■倉本聰さんのメッセージ
これは一体、誰に対する文章なのか。先生に対する文章なのか。それとも本日、ご参集の皆様に対する文章なのか。それくらい考えてから筆をとりなさいと、先生に一喝されそうなので、先生へのお手紙として書かせていただきます。
先生から何度か、おはがきをちょうだいしました。ですから、先生の、あの特徴ある筆跡は今も心に焼き付いています。にもかかわらず、このグレーにして不肖の弟子は、いつも返信を電話ですませ、一度も筆をとった記憶がございません。何とも恥ずべきことであります。
これまた、一喝されてしまいそうなのですが、あえて言い訳させていただければ、手紙といえども下手な文章を先生にお見せすることが恥ずかしかったことと、何より一刻も早く先生の優しい声に一刻も早く触れたかったからであります。
先生のことを「瞬間湯沸かし器」と周囲が恐れているとよく耳にしましたが、一度たりともそんな失礼な感想をいだいたことがありませんでした。
瞬間湯沸かし器という当時、最新の電化製品にたとえて言うなら、僕自身もまた、時代とともに刻々と進化した、さらに高速の瞬間湯沸かし器でありまして。要すれば、それは確たる座標軸を持たず、理不尽、無秩序に急変していく社会に対して導火線の短い短導火線の火縄銃が、意に反してついつい火を噴いてしまう。そのことに自分もびっくりしてしまう。周囲はもっとびっくりしてしまう。そういうことではなかったかと、奥様、佐和子嬢、僕はそのように解釈しています。先生と同族の短導火線の火縄銃として、先生になりかわりおわびいたします。
ユーモアあふれる巨大な師でした。若いころ書かれたユーモア小説に、主人公の愛車である古いシトロエンだか、ルノーだったか、朝、簡単にエンジンがかからず、そのうちフランス語で「Oui(ウイ)、Oui 、Oui…、Non(ノン)、Non、Non…」。ようやく始動する描写など。先生の面目躍如たるユーモア感覚の横溢(おういつ)に大いに啓蒙(けいもう)されたものであります。
僕が先生に初めてお目にかかったのは、ご著書『あひる飛びなさい』をNHKで『あひるの学校』という連続ドラマに脚色させていただいた40年前のことでした。
その時、キャスティングのご相談をしたら「男優では芦田伸介。女優では宮城まり子と黒柳徹子。それ以外は知らない」という浮き世離れしたご返答で、何だかワクワク、うれしくなったことを記憶しています。何しろその少し前、勝新太郎が中村玉緒と結婚したというニュースを「タマオ」という男優が「シンタロウ」という芸者を嫁にしたと思い込んでいたとのことですから、うれしくならないほうがどうかしている。
その先生が、こと恩師である志賀直哉先生のことになると、突如いずまいを正され、言葉遣いまで変わってしまわれるので、僕も慌てて背筋を伸ばし、きちんと正座してお話をうかがいながら、「絶対服従の師を持つ男はなんと美しいたたずまいを持つものか」と驚嘆し、そして、あこがれたものです。
そして、僕自身も阿川先生を心の師として持つことに決めました。先生は決して堅い方ではなく、ばくちが大好きで賭け事となると目の色、人格まで瞬く間に変わる、短導火線の火縄銃に変身なさいました。旧東海道線で名古屋までご一緒した時、トランプも花札も手元になかったことにいらだたれ、僕に持っていた本を出させて、ぱっとページを互いにめくっては、そのページの数字の合計で、夢中になっておいちょかぶに励み、思わず声が大きくなって車掌に怒られたこともありました。
『あひるの学校』がスタートした時、これは戦後日本初の国産旅客機「YS-11」の誕生物語で、飛行機の大権威、木村秀政博士をモデルにしたものだったのですが、その制作パーティーを阿川先生のご自宅で開いてくださいました。
十朱幸代、加賀まりこ、芦田伸介など、そうそうたるメンバーが集まり、木村博士もお見えになったのですが、宴たけなわになるや阿川先生は「飛行機の権威もおられることだし、これからみんな千円札を出して、そのお札で紙の飛行機を折り、誰が一番飛んだか、一番飛んだやつが総取りしよう」。
のちの芸術院会員にあるまじきとんでもない提案をなさり、さあ、それからは全員が盛り上がって、紙幣の飛び交う一夜になりました。
もう20年以上前になりますか。先生の家で飲んで盛り上がった時、何かの弾みで不肖の弟子は酔っ払い、「奥さん、先生の葬式は明るく、盛大に盛り上がりましょうね」と僕がいったら「冗談じゃない。俺の葬式は静かにやるんだ。クラソウ(僕のことを先生は親しく「クラソウ」と呼んでくださっていました)なんか絶対、呼ぶんじゃない」。そこで僕がまた、調子に乗って「なあに先生は死んじゃっているんだから。どんなに怒ったって何も言えない。やりましょう、やりましょう。盛大に飲んで、朝までばくちやって」。たばこの箱が飛んでできましたが、先生は最後まで楽しそうでした。
そして、先生は逝ってしまいました。
「盛大に葬式をやろう」と言った、言い出しっぺの僕は、しかも、今日の会を失礼しています。先生、ごめんなさい。寂しいです。僕は先生が大好きでした。もう先生の導火線も、もう眠っていらっしゃるのでしょうか。どうか安らかにお眠りください。
