かなり昔のメモから引用してみた。
要約
日本人の精神性の優れたところは、論理に奥行きをもたせた属性二次元という感覚にある。日本人は論理を突き詰めると、真・美・善は死に至ることを知っている。自然神をも含めて立体的に生成論で包みこむことが日本人の精神性である。
これに対して日本人は論理を突き詰めると、真・美・善は死に至るニヒリズムであることを知っているから、直線的に考えない。日本的ニヒリズムは無闇に死をこの世に近づけない。何故ならば、外来論理の正統を崩さずにその奥行(日本化あるいは情緒化)をあとづけして日本人の情緒文明が外部文明を吸収しながら発展してきた歴史があるからだ。
命を大切にする精神性が日本人の本来の姿だ。これを妙と呼んだのは数学者岡潔である。同じく数学者の藤原正彦氏も「国家の品格」の中で、会津藩日新館の「ならぬものは、ならぬのです。」を引用して、論理でたたみ尽くすことは破綻をもたらすと述べている。
教育の場面で論理的に人を殺してはいけない理由など学校指導で覚させた所で、一歩外に出れば、殺していい理由も羅列できる人間が世界に住んでいるのだから、日本人としては「ならぬものは、ならぬのです。」で十分なのだ。
あらゆる意味で論理の出発点は情緒を離れては、腹に落ちる結論はない。何故ならば情緒の個別性を論理的、過程的対象化が共感であるということに向かって普遍化するからです。
あらゆる意味で論理の出発点は情緒を離れては、腹に落ちる結論はない。何故ならば情緒の個別性を論理的、過程的対象化が共感であるということに向かって普遍化するからです。
すなわち日本人は虹色の心情のグラデーションを以って地上の他者を吸収し、絶対的他者(死)と絶対矛盾を自我と結合しようとする。論理と出来事の順序(聖書に描かれる起源や預言)だけでは決して腹の底で納得しない。日本の神話は生成であり再生論理であるから現実に祭りが自分たちを肯定する社会システムになっている。
詩歌もまず情緒であって、古典との接点を通じて共感に処理するのは個々の脳裏に任されている。
「ならぬものは、ならぬのです。」という一見空疎な反復言明の真の意味合いはそういう言外のところ情緒にある。