ずっと前に買ったのに行方不明になっていた本を読む。
これがまた面白い。
吉本隆明の芥川評論というのは知らずに来たけれど、
「出身圏への安息感を拒否する」ことが彼を最終的に死に追いやった。という吉本隆明の芥川に対しての階層上昇の破綻という見方は実に面白い。革命家は詩人と同じ運命を辿る。詩の失敗として日本人の精神の歴史を叙述分析した先駆者吉本隆明は偉大である。
吉本隆明のわが「転向」はどうしようもない失敗作だろう。彼は何を間違えたか、連合赤軍の死刑判決を二つの理由で不可抗力であり考慮の余地があると1993年の時点で信じているという点である。第一に人工的死刑に反対であるということ、第二に信仰やイデオロギーは例外なく仲間同士で殺し合うということ。15人も殺しておいて、考慮の余地などない。百歩譲ったとしても、彼らは最後はいつでも投降できたが、それは選択せず、警官を殺した。矢カモのように、1993年の事件で面白遊びでカモをクロスボーで撃った事件があり、犯人は特定されたが、大学生だった。同じくイタリアで女子学生6人がイラン人1人、あるいは2人にレイプされたという騒動があった。老いも若きも何かを見失っている。米騒動のあった年だった。
下層階級にとって構成的表現がどんなに退屈なものかよくわかる気がした。詩人は群衆の中で孤独である。前にも書いたが私の場合、
貧乏生活の悪環境が“思わぬ恩恵”をもたらしてくれた。我が家は父が化粧品営業、母が風呂屋の住み込みのボイラー罐焚きだったので、ボイラー室にはオーナーの家族が雑誌や本を捨てに来る。そんな中にリーダーズダイジェストという月刊の大人の本が混じっていた。販売方法が引っ掛け的な通販ではあったが、中味は正当派でこれが結構面白い。大人の性的ジョークが堂々と英語と翻訳で印刷されている。アメリカンジョークのつまらなさを我慢しながら読んでると、たまに新作で、まだ翻訳が出版されていない「カモメのジョナサン・リビングストーン」なんかがもちろん要約の翻訳だが載っている。五木寛之が翻訳するずっと前だ。平櫛田中もまだ生きていてリーダイで知った。
つまり捨てられるゴミが自分の教科書であり、オモチャだった。捨てられるオモチャの修理も勉強になった。学校なんかよりよほど面白い。これが教えることは。以下の通り。
この学びのやり方はランダムだから、体系的に初級からやってはこない。いきなり応用編だ。マンガ本も続き物では読めなかった。先が読めない。想像するしかない。
初級編がない、先が読めない。まさにそれが人生である。子供にとって、このやり方のアクティブラーニングは最初は苦しいが、平凡社の国民百科事典も手元にあったし、これで調べるのが面白くて隅から隅まで読んだ。この方法は生涯続けることが可能である。ホリエモンの家にはこれがあったそうだが、当時は国民の知識欲が高くて、貧乏人もローンで買っていた。
詮索好きな今の読書姿勢にも子供の頃の体験が関係している。初級編が無く、先も結末も想像するしかない人生は、ベンチャーにも言える。
五木 僕は、本を声に出して読むことが非常に大事だと思っているんですよ。昔はヨーロッパでも日本でも、活字というのは必ず声に出して読んでいたんですね。それこそ、『論語』でも『日本書紀』でも、耳で聞いて声に出して学んだものです。黙読という習慣はある意味、現代の病かもしれないとすら思うことがある。ところで、あなたの本に詩は出てこないけれど、詩についてはいかがですか?