再掲載 投稿のオリジナル年月日 2017-05-16 17:00:07
p100あたりに、昭和天皇の大学寮(宮中気象観測所の転用 『社会問題研究所』『大学』学校ともいう)の話が出てくる。指導者として大川周明が出入りする大学寮。大川周明を庇護していた牧野伸顕、久邇宮邦彦王の存在など興味深いが震災以外の理由なく1924年に閉鎖となる。この時脇を固めた将校たち(おそらくは八咫烏)の役割は闇に隠れた本当の昭和の維新中枢が政府、宮中以外に特権的に存在したことの証拠だ。
エドワード・ベアは裕仁は「チャタムハウス」#をイメージしていたという想像をしている。時代的にはアングロ=アメリカの時代で、軍事戦と情報戦の中心がシティのクラウンに関係する利害実現優勢に戦争と宣伝が準備された時代。
「皇室はこれらの資産の大半を失ったが、SCAPの厳しい監査の目をのがれて、残された資産もいくらかあったようである。敗戦の濃くなった1943年、44年、専門家の助言に従って、海外の仲介人を通じ、日独伊枢軸国に好意的だったスイスやアルゼンチンのようなラテンアメリカ諸国の銀行に資産を移されたとも言われる。1948年7月19日付のSCAPの報告書には、『日本の公的、私的財産は共にSCAPの十分監視の行き届かないラテンアメリカ諸国に流出した』とある。」こう言う記載もある。こういう資産も最終的にはクラウンの利害に合算され戦争利益として精算された。
この隠れた天皇機関に関わる記述の発見だけでも面白い。資金面は当初は政府補助金だが、陰から裕仁のポケットマネーが動いたと思う。おそらくモルガン商会の初対日融資から数年後、特別の配慮で裕仁は軍事投資と英国の代理軍隊となる約束との引き換えで摂政宮時代に総額2億ドルの融資を得ていたものと思われる。『数年後2億ドルの投資をしていることがハウス大佐のジョージ・ロイドへの手紙に残されている。つまり、杉山の言うこの外債引き受け交渉は政治的に葬られるような趣をとりながら、秘密裏に実は実行されていた』というのが私の個人的見解で、その運用計画立案シンクタンクとしての受け皿が特務研究機関大学寮であった可能性がある。ここに言う杉山とは頭山とも親交のあった杉山茂丸、根拠は彼の大正十五年(1926年)のメモである。宮中気象観測所は閉鎖されたが資金口座は残ったはずである。
世界の歴史は1919年に大転換する。##
ハウス大佐のレポートの提出された1919年はアドルフ・ヒトラーが政治活動を始め、後にナチスに合流する右派 青年ドイツ・ブントが結成され、コミンテルンが結成され、ポール・ウォーバーグによって米国手形引受業審議会が設立された年でもある。米国学術界にはジョージタウン大学に地政学の「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」が設置される。日本には山本実彦によって改造社が創立される。
先のハウス大佐とも親交のあった牧野は1919年(大正8年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として西園寺とともに参加(吉田茂も随行、西園寺代表団の主張は議長ウィルソン大統領に無視されたが、アレン・ウェルシュ・ダレス(弟)も前年からこの時の米国側随行スタッフであり、ダレス自身もこのときに連絡局の上司ジョセフ・グルー後の駐日大使と知遇を得る)した。第二次大戦の重要人物はヒトラーとスターリンと周恩来以外は皆ここに集合した。このように2つの大戦は連続したシナリオによる一つの戦争であり、アングロ=アメリカの利害で嘘の戦争を続けていた20世紀は真の戦争をしていた中世よりも暗黒の時代だった。
話を牧野伸顕に戻すと、内大臣転任から15年後、二・二六事件の前年(牧野は湯河原で遭難するも生き残る;私は首謀者が殺されるはずがないと思っている。孫娘の麻生和子証言は作文だろう)の1935年表向き病気療養として引退する。【その後いつ頃かは不明だが、持病神経痛のためと言い柏の十余二というゴルフ場以外ほとんど無人の土地に隠れるが、柏は東京よりも寒い。療養ならもっと温暖な地方がある、方角が逆である。湯河原で遭難の方が状況に符合する。】彼の役割は宮内大臣湯浅の補佐と大学寮に代わる海外情報の収集と戦略指導、通信機関の継続だったのだろうと想像する。後継者湯浅倉平に対する期待は1940年12月湯浅の思わぬ早逝(肺気腫)で途絶する。しかし内閣奏薦手続が改訂され、湯浅内大臣が形式上後継首班奏薦の第一責任者となった。これは形式とは言え実質的に過去の元老が担ってきた専権事項である。そのような中枢形式業務に爵位を生前に叙されてもいない、閣僚経験もない湯浅が拝命するには牧野と裕仁の承認がなければこの人事は絶対に実現できない。本当は湯浅の早逝についても二・二六事件の真実に触れ、知りすぎたために消されたと私は疑いを持っているが、そこは想像で補うしかない。湯浅の出身地も父親も興味深い。
