公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読ん 「胡蝶の夢」司馬遼太郎 いまさらながらの読書

2024-02-21 06:39:26 | 今読んでる本

「胡蝶の夢」 司馬遼太郎は私が学生の頃に出版された本で、当時は勉強すべき本がたくさんあって

胡蝶の夢』(こちょうのゆめ)は、司馬遼太郎歴史小説。『朝日新聞』朝刊に1976年11月11日から1979年1月24日まで連載された。徳川幕府の倒壊と15代将軍慶喜の苦悩、また戊辰戦争での軍医としての松本良順順天堂出身の関寛斎の姿があざやかに描き出される。その一方で、記憶力と語学習得力は抜群ながら、人間関係の構築のまずさで不利を被っている島倉伊之助(後の司馬凌海)の姿が、この両者とは違った形で描かれている。幕末から明治維新の時期を政治でなく、医療の目から、またその医療を通しての身分制度批判という観点から見た作品である。

  • 『胡蝶の夢』新潮社(全5巻) 1979年
  • 『胡蝶の夢』新潮文庫(全4巻) 1983年、改版2005年
  • 『司馬遼太郎全集 40・41』(文藝春秋) 1983年
  • 『胡蝶の夢』全1巻(新潮社) 1997年

こんな分厚いだけの本は後で読めば良いと思って看過した。

40年以上経過し、ふと関又一


''関寛斎の息子(四男)の又一は、

明治9年4月25日生まれ。 

札幌農学校(北海道大学農学部の前身)卒業、学生の頃から北海道開拓の意欲に燃え、

卒業論文「十勝国牧場設計」を書く。寛斎の陸別開拓事業に協力、関牧場を開く。

明治39年12月17日に黒木美都子(十勝監獄典獄 黒木鯤太郎の長女)と結婚した。

 大正9年、陸別を離れて東京に移る。昭和23年2月21日 関又一逝去

明治34年 関又一斗満に入植。
明治35年 関寛斎、餘作と共に斗満に入植。
明治42年 淕別第一小学校開設(足寄教育所付属)
大正 8年 淕別村、利別村2村を分離淕別外1村戸長役場設置。

大正9年 関又一陸別を離れて東京に移る
大正12年 淕別2級村制実施、淕別村とする。村会議員12名選挙。
昭和23年 足寄郡釧路支庁により十勝支庁に編入。
昭和24年 淕別村(リクンベツ)を陸別(リクベツ)と改称。
昭和26年 斗満地区陸別村に編入(63平方メートル・戸数252・人口1,863人)
昭和28年 陸別町制施行。

関寛斎についてはこちらが詳しそうだ いずれ読んでみよう

 蘭学医・関寛斎平成に学ぶ医の魂 単行本 – 2011/11/1


という札幌農学校の卒業生の卒論が十勝(陸別)開拓計画であったことを知って、陸別と言えば弟子屈からみて阿寒の裏側、司馬遼太郎を久しぶりに読んでみようと思った。

司馬遼太郎は何かが違う、冒頭の原稿用紙20枚ほどに何らかの重要な象徴が描かれている。あたかも書家の最初に紙に置かれた墨痕のようにエネルギーに満ちた作家として振りかぶった熱いところがある。

 

本作にも佐渡の表現から、あっと思わせる。「佐渡は波の上」であるという膾炙された

佐渡「おけさ」
♪来いとゆうたとてゆかりょか佐渡へ、
佐渡は四十九里波の上

大人の言い回しにそんなはずはないと反発するもう一人の波乱の江戸明治期の主人公、伊之助の子供時代から始まる。佐渡は波の上とは、つまり佐渡の地質学ではなく、旅程 経済圏、佐渡民 人間の生業因習のことを指していることに祖父伊右衛門の言葉から気づかされる。

 

しかし登りきってみると海風が縦横に吹き、つかまっている松の木の西に海がひろがり、ふりかえると東も海であり、南も北もおなじく海で、かたわらの祖父に、 「佐渡は、これっきりか」  と念を押した。これっきりだ、と質屋をいとなむ伊右衛門は品さだめでもするように答えた。
伊之助はこのとき肝の冷えるような心細さを何とか嚙み殺すために、帰宅してから七言絶句の登高の詩をつくった。四百余州という大きな唐土にうまれても、絶海の孤島にうまれても、人間に変りがないというのはどういうことか、という奇妙といえば奇妙な詩だった。

