公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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抗体が無くても免疫はある?

2020-07-07 06:49:00 | 捨て置けないニュース
Coronavirus: Immunity may be more widespread than tests suggest
BBC
People testing negative for coronavirus antibodies may still have some immunity, a study has suggested. For every person testing positive for antibodies, two were found to have specific T-cells which identify and destroy infected cells. This was seen even in people who had mild or symptomless cases of Covid-19. But it's not yet clear whether this just protects that individual, or if it might also stop them from passing on the infection to others. Researchers at the Karolinksa Institute in Sweden tested 200 people for both antibodies and T-cells. Some were blood donors while others were tracked down from the group of people first infected in Sweden, mainly returning from earlier affected areas like northern Italy. It's likely those people did mount an antibody response, but either it had faded or was not detectable by the current tests.

抗体保持者は少なくても日本人の防疫システムが機能しているというグラフ




コロナウイルスの抗体が陰性の人は、まだ免疫力があるかもしれない、研究が示唆している。 抗体が陽性の人のうち2人は、感染した細胞を識別して破壊する特異的なT細胞を持っていることが判明した。 これは、コビド19の軽度または無症状の症例を持っていた人にも見られた。 しかし、これが単にその人を守るだけなのか、それとも他の人への感染を防ぐことができるのかはまだ明らかになっていない。 スウェーデンのカロリンカ研究所の研究者は、200人を対象に抗体とT細胞の検査を行った。 他の人が最初にスウェーデンで感染した人々 のグループから追跡された間、いくつかの血液ドナーだった、主に北イタリアのような以前の影響を受けた地域から戻って。 これらの人々は抗体反応を起こした可能性が高いが、それが薄れたか、現在の検査では検出できなかった。

今年85歳になる西尾幹二氏はどうされているのか気になり以下のブログを見つけた。大病後回復されたようだが、コロナ禍に恐怖を覚えているようだ。

 新型ウィルスの襲来以来、私はわが身にもとうとう来るものが来たのかな、などといったあらぬ思いが心中からどうしても拭えません。

 一人の喜劇タレントの死が切っ掛けでした。私は病気持ちの84歳で、彼よりずっと条件が悪い。感染したら万に一つ助かる見込みはありません。二、三週間で、片がつくでしょう。その間呼吸のできないどんな苦しみに襲われるのだろうか、と生物としての不安が急に想像力の中に入って来ました。テレビはかの喜劇タレントがひとつの骨壺になって遺族に抱かれて自宅に帰ってくるシーンを映し出しました。彼の兄らしい人物が、「恐ろしい病気です。皆さん、気を付けて下さい。」とだけ言った。病中の枕頭への見舞はもとより、遺体との接見も認められなかった事情を言葉少なに語りました。
 
 死後直ちに焼却炉に入れられたという意味でしょう。屍体の取り違えは起こらないのだろうか、などと私はあらぬ空想に走る自分が恐ろしかったのです。中世末期のやり方と同じだな、とも思いました。その後やはりテレビでブラジルやアメリカやイタリアやスペインの乱暴な遺体処理の現場の遠景を若干覗き見ました。やはり中世と変わらないな、と再び思いました。

 しかし考えてみれば、死は一つであって、自分の死は他の人からどう看取られ、社会的にどう見送られるかのいかんで変わるものではありません。やはり自分の身にも来るべきものがついに来たのだな、とむしろ納得しました。そして夜、秘かに考えました。万が一、高熱が三日つづいて、PCR検査で陽性ときまり、入院せよという指示が出されたとします。私はいよいよ家を出るときに妻にどういう言葉をかけたらいいのだろうか。戸口で永遠の別れになる可能性はきわめて高い。このことだけは考えの中に入れていなかった、と不図気がついて、ゾッと総身に寒気が走ったのです。

 あゝ、そうか、そこまでは考えていなかったなぁ・・・と思うと、さらに想像は次の想像を誘いました。老夫婦二人暮らしのわが家では一方が感染すれば他方もまた必ず感染するに違いありません。ウィルスが家庭中に乱入したら防ぎようがないのです。そして、その揚句、私の住む東京のある住宅地からとつぜん二人の姿が消え、そしてそのあと何事もなかったかのごとく、街はいつもの静けさと明るさに立ち還るだろう。あゝ、そうか、そういうことだったな、とあらためて思い至ったのです。

 そんなこと分かり切っているではないか。お前はこの七月で85歳となることを考えていなかったのか。そう呼びかける声も聞こえて来ました。そうです。考えていなかったのです。あるいは、考えてはいても、考えを継続することを止めていたのです。

 生きるということはそういうことではないでしょうか。迂闊なのですが、迂闊であることは正常の証拠なのです。



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