マネジメント上のリスクの中立的定義は『組織の収益や損失に影響を与える不確実性』である。
其の反対語は、確実性ということになる。
しかし一般には単にリスク=危険と理解されているので、反対語は安全になる。
ナイトの定義
ナイトにとってのリスクとは 、結果の確率分布を導くことが可能で 、その結果 、人々が保険をかけることができるような状況である 。ナイトによれば 、不確実性とは 、このような確率分布が存在しないような状況である 。したがって 、ケネス ・アロ ー ( A r r o w 1 9 5 1 )やロバ ート ・ル ーカス ( L u c a s 1 9 8 1 )のような著名な理論家たちによれば 、不確実性の状況についての理論化は不可能である 。最近では 、これらの用語は意味の変更を受け 、ナイトがリスクという言葉で意味したことを不確実性が意味するようになり 、曖昧性という言葉が 、ナイトが不確実性という言葉で意味したことを意味するようになっている ★ 1 。以下で議論されるように 、多少の修正を加えるものの 、私はナイトが定義したような意味でこれらの用語を用いつづけることにする 。経済学者自身 、このテ ーマに関しては非常に曖昧であり 、あたかも不確実性は異常な状況であって 、通常の状況である確実性が 、形式的な経済学を特徴づけるエレガントな数学モデルを正当化するかのように物事を進めてきた 。しかし不確実性は異常な状況ではない 。それは前史と有史を通じて 、人間組織が進化する構造を持つことの背景にある原因であったのだ 。
ダグラス・ノース 制度原論
経済分析にとって根本的に重要な論文において 、ロナルド ・ハイナ ーはこの論点の本質を把握して 、不確実性は 「予測可能な行動の原点 」 ( H e i n e r 1 9 8 3 )であると主張した 。
ノース
ここが旧日本人と新日本人を分ける大きな分岐点である。危険を避ければ成長できる、平穏な将来が保証されると信じてきたのが、戦後70年間の日本人の抜き難い成功モデルである。ごくわずかにリスクをとってマネジメント上の決断した人々がいるが、組織全体が経営者やリーダーの選択するリスクを許容していたわけではない。普通はそういう分子は組織からふるい落とされる。そうやって戦後の日本は出来上がってきた。
だから、多くの旧日本人にとってリスクの反対語は安全、リスクはゼロが最高ということになる。
リスクコミュニケーションの議論の前提が相互信頼であると言われるが、リスクの定義が違う間柄ではいくら価値観を共有していると相互を信じていても無駄な時間と噛み合わない言葉のやりとりとなる。リスクコミュニケーションに出てくる「主要価値観類似性モデル」とは、人が信頼するのは、自分の価値観を肯定してくれる人という前提だが、マネジメントの場合主要な価値は事業存続と成長だろうから、論理的には価値観が類似している双方を前提としている。しかしリスクの指し示すものが違えば、行動はともにできない。 ビールの様々なゼロ%マーケティングもその自己像のようなものだろう。
『経済学者の野口旭、田中秀臣は「不良債権が存在しない経済とは、リスク・不確実性の無い経済であるが、それは強固に統制された社会主義経済か、リスクをすべて政府が負担する『政府依存型』の経済以外にない」と指摘』、
^ 野口旭・田中秀臣 『構造改革論の誤解』 東洋経済新報社、2001年、125頁。
北海道生まれで同じ年齢なんだ。
野口 旭(のぐち あさひ、1958年 - )は、日本の経済学者。専修大学経済学部教授。専門はマクロ経済、経済政策、国際金融。北海道生まれ。1982年東京大学経済学部卒業。1988年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。同年専修大学経済学部講師。助教授を経て、現職[2]。
旧世界はそれでも良かったが、マネジメントの考慮の対象からリスクが放擲されたならば、組織は大変な窮地に追い込まれる。東芝もまた資本金を上回るWH社ののれん代(WH社の価値を上回る市場購入価格増し分:通常は株価または引当金で管理下に置かれる)の償却という管理しなければならないリスク評価を先送りしてリスクゼロ%の体面を維持している。売上や損失の付け替えなど大したことではないくらい大きなリスクを隠している可能性があるので注意が必要だ。
『東芝の2014年末のバランスシートには、実に1兆1538億円ののれん代が計上された。仮に、全額を一括償却すれば、巨大に見える東芝の株主資本(1兆4264億円)があっさり吹き飛ぶ規模だ。』(「現代ビジネス」より)
しかし安全保障がリスク管理と同義語だという論理を認めようとしない人々がメディアに多くいる。そういう今では少数派となっている人々は、あらゆる面でリスクとの縁を切ることが安全保障だと考えているようです。典型的なのは好戦国米国と縁を切れば戦争は避けられると信じる沖縄の新聞とか、兵器を持たなければヒト殺しの仲間にならずにすむという極度仮定が現実に可能と考えている人々だ。このような人々には次の質問をしてあげれば良い。
其のような危険を避けることを確実にするためには、何が不確実かどうかを把握しなければならないでしょう?前者で言えば米国以外の好戦的な国との縁を切らなければ、戦争に巻き込まれるはずです。今は国連決議で制裁戦争をする時代ですから国連に決めてもらっても戦争はこちらに向かってきます。ましてや米国以外の領海を侵す攻撃的な国をどのようにコントロールするプランなのでしょうか?また後者で言えば、武器を持たないことを徹底することを確実に実行するためには、武器を作る知識を永遠に葬らなければならないのですが、どのようにして武器に転用できない知識だけで、エネルギーや通信の必要な高度な社会を制御してゆくのでしょうか?自分だけが武器を持たなければ、自分だけが米国と縁を切れば戦争は自分を避けて行ってくれるのでしょうか?百歩譲って其のような行為が有効で、やがて世界中の人々が武器と好戦国米国と縁を切ると信じているのなら、一人や二人の賛同者ではなく、そういうプロセスをどのようにして世界中の国々で確実なものにする計画でしょうか?
