北の都はやっと花の季節。
関東は柿の花の花芯が固く閉ざし、薔薇が彩り多く競演するなか、そろそろ紫陽花が咲き始める。あと少しで小麦も色づく。関東は実りも多く昔から本当に住みやすいところ。平安鎌倉の昔は常世の国と呼ばれていた。故に常陸国の南部から上総国の半分くらいまで伊勢神宮の領地だった。戦国時代の時点で常陸国の北部に佐竹が栄えた。頼朝の時代より古い領主は佐竹と島津だけだったことを考えると中央に左兵衛尉という官位を持っていた八幡太郎義家の兄弟新羅三郎義清を先祖とする佐竹は、戦国期に右馬権頭と言う官途下級官位も得ている。そのため戦国以前から美濃国山口郷にも親戚ネットワークをもつ規模の大きな一族だった。鎌倉時代には頼朝の義家流の団結と言う大義から建前上打ち負かされて悲劇的にも御家人となって領地受領を失うが、一方で軍事エリートの小侍所となっている。美濃山口郷は一旦召しあげられ相国寺の所領となるが、西山口については相国寺と佐竹氏との間で永く相論(裁判)が続いた(蔭涼軒日録,長享2年5月18日条等)。美濃はそのくらい重要な支店だった。一方祖先伝来の常陸国奥七郡の回復は足利尊氏に従って鎌倉打ちを都で果たし、六波羅探題に攻めたのは美濃国山口郷の親戚佐竹光基だった。南北朝時代に継ぎ接ぎになった領地を南朝方小田らと徐々に回復する。佐竹の物語は国替えまで500年あり栄枯盛衰が壮大すぎて、おもしろ。戦国期も北条勢力との争いから陸奥の葦名白川らと連合を作っている。武田ばかりでなく真田とも盟約をするなど、関ヶ原で動けない状況が生まれていなければ畿内で主役級の役割を果たして時代劇になったかもしれない。関東にあって存在感がすこぶる大きかった。秀吉という大企業には勝てず地方資本の名家も田舎に引っ込まされる。今も秋田の佐竹の縁者は茨城県ではなく常陸というときく。
国力と東北の睨みという地政学を考えて佐竹を秋田に国替えした家康の政策は正解だった。福島中通りを抑える地政学上の要衝であり金山の多かった依上郷以北が常陸国に加えられるのは1594年に行われた太閤検地以降である。佐竹、秀吉、家康と北関東の常世の国は大切にされてきた。
北国の良さはその清冽の気
関東は柿の花の花芯が固く閉ざし、薔薇が彩り多く競演するなか、そろそろ紫陽花が咲き始める。あと少しで小麦も色づく。関東は実りも多く昔から本当に住みやすいところ。平安鎌倉の昔は常世の国と呼ばれていた。故に常陸国の南部から上総国の半分くらいまで伊勢神宮の領地だった。戦国時代の時点で常陸国の北部に佐竹が栄えた。頼朝の時代より古い領主は佐竹と島津だけだったことを考えると中央に左兵衛尉という官位を持っていた八幡太郎義家の兄弟新羅三郎義清を先祖とする佐竹は、戦国期に右馬権頭と言う官途下級官位も得ている。そのため戦国以前から美濃国山口郷にも親戚ネットワークをもつ規模の大きな一族だった。鎌倉時代には頼朝の義家流の団結と言う大義から建前上打ち負かされて悲劇的にも御家人となって領地受領を失うが、一方で軍事エリートの小侍所となっている。美濃山口郷は一旦召しあげられ相国寺の所領となるが、西山口については相国寺と佐竹氏との間で永く相論(裁判)が続いた(蔭涼軒日録,長享2年5月18日条等)。美濃はそのくらい重要な支店だった。一方祖先伝来の常陸国奥七郡の回復は足利尊氏に従って鎌倉打ちを都で果たし、六波羅探題に攻めたのは美濃国山口郷の親戚佐竹光基だった。南北朝時代に継ぎ接ぎになった領地を南朝方小田らと徐々に回復する。佐竹の物語は国替えまで500年あり栄枯盛衰が壮大すぎて、おもしろ。戦国期も北条勢力との争いから陸奥の葦名白川らと連合を作っている。武田ばかりでなく真田とも盟約をするなど、関ヶ原で動けない状況が生まれていなければ畿内で主役級の役割を果たして時代劇になったかもしれない。関東にあって存在感がすこぶる大きかった。秀吉という大企業には勝てず地方資本の名家も田舎に引っ込まされる。今も秋田の佐竹の縁者は茨城県ではなく常陸というときく。
国力と東北の睨みという地政学を考えて佐竹を秋田に国替えした家康の政策は正解だった。福島中通りを抑える地政学上の要衝であり金山の多かった依上郷以北が常陸国に加えられるのは1594年に行われた太閤検地以降である。佐竹、秀吉、家康と北関東の常世の国は大切にされてきた。
北国の良さはその清冽の気