 夷国と外国 昔から官僚は論点ずらしが得意だった。夷狄のはずが、砲艦外交を受諾することになり、攘夷は不可能ならば、夷国は外国と、にわかに呼ばれるようになった。

外国という新語が、最初に大きく公用語化されたのは、良順の実父の佐藤泰然の殿様である佐倉侯堀田正睦が、安政三年十月、老中の職のまま「外国御用取扱」を命ぜられたときからであろう。さらに安政五年、外国奉行が設けられて、一般化する。ともかくも御城に詰めている良順の耳に、外国という言葉が、日に何度となく入るようになった。  安政年間、幕府は、外国の技術の受け入れに積極的になりはじめた。諸藩にあっても、軍事と医学を中心に西洋をとり入れようとし、在野の洋学者をあらそって召しかかえた。さらには藩ごとに洋書を購入し、その翻訳をすすめはじめた。 (大変な時代になった)  と、良順は日ごと思わざるを得ない。」

「胡蝶の夢」

胡蝶の夢(こちょうのゆめ)は、中国戦国時代の蒙(現在の河南省商丘市民権県)生まれの思想家の荘子(荘周)による、夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのかといった説話である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、またその代表作として一般的にもよく知られている。「夢が現実か、現実が夢なのか?しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」と荘子は言っている。

同義的エピソード

邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、沈既済小説枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊邯鄲の夢など多数の呼び方がある。「盧生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く(邯鄲市は始皇帝の出身地)。盧生はそこで呂翁という道士に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うというを盧生に授ける。そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻したりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。

子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、寝る前に火に掛けた粥がまだ煮上がってさえいなかった。全てはであり束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。

中国においては粟のことを「黄粱」といい、盧生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語小説漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。

同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われることがなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。

 

良順が、身を焦がすほどの思いで望んでいるのは、自分が机上で習得したオランダ語を、長崎でやり直したいということであった。蘭方医学の基礎はオランダ語なのだが、江戸で書物ばかりを読んでいても、畳の上で水練を学んでいるよりもおぼつかなかった。海軍伝習の仲間に入れば、オランダ人そのものからなまのオランダ語をきくことができるのである。  右の諸事情についての情報をあつめているうちに、おどろくべきニュースを得た。目下、オランダから日本にむけて航海中の第二期教師団の中に、軍医も入っているという。その軍医の名は、のちに日本医学史上の重要な名前になる「ポンペ」(正しくは、ポンペ・ファン・メールデルフォールト)であったが、良順が情報をあつめている段階では名までわからなかった。 (その軍医に、医学そのものを学べば、自分の願望のすべてが解決する)  と思ったが、しかし老化した幕府秩序がそれを許すかどうか。それを思うと、良順の気分はつい滅入らざるをえない。


妓は、手を搏った。仲居をよぶためだった。こうも大酔してしまっている客の相手をつとめねばならないほどの義務は丸山の花魁になく、適当に仲居にまかせて寝かしつけてしまうのがふつうだった。が、仲居が来なかった。さらにはげしく手を搏った。「えっ」と、伊之助のほうが、音の刺激で大きく目をひらき、その瞬間、どういうわけか、佐渡の金北山の頂上にいる自分に化った。伊之助は十歳のときに祖父につれられてこの佐渡における修験の聖地にのぼり、未明に頂上に立って、雲海を赤く染めて昇る陽をおがんだことがある。そのとき同行した山伏が大日経の一部を高唱したのを、伊之助は覚えてしまった。その記憶はその後持続しなかったが、このとき大酔して十歳のそのときの伊之助に化ってしまったために、頂上できいた経文が抑揚とともに口をついて出、しばらくつづいた。翌朝、目をさましたとき、この記憶は無い。(第二巻につづく)

司馬 遼太郎. 胡蝶の夢(一)(新潮文庫) (p.387). Kindle 版. 


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