世界計画を確実なものにするためには、少なくとも米国の国民の協力が必要であることは明確でしょう、しかも同じ論理で米国民を説得しなければ不誠実ということになりましょう。現実問題、「米国人は米国と縁を切ること」という選挙公約で選挙で勝つことは期待出来ないし、少数派が多数が武器を持つ中で武器使用をどんな危険の前でも投げ出す約束も期待出来ないとなり、益々プランの不確実性が深まってゆきます。真剣に考えるとはこういうことです。
それでも安全保障がリスク管理と同義語であるとご納得出来ないのであれば、論理破綻したまま、批判力の未熟な自分の子らに破綻した計画の継承を託すしかありません。其のために国や家族のために武器をとった祖先や米軍基地に税金を投入し続ける現世代の日本人を被害者の立場で呪い続けるという狂った教育を続けるしか無いのです。それは破綻を押し付ける鬼、世界に通用しない九九を教えて子女を世界に放り出す、まさに鬼畜の親です。
だからちゃんと理解しましょう。リスクとは『組織の収益や損失に影響を与える不確実性』であって、きちんとした管理の対象であるのだから、法的、あるいは私的行動基準が準備されていなければ、組織の不確実性の大小ではなく、不確実性の認識を捨てることになるのだということ。このことは不確実性どころではない組織(国や会社や官僚機構)維持を最も危険な領域、つまり滅亡に導くのだということ。このことをちゃんと理解しましょう。
リスクコントロールの手段として、経営と所有の分離という歴史があります。大衆を相手に発行体が行う将来の所得の約束は無限に増やすことが可能であるから所有圧力は非倫理的で無軌道な成長経営を望むようになる。これでは適切な経営の舵とりができなくなるので、経営と所有の分離というリスクコントロールの手段が大恐慌を機に一般化した。これも収益や損失、企業の継続性に影響を与える不確実性の抑制という経済思想の現れでしょう。北島忠男訳『近代株式会社と私有財産』は法人研究の必携書。
バーリとミーンズによる研究
アドルフ・バーリとガーディナー・ミーンズが1932年に発表した"The Modern Corporation and Private Property"の中で指摘した概念である。そのなかで彼らは1929年当時のアメリカにおける巨大企業の株式は、特定の個人ではなく、非常に多くの人々に分散して所有されており、その経営は株式をほとんど所有していない専門的な経営者によってなされるようになっているということを示した。
Adolphe A. Barle, Jr. and Gardiner C. Means, “The Modern Corporation and Private Property”, New York: Macmillan, 1932 (北島忠男訳『近代株式会社と私有財産』、分雅堂銀行研究社、1957年)
例えばイーロン・マスクは最初の会社Zip2社を3億ドルで売却したときの彼の株式持ち分は7%2200万ドルを手にした。ebayの前身会社X.com社をPayPalに売った時は15億ドル、イーロン・マスクの株式持ち分は12%。現在の会社スペースX社のイーロン・マスクの持ち分は?投資したテスラ社の持ち分は?
ちなみにドラッカーは『企業家として成功した人を大勢知っているが、リスク志向の人はいなかった。』と言っている。基本的にドラッカーの言ってることは大企業のイノベーションのことである。
山田洋次監督(83)が十五日、名古屋市内で本紙【東京新聞】のインタビューに答え、政府・与党が成立に強い意欲を見せる安全保障関連法案に「いざとなっても戦わないのが、この国のあり方だ」と反対した。
「戦争したがる総理はヤメロ! 戦争したがる総理はイラナイ!」
「勝手に決めるな、屁理屈言うな!」
「なんか自民党 感じ悪いよね!」
こういうデマゴーグは取るに足らない低次元ですが、
いざとなっても戦わないーというのは聞き捨てならない、山田洋次監督のおっしゃる、いざというのは何を指しているのでしょうか? 事実でしょうか、可能性でしょうか?戦わずにリスクをコントロールするのがこの国のあり方ならば、それは大賛成です。しかし可能性の段階でリスクを研究し手順を施さなければいざという時も事前に何もできないでしょう。こういう無責任なあり方が許されない。それが今の日本なんです。
いつまでもセンチメンタルな過去を思い出すからと言って、戦争法案などという偽名や、「戦場に教え子送る法案」とか唱えるのならば、リスクがゼロの将来、100%安全な将来から髪の毛一本も離れたくないのが本気ならば、センチメンタルな過去など現在の中国や北朝鮮の不確実性になんら関係してないことから自覚するべきだろう。
イーロンマスクは中国の清華大学経済管理学院顧問委員の一人
写真は本文とは関係ありません。お目休めです。
This amendment would be a radical departure from constitutional traditions and norms. It would weaken American deterrence and diplomacy at a time of heightened tensions caused by Iran’s aggression in the Middle East. The Senate must defeat it. ** In modern warfare, time is of the essence. Senate Democrats are proposing a dangerous amendment that would hamstring the executive branch from reacting quickly in a crisis and prevent the U.S. from taking decisive action.