岡潔はいろいろなことにわかりやすく言及しているが、時には科学を踏み外している。しかしながら日本人の再発見という意味で、夏目漱石がロンドン留学時代と同じようにぶつかった、相手を理解することを阻む情緒の壁をフランス留学中(ソルポンヌ大学留学)に体験しているというところが面白い。岡はあるとき論文の気になった部分の訂正の手紙を出そうとして、「こんなことしていて、通じるのか?」そういう感覚的疑問が引っかかったというのだ。しかしその時はフランスにいたのでその壁の意味が岡本人にも理解できなかったらしい。
日本人も近頃は民族の根っこがなくなって、何事も言語で表さなければ、何も感じがわからず、相手は没存在という人々がいる。
こういう人種とは、たとえ日本人であっても言葉のないところで親愛の情が深まるということがない、フランスで体験したこの理由が日本に帰ってきてから岡潔も気づいたというのだから、夏目漱石と同じく日本人の再発見を異なる人間を見て果たしたということでしょう。
欧米のように<小我しか無い世界>は、直線的に原因から結果を導くので、因果は一つから始まる。故に小我の幸福は最後のカードである最初の因果と自分の存在価値が一致しなければ完結しない。従って世界を支配し尽くさない限り、欧米をモデルとした<小我しか無い世界>は、必ず行き詰まるものです(岡潔は、小我ばかりでは全体主義か偏執狂になると言った)。
だから現代ビジネスでは勝者が総取りする。現実に米国はそのような1%が99%を支配する。OECDの経済成長の分配を平均しても1%と99%の分配比は4:6、江戸時代の四公六民の状態です。
勝者が価格、市場、出口、資金を統べり、反対側に大量の価格従属者、市場従属者、出口従属者、資金従属者を必要とする。
同様に男女の愛もエロの誘う感情では老いに抗うことはできず、どちらかが支配する愛は長くは続かない。男女の性を超えた情に染みた愛がやって来なければ男女は行き詰まってしまう。やや複雑化するが、同じ事が文化の差においても発見できる。これは日本と西洋、欧米との表面上の違いの問題ではないのです。
根本的に日本人が無意識の世界で持ち続けている、心のなかの大きな”過去”、遺伝子の中の精神遺跡、江戸時代よりもずっと前の太古から持ち続けてきた根本的な自分を再生する土壌。それがこれから日本民族の危機が葦牙(あしかび)から萌えあがる根本的な根拠神(可美葦牙彦舅尊)が存在するという問題です。岡潔は必ずしもすべての日本人が真我に目覚めていたわけではないと言ってますが、少なくとも中核の日本人、例えば幕末の壮士たちは、小我の対極 菩薩12:31参照くださいーの気持ちで我が身、兄弟と同じ様に日本を救おうとしていたと語るのです。単に王政復古の大号令で一新されたというわけではないことをちゃんと理解しておくべきだったのですが、いつのまにか菩薩心から国粋主義、火事場の泥棒という野卑で簡単な方に流れてしまった。これはほんとうに残念なことです。
日本人は知識や財産や武力が他国と比肩するほどではなくても、やがては必要に応じて追い越してしまう能力が備わっていることを歴史上幾度も示してきた。例えば西欧で発展した錬金術はアルコールなどの純粋物を抜き出す方向で発展した、<小我しか無い世界>は、直線的に原因から結果を導くので、因果は一つという前提から始まる。そこがいかにも中東以西の一神教文化らしい。対照的に日本では蒸留酒が発展しなかったが、錬金術に代わって発酵術が発展した。味噌醤油、酒にかぎらず、火薬原料からフグ肝の毒抜きまで発酵で解決した日本人の固有の洞察力は生成論に関係する。因果論に囚われる限り、純粋な原因に遡ることに学術は発展するが、変化誘導には発展しない。日本人の感性は見事に変化誘導に適している。
発明の源泉が情緒であり、無差別智の活動する死の世界、(私はあえてこれを生成論の中で、自己再生の神域と捉えることが正しき日本精神を理解することと信ずる)真我の世界であることを岡潔は教えている。
古い時代ほど日本人には小我より真我が勝っていて、死を個の終末として恐れていなかった。
「よく情緒が起こるのは、死の位です。生の位は、それがあんまりよくわからない代わりに、肉体が使えるということがある。」
数学者のこの言葉は瞠目に値する。死の位とは私なりに考えるとこうです。智の本位である真、情の本位である美、意の本位である善が突き進む先は肉体を超えた死と表裏であるということ。死の位に意識があるとき、生きながら死を垣間見る時に、大きな発見が降りてくるというのは、神がかっているが、こればかりは信じるしか無い。これは柳田國男の幼少期の神秘経験とも一致する。生成論<智情意>で肉体存在を捉えれば、個の死を超越する向こうの世界に到達することができる。これが日本人以外の欧米アジアの人々が驚愕し畏れる日本人の最も恐ろしい能力なのです。広く日本人の心に共通する作用原理が生成論です。日本人として世界にあるということは非常に特異なことです。
岡潔は数学の発見がポアンカレが告白するように論理的に出来上がるものではないことを実際に経験している。だから岡潔が多少科学的常識を踏み外していても私は構わない。月に行った人が月について語るときに、月に行ったこともない人間がコメントを挟むことはできないのだから。バートランド・ラッセルも別の角度から無意識と情緒の層について次のようなことを言っている。
「無意識の意識への働きかけについては,これまで,心理学者による研究がかなりなされてきているが,意識の無意識への働きかけについては,研究があまりなされてきていない。しかし,後者(意識の無意識への働きかけ)は,精神衛生の分野で非常に大きな重要性を持っており,もし理性的な確信が無意識の領域でいつも働くべきであるとするならば,理解されなければならない。これは,特に,心配の問題にあてはまる。そのような不幸は起こったとしてもそれほど恐ろしいものではない,と自分に言いきかせるのは簡単であるが,しかしこれが単に意識的な確信にとどまっているかぎり,夜眠れない時(間帯)には作用せず,悪夢を見るのを防いでくれないだろう。十分な気力と強烈さが注ぎこまれるならば,意識的な思考を無意識の中に植えつけることは可能である,と私は信じている。無意識の大部分は,かつては非常に情緒的な意識的思考であったが現在では意識下に埋め込まれてしまったもので成り立っている。この意識下に埋め込む過程を意図的にやってみることは可能であり,このようにして,無意識に有益な仕事をいろいろさせることができる。たとえば,私があるかなり難しい話題について書かなければならないとした場合,最良の方法は,その話題について,非常に強烈に,自分に可能なかぎりの最大級の強度をもって数時間ないし数日間考え,その期間の最後に,いわば,この作業を地下で続行せよと命令する,というやり方である。何ケ月か経過してから,その話題に意識的に立ち返ってみると,その作業はすでに終わっているのを発見する。このテクニックを発見する以前,私は,仕事がまったく進まないということで,やきもきしながら,その間の数ケ月を過ごし,そのようにやきもきしても,それだけ早く解答が出るわけではないので,その間の数ケ月は,いつもむだに費やされてしまったが,(このテクニックを身につけた)現在では,その間,別の仕事に専念することができる。心配ごとに関しても,多くの点でこれに類似したプロセスを採用することができる。何らかの災難が迫ってきたときには,起こりうる最悪の事態はどのようなものであるか,真摯かつ慎重に考えてみるといい。起こりうる災難を直視した後は,それは結局,それほど恐ろしい災難ではないだろうとみなすに足る,しっかりした理由を見つけるとよい。そのような理由は,常に存在している。なぜなら,最悪の場合でも,人間に起こることは,何ひとつ宇宙的な重要性を持つものではないからである。しばし最悪の可能性をしっかり見すえ,真に確信をもって,「いや,結局,あれはそれほど重要なことではない」と,自分自身に言いきかせたとき,あなたは自分の心配事がまったく驚くほど減っていることに気づくだろう。この過程を2,3度くりかえす必要があるかもしれないが,しかし,最後には,もしも,最悪の事態に直面しても,何事も回避しなければ,自分の悩み事がすっかり消えて,そのかわりに,一種の爽快な気分になっていることを発見するだろう。」
