公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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「岸信介の回想」岸信介 矢次一夫 伊藤隆

2017-04-13 08:37:00 | 今読んでる本

戦後は昭和の妖怪などと言われた岸信介だが、合いの手を入れる矢次一夫のほうがよほどの妖怪というか、昭和の政治と官僚機構に関して博覧強記を発揮した対談となっている。回想録とはちがったジャーナリスティックな質問があふれているのでこちらのほうが読み物としては面白いかもしれない。





矢次の今で言うオタクぶりは、この対談ではほとんど岸は矢次の博覧強記脱線を無視している。社会党に合流しようとしたり、公職追放解除後の復帰と、期待のエースとしての再登場軋轢も面白い。

対談が行われた頃のアイドル グラビアアイドルの嚆矢 アグネス・ラム

戦後の日韓交渉にも顔を出すこの矢次一夫という人物に昭和史的興味があってもう一度、昭和の統制経済を見ておくのには生の(都合よく加工されていることを前提に)現場を垣間見ることができる。統制経済下で中小企業はとんどん潰されて労働力の再配置が行われたが、戦後中小企業政治連盟の総裁をやっている岸信介は妖怪というか、柔軟であり厚顔である。ここは田布施のノブレス厚顔と呼んでおこうか。

矢次が仄聞と断って、天皇陛下の御下問を振り返っているが、面白いのが張作霖の某殺謀略に関してかなり厳しく叱責したとある「国は信用も権威も維持すべきだが、どちらも同時に得られないときは信用を残すべきだ。」という陛下のご意見だ。陛下は終戦の詔勅を除いては、一貫して表で政治的裁可はなさらなかった。信じられないが明治憲法下でもそのような習わしだったらしい。

矢次一夫(やつぎ かずお、1899年7月5日 - 1983年3月22日)は、大正・昭和期の日本の、労働運動家・浪人政治家・フィクサー。昭和研究会と並ぶ、民間の国策研究機関「国策研究会」の創立者の一人。大宅壮一は彼を「昭和最大の怪物」と評した。

このインタビューは1978年昭和五十三年〜1981年五十六年にかけてのものであるから、矢次は早い時期でも79歳のはず。ボケない人は明晰だなあ。1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の幕僚・池田純久少佐*と結んで、国策の立案に着手。総合的な政策研究組織の必要を感じ、8年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。岸信介とはそのあたりからの縁であろう。1956年(昭和31年)、訪台した矢次は蒋介石中華民国総統と会談。日韓関係の改善を求める。日台韓の反共連盟の強化を目指していたとされる。1957年(昭和32年)、日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使が岸信介首相と接触。1958年(昭和33年)5月、岸信介の個人特使として訪韓。李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診。

*池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月15日 - 1968年(昭和43年)4月30日)
『1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、同局課員(徴募課)を経て、1929年(昭和4年)4月から1932年(昭和7年)3月まで、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で学んだ。在学中の1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進。東大修了後、軍務局課員(軍事課)となる。この頃、陸軍省新聞班発行『国防の本義と其強化の提唱』の原案作成者の一人となる。1934年(昭和9年)10月から1935年(昭和10年)3月まで欧米出張。1935年8月、歩兵中佐に進級し軍務局付となり、同年12月、支那駐屯軍参謀に着任。』半藤の引用『池田「われわれは軍内の特定の将軍(この場合は荒木貞夫大将をさします)をかついで革新をやる考えは適当でないと思う。
軍の組織全体を生かし動かし、一糸乱れぬ統制のもとで革新に進みたいのだ」『『国防の本義と其強化の提唱』(こくぼうのほんぎとそのきょうかのていしょう)とは1934年(昭和9年)10月に陸軍省新聞班が発行したパンフレット。B6判56頁、約60万部を刊行。』『たたかいは創造の父文化の母』ではじまる。

こういうところから「統制派」という名称が出るのですが、軍を統制してひとつになって革新をしたい、という主張です。
対して相沢中佐は

相沢「革新が組織で動くと思うなら認識の不足である。
ドイツを見よ、ヒトラー総統は伍長ではなかったか!
彼は下士官の身をもって全ドイツを動かしたのだ。
つまり革新は、組織というよりむしろ個人の力でやるものだ」』

大まかには統制派とは官僚主導である。

このくらい矢次一夫は岸信介の懐刀だった。
元読売新聞記者の橋本文夫は、矢次をこう評している。『黒幕と言われる他の人々、例えば児玉誉士夫や小佐野賢治らは利害関係にある人達としか交際はなく、彼等の知り得る情報は彼らの企業の利益に必要なものに限られている。小林中・荻原朔太郎・笹川良一にして然りである。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。』昭和史を動かす男矢次一夫 (1980年) , 1980/9 橋本 文男 (著)

その出発点は1925年(大正14年)に、労働事情調査所を創立して労働週報を発刊。野田醤油争議、共同印刷争議、日本楽器争議などの大争議の調停にあたり、辣腕を振るう。調停の過程で、無産運動家から軍人まで幅広い人脈をつかみ、その能力を買われ、陸軍との繋がりを持ったことにあった。つまり当時アカを扱うにはノウハウが必要だったということだろう。しかし戦後、政治家は情け無い状況になって蔑みの対象となった。


『昔の労働争議の思い出』国策研究会 1956
『この人々 私の生きてきた昭和史』光書房 1958

この辺は読んでみる価値がありそうだ。

岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)このインタビューは1978年なので、82歳か記憶もはっきりしてるし元気だよね。矢次は三歳若い。

続き


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