国指定重要文化財 竜禅寺
名称 : 竜禅寺三仏堂
ふりがな : りゅうぜんじさんぶつどう
棟名 :
棟名ふりがな :
員数 : 1棟
種別 : 近世以前/寺院
時代 : 室町後期
年代 : 永禄12以前
永禄12年はこの辺りがどんな様子だったか、岡見氏は常陸小田氏の一族で、この治資の系統の他にも数家存在する。天文元年(1532年)、小田治孝の子として誕生。常陸国の国境付近に勢力を持ったため、佐竹氏とたびたび争ったという。永禄12年(1569年)、手這坂の戦いで小田氏治軍の一軍として戦い、真壁久幹配下の根来法師大蔵坊の鉄砲に胸板を撃ち抜かれ戦死した。←これがこの地域鉄砲合戦使用の初見手這坂《てはいざか》の合戦
常陸国太田城主・佐竹義重は常陸国南部への進出を企図していたが、しだいに常陸国小田城主・小田氏治との対立が激化することになった。義重は永禄9年(1566)に奪取した常陸国片野城・柿岡城を、客将として迎えていた太田資正・梶原政景父子に与え、ここを拠点として徐々に氏治への圧迫を始めたのである。
永禄12年(1569年)1月、佐竹勢は小田方の海老島城を降したのちに氏治の拠る小田城を包囲すると、小田領内の村々に放火し、百姓の家に押し入って家財を強奪するなどの狼藉を行った。また5月にも小田城下に侵攻して刈田を行うなど、小田氏の対戦能力や国力を低下させるための示威行動を行っている。
10月24日、氏治はそうした状況を打破するために3千の軍勢を率いて筑波山東麓の手這坂に布陣し、片野・柿岡の両城を攻める構えを見せた。これを6百という寡兵の太田勢は、城を棄ててでも小田城を落とすという覚悟を決め、真壁城の真壁氏幹らと連携を取りつつ、手這坂の小田勢を迎撃したのである。
太田勢は30挺ほどの鉄砲で撃ちかけた。この地方で鉄砲を用いるのはこの合戦が初めてといわれており、この新兵器の威力に怖気づく小田勢に真壁勢が斬りこんだため、小田勢は崩れて敗走した。
しかも、この間に別働隊を率いて密かに小田城に向かった梶原政景が「御館御帰陣」と偽って城門を開かせて攻略したため小田勢は小田城に帰れず、支城である常陸国土浦城に逃れたのである。小田氏は小田城を永遠に失う。太田資正(おおた・すけまさ) 1522~1591
扇谷上杉氏の重臣。上杉朝興・朝定に仕えた。武蔵国岩付城主・太田資頼(知楽斎道可)の二男で、太田道灌の曾孫にあたる。通称は源五郎。美濃守・民部大輔。三楽斎道誉と号す。
はじめ武蔵国松山城主・難波田善銀の娘の婿養子となって松山城に居していたが、天文15年(1546)の河越城夜戦において主家である扇谷上杉氏が北条氏康によって滅ぼされたのち、上野国に逃れて金山城主・由良成繁の庇護を受けた。しかし同年9月末、北条氏が上総国の里見氏を攻めるために軍勢を動かした間隙を衝いて松山城を奪取、支配領域を回復した。
翌天文16年(1547)10月に兄で岩付城主の太田資時(全鑑)が没すると、城主不在となっていた岩付城に押し入ってその家督を強引に継承し、岩付城もその勢力化に収めた。だがその直後、松山城に入れ置いた上田朝直が北条氏に内応したことによって松山城が落城、岩付城も北条勢の攻囲を受けることとなり、抗しきれずに天文17年(1548)1月に従属した。
しかし扇谷上杉氏再興の望みを捨てず、越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)に来援を求めた。永禄3年(1560)に謙信が北条勢力を攻めるために関東に侵攻(越山:その1)したときには北条氏より離反し、上杉勢の先陣として従軍している。
その後も一貫して北条氏に反抗を続け、永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2には里見氏と結んで臨んだが敗れ、その半年後の7月には子の氏資に叛かれて居城である岩付城を失った。
のち、常陸国の佐竹義重に属して小田氏治と戦い、常陸国片野城に拠って武蔵国奪還の機をうかがった。
天正18年(1590)5月、小田原征伐においては羽柴秀吉の陣を訪ねている。
天正19年(1591)9月8日、片野城で死去。70歳。法名は智正院獄雲道瑞大居士。梶原 政景(かじわら まさかげ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。岩付太田氏である太田資正の次男で、北条家臣として活動した太田氏資の異母弟。
西暦 : 1569以前
構造及び形式等 : 桁行三間、梁間四間、一重、両側面及び背面もこし付、寄棟造、茅葺、もこし板葺
創建及び沿革 :
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項 :
指定番号 : 01992
国宝・重文区分 : 重要文化財
重文指定年月日 : 1976.05.20(昭和51.05.20)
国宝指定年月日 :
追加年月日 :
重文指定基準1 :
重文指定基準2 :
所在都道府県 : 茨城県
所在地 : 茨城県取手市大字米ノ井
保管施設の名称 :
所有者名 : 竜禅寺
所有者種別 :
管理団体・管理責任者名 :
竜禅寺三仏堂
写真一覧
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解説文:
両側面と背面にもこしを付けた茅葺の三間堂(現在は軒支柱を立て、新しい建具を入れているので外観が損われている)。 禅宗様に和様を加えた様式からなり、地方色が濃厚。部材の保存がきわめてよく、かつ、旧痕跡が明瞭なので、当初の状態がよくわかる。関東地方における中世~近世の建築の流れを知るうえに貴重。天台宗に属し、釈迦、弥陀、弥勒の三尊を祀る。