハウス大佐を含む陰謀組織CFRとその影にいた何人かと思われる。1930年から1931年までスティムソンはロンドン海軍軍縮会議の米国代表団の団長を務め、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドや日本全権若槻禮次郎などとの交渉の末、ロンドン海軍軍縮条約締結を無理やり飲ませた。軍拡に追い込んで軍縮の煮え湯を飲ませる。青年運動を起こして統治機構を麻痺させる。条約批准拙速に統帥権干犯の疑いという深刻な統治問題の導火線に火をつける。しかも統帥権干犯を問題視するのは当事者海軍ではなく陸軍という構図の無理異様さ。これが第三の違和感。
事件は少し後戻りして、昭和6年9月へと進んでゆく、荒木貞夫中将(当時の階級:東京裁判では終身禁固:1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)組)をてっぺんに建てる構想に転換し、三月革命のやり直しを狙った橋本はなんと、その方策を杉山茂丸(当時67歳:ちょうど三十年前伊藤博文の日露同盟路線をぶち壊す密命をアングロアメリカから帯びていた杉山は日本政治の国士的黒幕であると同時に英米の代理人だった)に相談しているではないか。人事異動で正式に上京した荒木を其日庵法螺丸に面談させ中央に上らせる(つまり陸軍大臣に据える)にはどのように工作したらよいか教えを、杉山の甥 高畠義彦元陸軍中尉で国際漁業社長を介して杉山茂丸との密談を願い出ている(杉山は昭和10年71歳で翌年の2・26事件を見ることなく死んでいる遺言は『後は知らんぞ』であった。)。其日庵との密談は『談夕より正子に至る。』とあるから相当に踏み込んだ話だったのだろう。杉山の技術指導により荒木陸軍相が誕生したことは橋本自身も疑いえないと手記に書いている。杉山茂丸はおそるべき老境の働きを見せている。このクーデターの動きは駐日大使グルーにも届いていたはずだ。しかし京橋の旗亭に説得に来たのは陸軍大臣荒木貞夫自身だった。
神輿に乗せるには大義だけでなく、銘文すなわち勅命が必要であったが、大川周明に皇室調整を期待されていたのは御文庫の実績からであったのだろう。真崎も神輿に乗せられそうになったがむしろ讒言と生け贄の山羊として期待されていながら直前で渡辺錠太郎に生け贄の地位を譲って残存した。ここも怪しいところである。それほど評判が悪いのなら教育総監のまま暗殺しておけば良いこと。
昭和6年8月28日もう一人の主人公が中央に登場する。板垣征四郎だ。石原莞爾と板垣の満蒙領有戦略重視ラインは非常に強かった。そこで石原が構想する強硬策実現を前にして、資金問題を橋本欣五郎は解決しなければならなかった。五万円(現在の価値にして五千万円から1億円の間)の調達にまたまた怪しい人物が関わっている。
第四は第三の主役の違和感藤田勇 (ふじた いさむ、1887年-没年不詳)が登場する(藤田は大川の子分中島から土肥原を通じて板垣に五万円を手交した)。この男、大正八年(1919年)といういわくつきの年(山本実彦の改造社もこの年に誕生する)に東京毎日新聞(1913年大正2年から1919年大正八年までは山本実彦が社長でその再建資金を工面したのは後藤新平である)社長に32歳でなっている鵺(橋本は梟雄(傑物)であると言っているが、藤田は共産主義者で、田口運蔵らと同じ東京毎日新聞に巣食うコミンテルンの手先であり、スターリンに粛清されるまでのアドルフ・アブラモビッチ・ヨッフェ(1922年 第一次国共合作のソ連共産党側の立役者 自殺?)の交渉のつなぎ役である。そもそも藤田の金の出どころはインド産阿片を船ごと接収された高田商会の船を50万円でロシアから払い下げ交渉から始まった。交渉成立後阿片を日本海上で別船に移して上海に入港、売り捌いて800万円の利益を挙げたのが始まりだ。藤田は高田商会から謝礼として150万円の手形を受け取り、うち40万円を現金化、この資金の一部が橋本欣五郎らにまわった。残額は高田商会が倒産したため不渡りとなった。満州事変後は関東軍から百万円の謝礼を受け取り目黒に一万坪の土地を買い邸宅を建てている。
戦後昭和21年東京裁判証言では藤田勇は昭和12年を以下のように振り返って証言している。
