ソロスが<開かれた社会>を論じるはるか昔、18世紀の半ばにモンテスキューは自由をどのように保証するかという社会分析を行っている。この時代は啓蒙主義がドンドン力をつけていた時代だから、言っていることは非常にのどかである。権力の抑制と自由との緊張関係の均衡について、言うまでもなく現代が権力の分立と言っているものに相当することも言っているが、権力者の徳についても不可欠な要素と言っている。(この18世紀の自由という言葉の意味も、後にドラッカーが導入する人間の不完全さを補う責任の体系としての自由とは全く異なる、権威からの自由、圧政からの自由というもの)
啓蒙主義の時代まで遡ると、自由は至上の価値で、自然的権利であるから、それをどのようにして王侯貴人から奪い獲得してゆく仕組みを、どのように保証するかという逆算で権力分立の論理が立てつけられている。<開かれた社会>は人類に可能性を残す社会と私は解釈する。この個人的仮定に従うならば、(ソロスは必ずしも明言していない。もしかするとこの仮定はソロスの言う社会とは違うかもしれないが)現代の典型的民主主義と呼ばれる代議制民主主義は99%の市民の可能性を蒸発させている。自由はもともと空っぽだからその蒸発には気づきにくい。
啓蒙主義の伝統の立場から正しいあり方ではないとみなされるとも、金科玉条にしている三権分立や代議制民主主義が、人類に可能性を残すに十分な自由を保証していないのならば、21世紀には捨て去る時期が到来するのではないだろうか。
デカルトもイエズス会系の大学出身だったことは偶然ではない。ヒュームらのスコットランド啓蒙主義の系譜にマルクスがいて、アダム・スミスを介して経済学批判体系を組み立てたのも偶然ではない。歴史的にスコラ哲学とローマ・カトリック教義に対して無神論的啓蒙主義を隠した理性主義・合理主義による信教の普遍性を破壊する戦いが先行している。
ここでモンテスキューのように逆算で論理を立てつければ、世界の経済成長の40%を1%の市民が専有する社会(ここ数年OECDの経済成長の分配を平均しても1%と99%の分配比は4:6、江戸時代の四公六民の状態)は99%の市民にとって、多少辛抱していれば自由な社会ではあるかもしれないが、次の新しい世代に渡す富の分け前がなく、新しい社会や風習や文化風土、価値創造の機会、新産業や教育機会を奪われれば、地上の世界はもはや99%の人類に可能性を保証する富のない社会となるだろう。
可能性を将来世代に残す<開かれた社会>を選ぶのならば、もはやモンテスキュー型の民主的権力分立ではないかもしれない。なぜならヒトラーもワイマール憲法のもとに台頭し、イラクもリビアもシリアも合法な専制を築き上げ、そしてまた人類の理想を代弁する民主主義の価値観の殿堂である国連と米国により民主的かつ分権的かつ合法的にイラクもアフガンもリビアもシリアも市民をターゲットとする無差別空爆が許可された。こうした行為は何をもって民主主義の実現のためと正当化すべきなのだろうか。
モサドやCIAが育てたバグダディらテロリストやテロ組織を反政府義勇兵として育て野に下し、手に負えなくなると市民もろともに空爆殺戮する。現代のゲルニカは白黒の対比固定のないオセロの駒のような敵味方が万華鏡の中で激変する様相である。リビア一つを見ても爆撃は過ちであり、緑の書の方がリビア国民のための言葉である。
『【カイロ秋山信一】イラクのクルド系メディア「ルダウ」は、過激派組織「イスラム国」(IS)のバグダディ指導者の居宅に拘束されていたとされる少数派ヤジディー教徒の女性(21)の証言を報じた。女性はバグダディ指導者について「物静かで読書好きだった。英語で話しかけてきたこともあった」などと語った。』
そういう意味では、ソロスが中国に肩入れする謎が解けるような気がする。中国に権力分立はない。しかしモンテスキュー型の貴族階級が専制の緩衝となる君主制下の権力者の徳を頼りにする<開かれた社会>は、かつての超人を期待するファシズム以外にはナポレオン時代しか思い浮かばない。平成51年(2039年)の未来を説いたというこの人の予言をたどることになろうとは、ソロスの生い立ちからするならそれは本人も隠したい、とても皮肉な結論かもしれない。
さて産業に目を移すと、創業は知識資源の枯渇しそうな客観世界をはなれ、無限に創作できるサイバー世界に立脚点を移している起業家しか育たないのはピタリこの流れで理解できる。彼らは非常に正直に力の移動を感じている。知識は力という科学技術時代の上には、すでに新しい地層が堆積を始めている。次の地層は知識をベースとした価値創造のコミュニケーション・インターフェイス(CIF)を持つ者が産業に力を持つ時代だろう。昔は車や飛行機を造っていれば支配できた産業も、CIFに支配されるようになる。<開かれた社会>はそこには無い。すべてがビックブラザーによって操作済みの現実(需要予測、仕入れ機会)から始まる。支配する力を持ち続けたいと願っていることはどんな説教をしても変わることはないだろう。であれば、操作されないfactsに知識を回帰したり理性的に分析したり予想したりする役割は産業の誰の役割になるだろうか。支配するために私は嘘をつきませんと自己定義する者、格付け機関や代理者が最も信用出来ない。
啓蒙主義の時代まで遡ると、自由は至上の価値で、自然的権利であるから、それをどのようにして王侯貴人から奪い獲得してゆく仕組みを、どのように保証するかという逆算で権力分立の論理が立てつけられている。<開かれた社会>は人類に可能性を残す社会と私は解釈する。この個人的仮定に従うならば、(ソロスは必ずしも明言していない。もしかするとこの仮定はソロスの言う社会とは違うかもしれないが)現代の典型的民主主義と呼ばれる代議制民主主義は99%の市民の可能性を蒸発させている。自由はもともと空っぽだからその蒸発には気づきにくい。