このように天皇裕仁の本当の姿は即位前の金融投資政治家としての充電期間に権力の源泉の秘密があったと思われ、天皇の神聖と権力(天皇機関説否定以降は絶対権力となる)と資金源(スポンサーからのシナリオ)を背景に裕仁は(元首と象徴の二つの顔を持つ運命に出くわした)稀代の政治家として昭和を生き延びる。
真崎@の遺言には『第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている』真崎がA級戦犯でありながら、スケープゴートであったと認定されて釈放されながら失意の日々を過ごし昭和31年に死ぬまで考えていたことは、内大臣という君側の奸のことであったことは間違いないが、何を知っていたかは不明である。そこは真崎の無念とともに我々が補うしか無い。
@真崎甚三郎大将
眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲三等功四級。荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。
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王立国際問題研究所(英: Royal Institute of International Affairs, 略称RIIA)は、イギリスのシンクタンク。所在地の名をとってチャタム・ハウス(Chatham House)とも呼ばれる。
1920年創設。本部はロンドン(元々はピット一族の所有の建築物である)。外交問題評議会の姉妹機関としても知られる。
第一次世界大戦後に開かれたパリ講和会議の期間中に、イギリス代表とアメリカの代表燗でアングロ=アメリカによるリーダーシップによって戦後の世界秩序を統治するという構想が提起され、その構想をソフト面から支援するためのシンクタンクを共同で設立ことになった。しかし、アメリカの国際連盟への不参加が決定し方針の転換を余儀なくされたために、イギリスは「王立国際問題研究所」、アメリカは「外交問題評議会」と、それぞれ独自にシンクタンクを設けることになった。
初期の王立国際問題研究所は、アルフレッド・ミルナーの薫陶を受け、オックスフォード大学を中枢として組織されていた帝国統治に関する研究グループである「ラウンド・テーブル」のメンバーが中核となった。やがてアーノルド・J・トインビーが招かれ中心的な役割を果たすようになった。
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『世界でも稀に見る豊かな歴史をもちながら──。まるで世界的な歴史学者トインビーが発見した、あの恐ろしい法則を具現化するかのように──。〝これまで世界の歴史のなかで、十二歳までに自民族の神話を教えることを止めた民族は、すべて百年以内に消滅した〟』
Iseya Takeru. Amaterasu no Angou (Japanese Edition) (p.141). Kindle 版.
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3.1運動なるものも1919年に始まったとされているが、独立国ができたというほどではなかった。何事も歴史的反日の原点(韓国人の矜持)と考えるゆえ、李大統領以降韓国人が公式文書で「天皇」を「日王」と記載するのは、小中華思想に基づいた日本人蔑視が根底にある。「皇帝」以上の「天皇」という尊号を支那の皇帝に使うのならまだしも、倭人と蔑(さげす) む日本人が使用することを彼らの妄想的な自尊心が許さない。それも含めて1919年に全世界の歴史がアングロ=アメリカを中心として大転換する。