公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

田中正造

2016-04-24 18:27:11 | 日記

『今日の政府──伊藤さんが出ても、大隈さんが出ても、山縣さんが出ても、まア似たり格恰の者と私は思ふ、何となれば、此人々を助ける所の人が、皆な創業の人に非ずして皆な守成の人になつてしまひ、己の財産を拵へやうと云ふ時代になつて來て居りますから、親分の技倆を伸ばすよりは己の財産を伸べやうと云ふ考になつて、親分が年を取れば子分も年を取る、どなたが出てもいかない。此先きどうするかと云へば、私にも分らない。只だ馬鹿でもいゝから眞面目になつてやつたら、此國を保つことが出來るか知らぬが、馬鹿のくせに生意氣をこいて、此國を如何するか。私の質問はこれに止まるのでございます。』


国会議員としての田中正造の言葉である。辛辣である。これほどのことをぶつけられる議員は今いないだろう。


『姓氏』(樋口清之監修・丹羽基二著)によると、『尊卑文脈』に記している岩松氏の一族という。足利義純の子の田中時朝(時兼の弟、泰国の兄)が田中次郎と称し、足利郡田中郷に定着したと伝わる。子の時国、孫の満国は足利尊氏に従い、戦功を立てて正造の代まで至ったという。wiki
先祖が近かったとは知らなかった。

『直訴状田中正造     謹奏田中正造 ㊞


草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ陛下深仁深慈臣ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[+近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[久シク→之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。[而シテ鉱業ノ益々発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク加フルニ→加フルニ]比年山林ヲ濫伐シ[+煙毒]水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身[+激]変シテ洪水[頻ニ臻リ→又水量ノ高マルコト数尺]毒流四方ニ氾濫シ毒[屑→渣]ノ浸潤スルノ処…



… 臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。

明治三十四年十二月 草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首 ㊞


底本:「田中正造全集 第三巻」岩波書店   1979(昭和54)年1月19日発行※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された。ファイル中では、田中によって手直しされた箇所を、「[]」におさめて示した。「→」の元が幸徳案、先が田中による変更。「+」は田中による加筆、「-」は削除箇所である。』



欧米産業の真似事しか政策になかった時代に、このような偉人を得たことは國民の誇りである。しかし今日に至っても、叙位も叙勲もない。

幸徳秋水が作文に手を貸していたとは、今の今まで知らなかったが、この偉人がどうして無一文で死んだのだろう。

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