啓蒙主義の伝統の立場から正しいあり方ではないとみなされるとも、金科玉条にしている三権分立や代議制民主主義が、人類に可能性を残すに十分な自由を保証していないのならば、21世紀には捨て去る時期が到来するのではないだろうか。
デカルトもイエズス会系の大学出身だったことは偶然ではない。ヒュームらのスコットランド啓蒙主義の系譜にマルクスがいて、アダム・スミスを介して経済学批判体系を組み立てたのも偶然ではない。歴史的にスコラ哲学とローマ・カトリック教義に対して無神論的啓蒙主義を隠した理性主義・合理主義による信教の普遍性を破壊する戦いが先行している。
ここでモンテスキューのように逆算で論理を立てつければ、世界の経済成長の40%を1%の市民が専有する社会(ここ数年OECDの経済成長の分配を平均しても1%と99%の分配比は4:6、江戸時代の四公六民の状態)は99%の市民にとって、多少辛抱していれば自由な社会ではあるかもしれないが、次の新しい世代に渡す富の分け前がなく、新しい社会や風習や文化風土、価値創造の機会、新産業や教育機会を奪われれば、地上の世界はもはや99%の人類に可能性を保証する富のない社会となるだろう。
可能性を将来世代に残す<開かれた社会>を選ぶのならば、もはやモンテスキュー型の民主的権力分立ではないかもしれない。なぜならヒトラーもワイマール憲法のもとに台頭し、イラクもリビアもシリアも合法な専制を築き上げ、そしてまた人類の理想を代弁する民主主義の価値観の殿堂である国連と米国により民主的かつ分権的かつ合法的にイラクもアフガンもリビアもシリアも市民をターゲットとする無差別空爆が許可された。こうした行為は何をもって民主主義の実現のためと正当化すべきなのだろうか。
モサドやCIAが育てたバグダディらテロリストやテロ組織を反政府義勇兵として育て野に下し、手に負えなくなると市民もろともに空爆殺戮する。現代のゲルニカは白黒の対比固定のないオセロの駒のような敵味方が万華鏡の中で激変する様相である。リビア一つを見ても爆撃は過ちであり、緑の書の方がリビア国民のための言葉である。
『【カイロ秋山信一】イラクのクルド系メディア「ルダウ」は、過激派組織「イスラム国」(IS)のバグダディ指導者の居宅に拘束されていたとされる少数派ヤジディー教徒の女性(21)の証言を報じた。女性はバグダディ指導者について「物静かで読書好きだった。英語で話しかけてきたこともあった」などと語った。』
そういう意味では、ソロスが中国に肩入れする謎が解けるような気がする。中国に権力分立はない。しかしモンテスキュー型の貴族階級が専制の緩衝となる君主制下の権力者の徳を頼りにする<開かれた社会>は、かつての超人を期待するファシズム以外にはナポレオン時代しか思い浮かばない。平成51年(2039年)の未来を説いたというこの人の予言をたどることになろうとは、ソロスの生い立ちからするならそれは本人も隠したい、とても皮肉な結論かもしれない。
さて産業に目を移すと、創業は知識資源の枯渇しそうな客観世界をはなれ、無限に創作できるサイバー世界に立脚点を移している起業家しか育たないのはピタリこの流れで理解できる。彼らは非常に正直に力の移動を感じている。知識は力という科学技術時代の上には、すでに新しい地層が堆積を始めている。次の地層は知識をベースとした価値創造のコミュニケーション・インターフェイス(CIF)を持つ者が産業に力を持つ時代だろう。昔は車や飛行機を造っていれば支配できた産業も、CIFに支配されるようになる。<開かれた社会>はそこには無い。すべてがビックブラザーによって操作済みの現実(需要予測、仕入れ機会)から始まる。支配する力を持ち続けたいと願っていることはどんな説教をしても変わることはないだろう。であれば、操作されないfactsに知識を回帰したり理性的に分析したり予想したりする役割は産業の誰の役割になるだろうか。支配するために私は嘘をつきませんと自己定義する者、格付け機関や代理者が最も信用出来ない。
最後に戦争の真実を引用しておく
カタロニア讃歌より
『塹壕戦には、大事なものが五つある。薪と、食糧と、たばこと、ろうそくと、それに敵だ。冬のサラゴサ戦線では、大事さもその順番どおりだったが、敵だけは、いなければそれに越したことはなかった。いつなんどき奇襲があるかわからない夜は別として、敵のことなど気に病むものはひとりもいなかった。敵とは、時おり、あちこちにはねているのが見える、遠くの虫けらにすぎなかった。敵味方両軍にとって何よりの関心事は、どうやって暖をとるか、ということだった。
ついでに言っておくほうがよいだろうが、スペインにいたあいだじゅう、私は、およそ戦闘らしい戦闘を見かけたことはほとんどない。一月から五月までアラゴン戦線にいたが、その方面では、一月から三月下旬にかけて、テルエル地方を除いて、ほとんど、いや、まったく、何も起こらなかった。もっとも、三月にはウエスカ付近で激戦があったが、私個人としては、取りたてていうほどの働きをしたわけではなかった。その後六月になって、凄惨なウエスカ攻防戦が展開され、わずか一日で数千人の戦死者が出たが、私はその戦いの始まる前にすでに負傷して、不具者となっていた。ふつう、戦争の恐怖と考えられているようなことは、私にはまず起こらなかった、と言ってよい。空爆の至近弾を食らったこともなければ、五十ヤード以内の至近距離に、砲弾が炸裂したこともなかったように思う。』