公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

戦後日本の実験<他人の武器による繁栄は可能か>

2010-05-05 22:29:15 | 日記
「他人の武器は役に立たない。」
「この主題にぴったりの事例を旧約聖書から思い起してみたいと思います。ダヴィデはペリシテ人の闘士ゴリアテと闘うことをサウルに申し出ました。サウルは彼を勇気づけるため、彼に自分の武具を身に着けさせましたが、身に着けるとすぐ、ダヴィデはこれを断り、その武具を役に立てることができず、自分の投石器と短剣で敵と相い見えたいと言いました。つまり、他人の武具というものは、背からずり落るか、重荷になるか、身を固く縛りつけるかするものなのです。」

   マキャヴェッリ「君主論」第13章 『外国からの援軍、混成軍、自国軍について』
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(わたしの考え)
 マキャヴェッリはダヴィデがゴリアテと戦うときのサウル王の甲冑を引きあいにこうのべているが。
 ダヴィデの例を引くまでもなく、「他人の武器は役に立たない。」

 ところが日本は他人の武器で65年間やってきた歴史的にも例外的な国家である。独立国ではないという見解を示す学者もいるが、それは完全な間違いだ。もしやしたら買収されていたかもしれないが完全な独立国だ。独立国が他人の武器をどう活用したか。戦後日本と言う存在はマキャヴェッリもびっくりの大胆な実験だったとみて良い。他人の武器とはなんだろうか?もちろん米国の戦略核システムだ。

 この実験で得られた教訓は、使用されない武器ならば、他人の武器であっても平和と繁栄に貢献するという思いもよらぬパラドックスだった。この稀に見る”成功”のおかげで、日本人は他人の武器の危うさをすっかり忘却してしまった。

 しかし時代は変わった。武器は早晩使用される。敵は外にいるとは限らない。それは内戦かもしれない。ダヴィデの時代と同じ前提で我が国は世界に臨まなければならない。
 結論は明確である。
 <自分たち自身の制御できる武器>を持つべき。そういう外部環境に自分たちがいる事をまず国民が知るべき。自衛隊においては既に武器を持っているという議論もあるだろうが、軍隊のように見える外形に惑わされては本質認識を前に進めることができない。
 ああだこうだと、ここで時間を浪費すると深い迷いの森から出る事ができなくなる。これが最も危険だ。決断できない状態が最も危険な非武装なのだから。

 武器とは戦略であり法理であり、法であり外交であり諜報である。その次に人材であり、技術であり、教育そして狭義の武器である。
 相手が強勢である場合の最も有効な戦略は相手に無駄な時間を浪費させる戦略。いつでも無効に出来る高地に登らせて困難な砲台を築かせ撤退させること。
 これは簡単に言えば、反論できない大義名分による軍縮戦略だ。今日軍縮とは戦車や潜水艦のことではない。国外サーバーも軍縮の対象だ。わかる人にはわかるだろう。もちろん従わない場合の実力行使はできなければならない。
 自分たち自身の制御できる武器を持つために最初に行うべきことは、まず掃除である。

ご参考
ロックフェラー上院議員らしいやりかた QT 自動車安全対策怠れば、制裁金の上限撤廃 米上院が法案 http://www.asahi.com/international/update/0506/TKY201005060033.html
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