「(略)1937年の秋、私(藤田)は新聞記者として上海に居りました。其の年の11月、陸軍中佐・長勇が東京三井物産を通じて、20万英ポンドの阿片購入の委託状を私に手渡しました。その委託状の名義は楠本(実隆)大佐になっていました。私は東京に帰って、三井物産の輸出入部に行き、私の名で上海駐在の陸軍のために、ペルシャから20万英ポンドの阿片を買う事を頼みました。三井物産は私の注文を拒みました。一ヵ月後、中西氏が私に会いに来て、其の事について話しました。4月程後、三井物産の太田氏は三井が注文を受けると申しました。私は是以上此の事には関係しませんでした。併し、6ヵ月後、外務省が私を呼んで、此の事に就いて私の話をききました。私は、上海の陸軍当局が前記の阿片を買う事を頼み、三井物産が凡ての事務を行なっていると話しました。私は此れ以上の此の事については、外務省から何も聞きませんでした。』単純仲介者であったことを強調している。何故公然と破壊活動を支援している藤田勇を逮捕できなかったのか?間接的支援をしていた徳川義親も同じことだが、このような破壊分子は今の法律でも相当する罪形がないので逮捕できない。20万斤ポンドはもしかして斤キャラティの間違いかもしれないが、であれば、120ton 120000kgの阿片である。当時の仕入れは72kg=6000ドルなので、ぴったり100万ドルになる。昭和12年の百万ドルは現在の価値に換算して52億5000万円になり、とんでもなく大きな仕入れである。これを三倍以上の値で卸すわけだから、この取引の利益は現在価値にして100億円にもなる。100億円の買収資金があれば、いくらでも傀儡政府を樹立することができただろう。
ペルシャ産阿片はサスーン財閥の独占事業であるから、このような交渉ができるのはユダヤ人しかいない。物産は名義を貸してただけだろう。20万英ポンドというと90.7tonの阿片である。現在でも桁外れの調達であるから、捌く見通しがあったということは、資金源と保管輸送分配小売までシステムが出来上がっていたことを意味する。内閣の外局である興亜院は、総理大臣を形式上のトップとした。興亜院の蒙疆連絡部はサプライヤーとして重要な会計部門で、人口の3%はいたという中毒者に対する阿片分配のために「宏済善堂」という阿片問屋を創立していた。早稲田大の近藤は『1912年のハーグ条約による中国へのアヘン輸出の全面禁止、1919年ヴェルサイユ条約でのハーグ条約加盟義務化の国際潮流のなかで、関東都督は慈善組織の宏済善堂をダミーにアヘンの製造、販売を継続した。』と見ているが、国際環境が阿片内製化を押し進めたとも言える。とすれば、20万英ポンドの阿片はサスーン財閥による在庫処分の持ち込みと見れば理解できる。
この藤田勇という人物はやがて、後々の2・26事件から2年後の昭和13年、大陸で三井物産経由のイラン産阿片ルートに継続して関係し、上海特務機関(土肥原が率いた梅機関76号暗殺部隊にも金が回っていたのだろう)に売り上げを上納していた。昭和6年の資金の怪しさが重層する。その後詳細は不明(これが日米の麻薬ルートの暗部)だがベトナムとラオス(やがてはケネディーの陰の戦争)との関係が深い。ベトナム語辞典も出している。昭和6年柳条湖事件に際して「予は暴露するも強行するなり。」と橋本に向かって言ったのは藤田勇である。パトロンが実行者を脅している。橋本の十月クーデター計画にも二十万円提供している。完璧な謀略の確信犯であり、張作霖ともつながりがある二重スパイ。それが藤田勇であったのだろう。本来ならばこちらが満洲事変の主犯である。
荒木は満洲独立派ではなかったが、武藤と荒木が属する反長州閥は力を失い皇統派からさえ、かれの国防政策は総花的と無視されてしまう。そして日本は満洲国の自衛範囲を超え、なぜか熱河を取りに武藤関東軍は動き出してしまう。その理由は前にも述べたが、隠された戦争の目的、すなわち阿片の集積地を抑え資金源にするためである。藤田が潜伏したラオスもまた阿片の産地であった。これは偶然ではない。1939年ノモンハン事件で7696人の戦死者を出した(ソ連軍は9703人)23師団小松原道太郎師団長について2011年12月、黒宮広昭インディアナ大教授は、日本とロシアの公文書などを基に、小松原がソ連のハニートラップに引っかかり、ソ連の対日情報工作に協力するスパイだった可能性が大きいと発表した。ハルビン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏えいした形跡があるという。なお、同様の説は以前からロシアの研究者などが唱えていた[2]。
今日はこのくらいにしておく。