元祖原風景の文学評論家であり科学技術者麻布中、吉行淳之介や北杜夫を知る。『夜の文壇博物誌』によると大塚英子の客であったらしい。
文学のトポロジーと言う奥野作品もある。それによると場所と自分との関係が私的小説である。私の奥野建男解釈は自分自身との関係の捨て場所抜け殻が小説であると思う。故に文学読書とは間接的自己関係の化石発掘であり、貝殻拾いである。時に重いトポスの地層的重なりの再構成であり、時に仮初めの居場所の発見である。科学者が大いに苦しんで仮説を捨てるように文学者は捨てるのは生の自己執着全般である。生きながら死んで自分を排泄するのが文学者の仕事である。
奥野 健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25日-1997年〈平成9年〉11月26日)は、文芸評論家・化学技術者。多摩美術大学名誉教授。父は最高裁判事の奥野健一。
経歴
東京に生まれる。東京府青山師範附属小学校を経て、麻布中学校に在学中、小山誠太郎に感化され自然科学、就く天文学、有機化学に興味を抱く。同時期、吉行淳之介や北杜夫を知る。部活動は北と共に理科学研究部博物班(現・生物部)に所属していた。1947年(昭和22年)東京工業大学附属工業専門部化学工業科卒、1953年(昭和28年)東工大化学専攻(旧制)卒。遠山啓に科学全般を、岩倉義男に高分子化学を学ぶ。在学中の1952年(昭和27年)に『大岡山文学』に『太宰治論』を発表し、注目される。卒業後、東芝に入社し、印刷回路積層板の研究からトランジスタの開発に取り組む。1959年(昭和34年)に大河内記念技術賞を、1963年(昭和38年)に科学技術庁長官奨励賞、1964年(昭和39年)に特許庁長官賞受賞を受賞する。
1954年(昭和29年)に服部達らと『現代評論』を、1958年(昭和33年)に吉本隆明らと『現代批評』を創刊し批評活動を行なう。1960年代前半に、「政治と文学」というプロレタリア文学以来の観念を厳しく批判し、民主主義文学を否定したことで、文学論争の主役となった。
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