
沈黙に勝る雄弁はない。凡人は沈黙に耐えられず声を上げてしまう。

自分にあらざるものに他を見るのは容易でも、そのなかに他にあらざるものを見る(非他非自)のは容易ではない。
さらに他にあらざるものが自分に回帰するかというと、さにあらず。少なくとも言葉によっては回帰できない。
たとえば時間というものは秒針の運動ではない、時間とは本来主観的なものである。自分の感じる時間が他人の感じる時間と違うことは本来明らかなのだが、近代は秒針運動に翻訳して仮に同じとしている。本来違うものを同じとしていることが現代人の心に歪みをもたらしている。
時間とは語り得ないものの一例である。語り得ない世界を人ばかりでなく草木月花、禽獣山河それぞれに持っているということが日本人の世界観であった。自分にあらざるものが自分の一部であり、仮に自分の命がなくなろうともそこに語りえないものが残存するという感性があれば死に対する感じ方がおのずと異なってくる。人は感じながら、ただ沈黙するしか無い。
ペリリュー島の記念碑にはこう書かれている。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief C.W.Nimitz」
「諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍将兵が、いかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったかを伝えられよ.太平洋艦隊司令長官 C.W ニミッツ」ペリリュー島では日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器および小火器の弾薬を要したと言われる。
主観のなかに時間があるという感性は現代の仕組みに全く合っていない。このことは心の悩みに大きく関係する。沈黙を許さない、心の歩む時間より秒針の動きを追う主客逆転が心の悩みに関係する。以下に示すバートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」を否定出来ない思考ゲームの謎は、時間というものが過去の想起という曖昧な因果律と過去そのものとのペア性の誤解に根拠をおいている。
ヒュームの懐疑的提案もこれに似ている。彼は因果について詳細に検討した結果、因果に関する問題を四つに分け提示した。
1,因果関係causal relation 2,因果の推論causal inference 3,因果の原則causal principle この3つが同時に成立するのが因果律である。そして4 必然性についての三つの疑問が提示される。習い性で印象としてmust occur 、つまり因果性と勝手に思っているのは人間の側の責任であると、以下のように知識の限界を示す。
ヒュームは
「まわりの外的な物体を見回して、因果律の作用を考えるとき、どれ一つとして必然的な結びつきや力を発見することはできない。(。。。)われわれは、一つの出来事が実際に、確かに他のことに続いて起こることを見いだせるだけだ」
(D. Hume, 1748: p.67)
という。科学の世界でこの言葉をきくと違和感がある。なぜなら法則が実在を自動的に規定すると前提に置くのが科学だからだ。その前提は正しいのかどうかは関係がない。ただそういう決まりになっているということだけがこの世界での遊戯方法だからだ。一種の信念、それが因果律だと断定している。
ラッセルも同じように懐疑的提案をしているということが因果性を大きく包み込む主観性が否定出来ないことを表している。
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである
― ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 『心の分析』 (1993)

"In regard to memory, as throughout the analysis of knowledge, there are two very distinct problems, namely (1) as to the nature of the present occurrence in knowing; (2) as to the relation of this occurrence to what is known. When we remember, the knowing is now, while what is known is in the past. Our two questions are, in the case of memory.
(1) What is the present occurrence when we remember?
(2) What is the relation of this present occurrence to the past event which is remembered? "

自分にあらざるものに他を見るのは容易でも、そのなかに他にあらざるものを見る(非他非自)のは容易ではない。
さらに他にあらざるものが自分に回帰するかというと、さにあらず。少なくとも言葉によっては回帰できない。
たとえば時間というものは秒針の運動ではない、時間とは本来主観的なものである。自分の感じる時間が他人の感じる時間と違うことは本来明らかなのだが、近代は秒針運動に翻訳して仮に同じとしている。本来違うものを同じとしていることが現代人の心に歪みをもたらしている。
時間とは語り得ないものの一例である。語り得ない世界を人ばかりでなく草木月花、禽獣山河それぞれに持っているということが日本人の世界観であった。自分にあらざるものが自分の一部であり、仮に自分の命がなくなろうともそこに語りえないものが残存するという感性があれば死に対する感じ方がおのずと異なってくる。人は感じながら、ただ沈黙するしか無い。
ペリリュー島の記念碑にはこう書かれている。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief C.W.Nimitz」
「諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍将兵が、いかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕していったかを伝えられよ.太平洋艦隊司令長官 C.W ニミッツ」ペリリュー島では日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器および小火器の弾薬を要したと言われる。
主観のなかに時間があるという感性は現代の仕組みに全く合っていない。このことは心の悩みに大きく関係する。沈黙を許さない、心の歩む時間より秒針の動きを追う主客逆転が心の悩みに関係する。以下に示すバートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」を否定出来ない思考ゲームの謎は、時間というものが過去の想起という曖昧な因果律と過去そのものとのペア性の誤解に根拠をおいている。
ヒュームの懐疑的提案もこれに似ている。彼は因果について詳細に検討した結果、因果に関する問題を四つに分け提示した。
1,因果関係causal relation 2,因果の推論causal inference 3,因果の原則causal principle この3つが同時に成立するのが因果律である。そして4 必然性についての三つの疑問が提示される。習い性で印象としてmust occur 、つまり因果性と勝手に思っているのは人間の側の責任であると、以下のように知識の限界を示す。
ヒュームは
「まわりの外的な物体を見回して、因果律の作用を考えるとき、どれ一つとして必然的な結びつきや力を発見することはできない。(。。。)われわれは、一つの出来事が実際に、確かに他のことに続いて起こることを見いだせるだけだ」
(D. Hume, 1748: p.67)
という。科学の世界でこの言葉をきくと違和感がある。なぜなら法則が実在を自動的に規定すると前提に置くのが科学だからだ。その前提は正しいのかどうかは関係がない。ただそういう決まりになっているということだけがこの世界での遊戯方法だからだ。一種の信念、それが因果律だと断定している。
ラッセルも同じように懐疑的提案をしているということが因果性を大きく包み込む主観性が否定出来ないことを表している。
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである
― ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 『心の分析』 (1993)

"In regard to memory, as throughout the analysis of knowledge, there are two very distinct problems, namely (1) as to the nature of the present occurrence in knowing; (2) as to the relation of this occurrence to what is known. When we remember, the knowing is now, while what is known is in the past. Our two questions are, in the case of memory.
(1) What is the present occurrence when we remember?
(2) What is the relation of this present occurrence to the past event which is remembered? "