『
讀經
くさつぱらで
野良犬に
自分は
法華經をよんできかせた
蜻蛉も
ぢつときいてゐただが
犬めは
つまらないのか、
感じたのか
尻尾もふつてはみせないで
そしてふらりと
どこへともなくいつてしまつた』
1924年12月8日、茨城県大洗町で死去、40歳。
「おーい雲よ」以外は、ほとんど忘れられた作家かもしれない。伝聞だが『暮鳥は詩人として童謡に対して関心を持っていた。』という
『「自分は何となしに童謡こそ真の詩だと思ふやうになつた。そして童謡の対象が人類の未来であり世界の明日である彼等に関するが故に、否、自分ばかりではなく、現在や現実にのみ価値をおく自然主義やプラグマチズムに十分の満足を持ち得ないものとつては、感興殊更である。」(7月27日本井商羊宛)』
純粋で清澄な情緒によって、脳裏に浮かぶ言葉や詩歌を内側から照らす情緒の哲学(第三の直感)と、この童謡の創作のほとばしりこそ真の詩という暮鳥の思いとが私の中で 重なるのだ。教育的意図や単なる未成熟を好む稚児趣味では童謡は決してかけない。世俗に濁りきった大人がもう一度生まれ変わる心地を思い起こすには相当の努力が必要と思われる。情緒の上流に向かってさかのぼり、脳を内側から照らさなければならない。それによって情緒が外界を再構成する。
これが詩歌というものだ。暮鳥は其のように思っていたのかもしれない。
童謡文学という独特の文化が生まれた理由も、わたしたちの風土と情緒が無縁ではない。
田中彩子 オフィシャルフェイスブックページより。お目休め。
一方でこういう童謡は全くいけないという事例(3番は敢えて教えてもらっていない)「里の秋」がある。
「里の秋」
斎藤信夫作詞・海沼実作曲
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空【夜】
鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ御無事でと
今夜も 母さんと 祈ります
背戸とは家の後ろの方。裏手。「背戸の畑」
Wikipediaによると、こういう経緯があったらしい。斎藤信夫自身は戦後方向を変えた。まさに世俗に濁りきった大人の事情で出来た童謡である。
『終戦の年の12月中旬、突然の海沼實から『スグオイデコフ カイヌマ』の電報が届いた。何の用事か見当も付かず、海沼にも戦意高揚の童謡を送り付けていた事も忘れていた。斎藤が送った『星月夜』を示して海沼は、一番、二番はこれでいいが三番、四番を作り直して貰いたい、と告げた。『星月夜』の三番は戦地の父を励まし、四番は自分も大きくなったら立派な兵隊になる、というまさに少国民向けの詞であった。海沼は、改作した歌を12月24日のNHKの番組『外地引揚同胞激励の午後』で放送し、復員兵に歓迎と慰労の意を伝えたいために三番、四番を纏めて新しい三番を期日までに作って貰いたい、と説明した。
『星月夜』は戦意高揚の意気に燃えて作った詩である。それを一、二番はそのままで新三番により全く正反対の詩にしろ、というに等しい要求は、詩人にとって厳しいことで、詩作は難航した。苦吟すること一週間ほど、放送前夜にやっと完成した。斎藤は後になって、三番は無くてもよい、という意味のことを言っているが、研究者の間では、新三番の舞台として戦地を象徴する『椰子の島』(これは『星月夜』の三番にもあった)を残して“ご無事を祈ります”という詩の流れと完結を作ったこと、また、一番の冒頭“しずかなしずかな”二番の“あかるいあかるい”に呼応して新三番に“さよならさよなら”を採用し、戦争を含むこの時代の負の部分への訣別を表すものとして詩全体を支配させたことは秀逸である、とする見解も多い。
斎藤は放送当日、新『星月夜』を持参して愛宕山のNHK放送局に駆け付けた。海沼は、曲名『星月夜』を「里の秋」と改名すること、二番にある“星の夜”を“星の空”と変更することを提言した。かくして昭和20年12月24日午後1時45分、「里の秋」は川田正子の声に乗って全国に流れた。』
とある。
