公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

もの言う皇嗣 秋篠宮は 大嘗祭を宗教とみた 民是を知るべし

2018-11-30 07:21:00 | 日本人

宗教と捉えている時点で秋篠宮は皇統失格。神道形式の大嘗祭は宗教でも宗教的色彩のプログラムでもない。国民共通の無形資産である皇統の儀式継承。

目に見えないものをそこにあるかのごとく祀るのは宗教や教義ではなく、国民の在り方。いわば日本という國に生まれた民草のこの世に生きる指針、民是である。


退位後の上皇陛下について、 《宮内庁は「ご活動は全て私的なものとなり、二重権威の問題は起きない」と説明している。》この時点で皇統を崩壊させている。皇室に信教の自由や政治投票勧誘など私的活動など許さない。11月に教皇が来日するというのが不気味である。上皇はキリスト教帰依を表明するかもしれないなあ。
さて草莽の国学者鈴木雅之は「撞さかき」でこういう表現で生成の道を継ぐものが皇統であると示している。故に天皇の神事は四方拝なのである。 《凡世になりとなる萬物盡く、皆道によりて生り出つ、 道ある故に、世にある萬物は生り出たるものなり、 萬物生有故に道生れるに非ず、 ...... いきとしいけるもの皆、道を行ふによりて活く、 世に生活するほどのもの、道を離れていけるものは更にあることなし、 ...... カタジケ 辱 なくも天神の高天原に坐まして布行せたまふ生成の道、是なり。 (( 天神とは、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照大御神の四柱を申し奉れり))》 『第一に「元来生成の変化たるに過ぎない死によって、道がなくならぬとなした等、道の先天性及び永久性 を説いた思想」 第二に「この道の観念と連関して、彼の神学思想は、天御中主神の神観に於て、古学神道の夫を究極せし めた」 第三に「本居によって説かれ、平田によって幾分補正された善悪相生説で、彼は明らかに否定した。即ち 彼は生成の心は善であるとなし、善悪相対へては、善は正理で、悪は変である故に、悪の理は善中に含まれ てゐる。」 以上の三点をまとめるならば、『撞賢木』の中で説かれている思想は、天御中之主神からすべての世界は創造 され、その生成の道筋を「道」と言い、すべては天御中之主神から創造されているとする。それ故に悪は善から 変化したものであると、性善説を主張する。そして、その考え方は本居、平田の神学思想を一步進めたものであ る。』金本拓士より

追補2019.1.24 【パリ賀有勇】フランシスコ・ローマ法王は23日、11月に訪日すると明らかにした。AFP通信によると、中米パナマに向かう機中で報道陣の質問に答えた。法王来日は1981年の故ヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目となる。  共同通信によると、訪日は11月下旬の約5日間で、被爆地の広島・長崎のほか、東日本大震災の被災地への訪問も検討されている。
 法王は、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真を印刷して広めるよう呼びかけるなど、核兵器廃絶を訴えてきた。広島と長崎の両市長らが法王の被爆地訪問を要請してきた。

秋篠宮は今大きな外国勢力の工作を受けている。皇統の伝統は2038年戊午に終了する。新元号の19年、秋篠宮との間に皇室財産分与問題が発生する。皇統はただの王族になり秋篠宮は海外に拠点を移してコスモポリタン王族化する。イングランド王室の真似事であるが、脱日本化する皇統には成人した皇位継承者悠仁親王(見込み年齢32歳)も含まれる。現時点で政府はなんの防衛も行っていないので、皇統断絶の国内外勢力の策謀が成功する。





何故民是というのか

社名の「グンゼ」は創業時の社名「郡是製絲株式會社」に由来する。「郡の是」とは、国の方針である国是、会社の方針である社是のように、創業地の何鹿郡(現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・推進していこうという元農政官僚で殖産興業の父と呼ばれた前田正名の趣旨に基づいている。

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前田正名の地方産業振興策と地域形成:「五二会資料」の分析からMasana Maeda as a powerful organizer of Japanese traditional industries, his regional development policies and the regional formation, based on inspection of Go-Ni-Kai documents