これは一体、誰に対する文章なのか。先生に対する文章なのか。それとも本日、ご参集の皆様に対する文章なのか。それくらい考えてから筆をとりなさいと、先生に一喝されそうなので、先生へのお手紙として書かせていただきます。
先生から何度か、おはがきをちょうだいしました。ですから、先生の、あの特徴ある筆跡は今も心に焼き付いています。にもかかわらず、このグレーにして不肖の弟子は、いつも返信を電話ですませ、一度も筆をとった記憶がございません。何とも恥ずべきことであります。
これまた、一喝されてしまいそうなのですが、あえて言い訳させていただければ、手紙といえども下手な文章を先生にお見せすることが恥ずかしかったことと、何より一刻も早く先生の優しい声に一刻も早く触れたかったからであります。
先生のことを「瞬間湯沸かし器」と周囲が恐れているとよく耳にしましたが、一度たりともそんな失礼な感想をいだいたことがありませんでした。
瞬間湯沸かし器という当時、最新の電化製品にたとえて言うなら、僕自身もまた、時代とともに刻々と進化した、さらに高速の瞬間湯沸かし器でありまして。要すれば、それは確たる座標軸を持たず、理不尽、無秩序に急変していく社会に対して導火線の短い短導火線の火縄銃が、意に反してついつい火を噴いてしまう。そのことに自分もびっくりしてしまう。周囲はもっとびっくりしてしまう。そういうことではなかったかと、奥様、佐和子嬢、僕はそのように解釈しています。先生と同族の短導火線の火縄銃として、先生になりかわりおわびいたします。
ユーモアあふれる巨大な師でした。若いころ書かれたユーモア小説に、主人公の愛車である古いシトロエンだか、ルノーだったか、朝、簡単にエンジンがかからず、そのうちフランス語で「Oui(ウイ)、Oui 、Oui…、Non(ノン)、Non、Non…」。ようやく始動する描写など。先生の面目躍如たるユーモア感覚の横溢(おういつ)に大いに啓蒙(けいもう)されたものであります。
僕が先生に初めてお目にかかったのは、ご著書『あひる飛びなさい』をNHKで『あひるの学校』という連続ドラマに脚色させていただいた40年前のことでした。
その時、キャスティングのご相談をしたら「男優では芦田伸介。女優では宮城まり子と黒柳徹子。それ以外は知らない」という浮き世離れしたご返答で、何だかワクワク、うれしくなったことを記憶しています。何しろその少し前、勝新太郎が中村玉緒と結婚したというニュースを「タマオ」という男優が「シンタロウ」という芸者を嫁にしたと思い込んでいたとのことですから、うれしくならないほうがどうかしている。
その先生が、こと恩師である志賀直哉先生のことになると、突如いずまいを正され、言葉遣いまで変わってしまわれるので、僕も慌てて背筋を伸ばし、きちんと正座してお話をうかがいながら、「絶対服従の師を持つ男はなんと美しいたたずまいを持つものか」と驚嘆し、そして、あこがれたものです。
そして、僕自身も阿川先生を心の師として持つことに決めました。先生は決して堅い方ではなく、ばくちが大好きで賭け事となると目の色、人格まで瞬く間に変わる、短導火線の火縄銃に変身なさいました。旧東海道線で名古屋までご一緒した時、トランプも花札も手元になかったことにいらだたれ、僕に持っていた本を出させて、ぱっとページを互いにめくっては、そのページの数字の合計で、夢中になっておいちょかぶに励み、思わず声が大きくなって車掌に怒られたこともありました。
『あひるの学校』がスタートした時、これは戦後日本初の国産旅客機「YS-11」の誕生物語で、飛行機の大権威、木村秀政博士をモデルにしたものだったのですが、その制作パーティーを阿川先生のご自宅で開いてくださいました。
十朱幸代、加賀まりこ、芦田伸介など、そうそうたるメンバーが集まり、木村博士もお見えになったのですが、宴たけなわになるや阿川先生は「飛行機の権威もおられることだし、これからみんな千円札を出して、そのお札で紙の飛行機を折り、誰が一番飛んだか、一番飛んだやつが総取りしよう」。
のちの芸術院会員にあるまじきとんでもない提案をなさり、さあ、それからは全員が盛り上がって、紙幣の飛び交う一夜になりました。
もう20年以上前になりますか。先生の家で飲んで盛り上がった時、何かの弾みで不肖の弟子は酔っ払い、「奥さん、先生の葬式は明るく、盛大に盛り上がりましょうね」と僕がいったら「冗談じゃない。俺の葬式は静かにやるんだ。クラソウ(僕のことを先生は親しく「クラソウ」と呼んでくださっていました)なんか絶対、呼ぶんじゃない」。そこで僕がまた、調子に乗って「なあに先生は死んじゃっているんだから。どんなに怒ったって何も言えない。やりましょう、やりましょう。盛大に飲んで、朝までばくちやって」。たばこの箱が飛んでできましたが、先生は最後まで楽しそうでした。
そして、先生は逝ってしまいました。
「盛大に葬式をやろう」と言った、言い出しっぺの僕は、しかも、今日の会を失礼しています。先生、ごめんなさい。寂しいです。僕は先生が大好きでした。もう先生の導火線も、もう眠っていらっしゃるのでしょうか。どうか安らかにお眠りください。