讀經
くさつぱらで
野良犬に
自分は
法華經をよんできかせた
蜻蛉も
ぢつときいてゐただが
犬めは
つまらないのか、
感じたのか
尻尾もふつてはみせないで
そしてふらりと
どこへともなくいつてしまつた』
1924年12月8日、茨城県大洗町で死去、40歳。
「おーい雲よ」以外は、ほとんど忘れられた作家かもしれない。伝聞だが『暮鳥は詩人として童謡に対して関心を持っていた。』という
『「自分は何となしに童謡こそ真の詩だと思ふやうになつた。そして童謡の対象が人類の未来であり世界の明日である彼等に関するが故に、否、自分ばかりではなく、現在や現実にのみ価値をおく自然主義やプラグマチズムに十分の満足を持ち得ないものとつては、感興殊更である。」(7月27日本井商羊宛)』
純粋で清澄な情緒によって、脳裏に浮かぶ言葉や詩歌を内側から照らす情緒の哲学(第三の直感)と、この童謡の創作のほとばしりこそ真の詩という暮鳥の思いとが私の中で 重なるのだ。教育的意図や単なる未成熟を好む稚児趣味では童謡は決してかけない。世俗に濁りきった大人がもう一度生まれ変わる心地を思い起こすには相当の努力が必要と思われる。情緒の上流に向かってさかのぼり、脳を内側から照らさなければならない。それによって情緒が外界を再構成する。
これが詩歌というものだ。暮鳥は其のように思っていたのかもしれない。
童謡文学という独特の文化が生まれた理由も、わたしたちの風土と情緒が無縁ではない。
田中彩子 オフィシャルフェイスブックページより。お目休め。
一方でこういう童謡は全くいけないという事例(3番は敢えて教えてもらっていない)「里の秋」がある。
「里の秋」
斎藤信夫作詞・海沼実作曲
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空【夜】
鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ御無事でと
今夜も 母さんと 祈ります
背戸とは家の後ろの方。裏手。「背戸の畑」
Wikipediaによると、こういう経緯があったらしい。斎藤信夫自身は戦後方向を変えた。まさに世俗に濁りきった大人の事情で出来た童謡である。
『終戦の年の12月中旬、突然の海沼實から『スグオイデコフ カイヌマ』の電報が届いた。何の用事か見当も付かず、海沼にも戦意高揚の童謡を送り付けていた事も忘れていた。斎藤が送った『星月夜』を示して海沼は、一番、二番はこれでいいが三番、四番を作り直して貰いたい、と告げた。『星月夜』の三番は戦地の父を励まし、四番は自分も大きくなったら立派な兵隊になる、というまさに少国民向けの詞であった。海沼は、改作した歌を12月24日のNHKの番組『外地引揚同胞激励の午後』で放送し、復員兵に歓迎と慰労の意を伝えたいために三番、四番を纏めて新しい三番を期日までに作って貰いたい、と説明した。
『星月夜』は戦意高揚の意気に燃えて作った詩である。それを一、二番はそのままで新三番により全く正反対の詩にしろ、というに等しい要求は、詩人にとって厳しいことで、詩作は難航した。苦吟すること一週間ほど、放送前夜にやっと完成した。斎藤は後になって、三番は無くてもよい、という意味のことを言っているが、研究者の間では、新三番の舞台として戦地を象徴する『椰子の島』(これは『星月夜』の三番にもあった)を残して“ご無事を祈ります”という詩の流れと完結を作ったこと、また、一番の冒頭“しずかなしずかな”二番の“あかるいあかるい”に呼応して新三番に“さよならさよなら”を採用し、戦争を含むこの時代の負の部分への訣別を表すものとして詩全体を支配させたことは秀逸である、とする見解も多い。
斎藤は放送当日、新『星月夜』を持参して愛宕山のNHK放送局に駆け付けた。海沼は、曲名『星月夜』を「里の秋」と改名すること、二番にある“星の夜”を“星の空”と変更することを提言した。かくして昭和20年12月24日午後1時45分、「里の秋」は川田正子の声に乗って全国に流れた。』
とある。