前田正名は近代日本の産業地域形成に大きく寄与した人物である。彼はその生涯の前半に政府官僚の立場でわが国の地方在来産業の育成振興政策を牽引し、1890年頃に官職を辞して以降は民間の立場から全国の在来産業の指導、育成、振興に心血を注いだ。各地の在来産業振興を目指し、前田行脚と呼ばれる全国巡回指導を頻繁に行った。在来産業振興が国力増強に資するというのが、彼の見通しであった。前田は1890年頃から地方在来産業者の全国組織化を図るため、様々な全国的同業者組織の結成に乗り出す。五二会もその一つである。五二会は前田と京都の在来産業家らを中心に1894年に結成され、その名の五は織物、陶磁器、漆器、金属器、製紙を、二は雑貨、敷物を指す。これらは在来産業由来の伝統的美術工芸品である。五二会は全国各地の産物を一堂に会し、それらの高品質化、生産強化を図るための大規模な品評会であった。美術工芸品の品質向上とそれらの全国的生産流通構造の確立が我が国の輸出貿易振興をもたらし、国力増進を図ることが、五二会会頭の前田の目指すところであった。本報告では、五二会資料(正田1979)の分析を通じ、19世紀末のわが国の在来産業の地域形成や地域編成の実際的側面を解明したい。第1回五二会大会は、1894年4月に京都市で開催された。開会式で前田は、五二会の組織を通じた在来産業振興の論理を次のように展開した。国内在来産業主体が個別に事業を行う現状では当該産業は国際貿易市場での敗北は必至で、結果的に国力は減衰する。国産品が貿易市場で優位性を得るためには国内在来産業の全国的組織化が必要だ。その組織下で国内産地産品間の比較競争を行い国産品の質の向上を図るとともに、事業者の団結と製品輸出系統の統合により外国市場での競争を優位に進める必要がある。五二会はこれら国内産業の統合と団結の中核にある。では、五二会によって国内の在来産業空間はどのように編成されたのであろうか。図1に五二会の府県本部等の分布を示した。五二会中央本部は美術工芸品生産の中心であった京都にあり、各府県には府県本部、事業部、支部が置かれた。県本部等の立地は県庁都市が主だが、五二の在来産業発達地域に立地する場合も見られた。その分布は東北以北で少なく、関東以西(関東、東海、北陸、近畿、山陽、四国、九州)が主であった。この傾向は、旺盛な生産活動の地域指標とも見られる五二会への出品者数にも表れる。図2は、1895年に神戸で開催された第2回五二会大会への出品者の府県別分布を示す。近畿、東海と北部九州への偏在傾向がみられる。これは前田正名が重視した当時の輸出志向型在来産業の生産の卓越した地域を示すものと考えられる。図2の出品者数と出品商品の売却金額・売却点数の地域分布傾向は類似パターンを示すが、後者ではより京阪神、とくに京都への集中傾向が強い。図1と図2から、当時の輸出型在来産業発達の地域的傾向について、京都など関西中心の西日本優位の産業空間構造の存在が判る。五二会等を通じ、前田はこの空間構造を分散的形態から統合的形態へと変革するオーガナイザーの役割を果たそうとした。


秋篠宮さまは誕生日に先立つ22日の記者会見で、大嘗祭(だいじょうさい)に公費を支出するという政府の決定に対し、疑問を示された。政府は方針を変更しないが、皇族の政治的な発言ととらえ、問題視する声もある。  ◆苦渋の表情  「まさか記者会見で述べられるとは」。宮内庁幹部は、秋篠宮さまの突然の発言に戸惑いの色を隠せない。大嘗祭の費用について、政府は今年4月、平成の整理を踏襲し、公費を支出すると閣議で了解していた。  異例の発言から間もない22日午後、宮内庁の山本信一郎長官は記者会見で「政府の方針に従って準備を進める」と話した。意見を聞いた上で、大嘗祭は皇位継承に伴う重要な、伝統的な儀式で、平成の代替わりで様々な議論を経て公費支出が決まったと、秋篠宮さまに説明してきたという。  「聞く耳を持たない」という苦言について「私もつらいが、そう受け止められたのであれば申し訳ない」と苦渋の表情を浮かべた。


もちろんこれは政治的発言である。秋篠宮の言及のように私的費用で行うのなら私的判断、御意でやめることもできる。そう言う自由は皇統にはないのが日本国の国柄というもの。


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