公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

大菩薩峠はやっと東海道まで

2015-05-01 18:07:02 | 今読んでる本
大菩薩峠はやっと東海道まで読み進む。
読むことが目的になって、あまり楽しめる状態じゃない。運命が濃すぎる。



とりあえずこの海は越えた。池波正太郎も浅田次郎も、中里介山、大菩薩峠を参考にしてることはよくわかる。


我を送る郷關の人、願くは暫し其『萬歳』の聲を止めよ。

靜けき山、清き河、其異様なる叫びに汚れん。
   (「乱調激韵」中里介山)

日露戦は初めて異様な叫びが日本の隅々に鳴り響いた時かもしれない。総力戦は世界のどこであっても異様だったのかもしれない。私達はそんなことさえ忘れてしまった。

大菩薩峠が大いに気に入らない人もいた。
中里介山の『大菩薩峠』 三田村鳶魚
『土方が大将になって清川を要撃する。ところが駕籠が間違っていて、中にいたのは、当時有数の剣客島田虎之助だから堪らない、皆斬りまくられてしまう。それはいいが、駕籠の中をめがけて刀を突っ込んでも、何の手応てごたえもない。これは島田が「乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備へ、待てと土方の声がかゝつた時分には、既に刀の下げ緒は襷に綾どられ、愛刀志津三郎の目釘は湿されて居た。空を突かした刀の下から、同時にサツと居合の一太刀で、外に振りかぶつて待ち構へて居た彼の黒の一人の足を切つて飛んで出でたもの」で、外の者は全くそれに気がつかなかったようになっている。いくら名人の剣術遣いでも、そんなおかしなことが出来得べきものではない。
 一二八頁には「島田虎之助は剣禅一致の妙諦に参し得た人です」と書いている。こんなことは全く書かいでもと思う話なので、参禅してどうなったかというと、「五年の間一日も欠かす事なく、気息を調へ丹田たんでんを練り、遂に大事を畢了ひつれうしました」と書いてある。これでは参禅というのは、気息を調えて丹田を練る、そうして大事を畢了する、というふうに読める。座禅というものが、まるで岡田式みたいなものになってしまう。こんなことは書かずにおく方がいい。もし参禅というものを、そうしたものだと思う人があったら、それこそ大変な間違いを惹き起すことになる。
 一方ではどういう心持か知らないが、「上求菩提じょうぐぼだい、下化衆生げけしゅじょう」という心持で小説を拵えているとか称する作者が、こんなことを書いたのを改めようともしないでいるのは、そもそも何の心持があるのか、少年高科に登るということは不仕合せであると、李義山の『雑纂』の中に書いてある。一体作者は奥多摩に生れた、最も素性のいい少年であって、今日立派に成人して、世間でも評判される人になってからよりも、その少年時代というものに、よほど美しい話を持った人だ。いつにも三多摩からは人が出ていない。われわれの知っている人でも、結構な人だと思う人は、多くは故人になってしまわれて、今残っているのは例の尾崎咢堂翁と、それより若いところでは、大谷友右衛門に中里介山さん、ということになってしまった。作者の心がけというものは、決して悪くなかったんだが、少年高科に登ったのが不幸であるように、この『大菩薩峠』の評判がよかったのが、作者にとって幸いであったか、不幸であったか。私はその後も時折作者に会うが、会うたんびに作者はえらい人になっている。それは郷党のために、喜ぶべきことであるかないか、むしろ気の毒なような気もする。』
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