The psychology of worry is by no means simple. I have spoken already of mental discipline, namely the habit of thinking of things at the right time. This has 'its importance, first because it makes it possible to get through the day's work with less expenditure of thought, secondly because it affords a cure for insomnia, and thirdly because it promotes efficiency and wisdom in decisions. But methods of this kind do not touch the subconscious or the unconscious, and when a trouble is grave no method is of much avail unless it penetrates below the level of consciousness. There has been a great deal of study by psychologists of the operation of the unconscious upon the conscious, but much less of the operation of the conscious upon the unconscious. Yet the latter is of vast importance in the subject of mental hygiene, and must be understood if rational convictions are ever to operate in the realm of the unconscious. This applies in particular in the matter of worry. It is easy though to tell oneself that such a misfortune would not be so very terrible if it happened, but so long as this remains merely a conscious conviction it will not operate in the watches of the night, or prevent the occurrence of nightmares. My own belief is that a conscious thought can be planted into the unconscious if a sufficient amount of vigour and intensity is put into it. Most of the unconscious consists of what were once highly emotional conscious thoughts, which have now become buried. It is possible to do this process of burying deliberately, and in this way the unconscious can be led to do a lot of useful work. I have found, for example, that if I have to write upon some rather difficult topic the best plan is to think about it with very great intensity - the greatest intensity of which I am capable - for a few hours or days, and at the end of that time give orders, so to speak, that the work is to proceed underground. After some months I return consciously to the topic and find that the work has been done. Before I had discovered this technique, I used to spend the intervening months worrying because I was making no progress; I arrived at the solution none the sooner for this worry, and the intervening months were wasted, whereas now I can devote them to other pursuits. A process in many ways analogous can be adopted with regard to anxieties. When some misfortune threatens, consider seriously and deliberately what is the very worst that could possibly happen. Having looked this possible misfortune in the face, give yourself sound reasons for thinking that after all it would be no such very terrible disaster. Such reasons always exist, since at the worst nothing that happens to oneself has any cosmic importance. When you have looked for some time steadily at the worst possibility and have said to yourself with real conviction, 'Well, after all, that would not matter so very much', you will find that your worry diminishes to a quite extraordinary extent. It may be necessary to repeat the process a few times, but in the end, if you have shirked nothing in facing the worst possible issue, you will find that your worry disappears altogether, and is replaced by a kind of exhilaration.
The Conquest of Happiness(松下彰良・訳)
これを一般化して捉えると、論理の発見者にとって現在とは経験(無意識の中に織り込まれた、実経験の2次的思考)を発見する場、すなわち現在とは、過去の連続の上に論理的断絶を生成することの時間的かつ主観的表現にすぎない。だからここにおいて現在は何かということは本来的に自明ではない。これをショウペンハウエル的に言い換えれば、現在という前提を承認するには空間的時間的に連続しているだけでは存在を示す十分な理由がない。あるいは論理的予想的に投機に矛盾がないということだけでは理由がない。ここが哲学の重要な分岐点になる。つまり世界を解釈するだけの哲学か、世界を創造する哲学かということだ。
続く
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