公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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保守ミニマリズムとしての浜崎洋介の考察

2023-03-23 13:27:03 | 意見スクラップ集

ニマリズムはブリタニカによれば

ミニマリズム: Minimalism)は、完成度を追求するために、装飾的趣向を凝らすのではなく、むしろそれらを必要最小限まで省略する表現スタイル(様式)ということ。

主に美術や建築、音楽の世界の用語である。ここに新たに私の言う保守ミニマリズムは、伝統的保守が、歴史的あるいは政治的な装飾(色付けを)受けすぎていて完成度が低いと考える主張の一群である。この中に代表されるのが浜崎洋介(山本七平奨励賞)と個人的に位置付けている。

この人物の登場に新しい保守の可能性を感じている。彼の山本七平と言われる空気の研究というものの分析に際立つ新しい保守様式の萌芽を感じる。少なくとも漱石や芥川あるいは小林秀雄を通じて薄められてきた日本的な現実肯定の弱さ、それが空気のようなもの、急に考えることをやめてしまう精神力のなさは、情けないエリート像は、皮肉にも努力してたどり着いたものだった。

学的産物の特異的集合は日本の抽象化(帰属論理の再構成)であって、具象的日本、つまりその時代の青年に要求していた社会事実を知っていなければ、抽象の意味が見えてこない創作世界である。近代資本主義に揺さぶられ荒廃した故郷に還ることのできない当時の日本社会は、超越的家族、天皇とその皇統を拠り所とし、無力を補完するように大正10年からテロルが芽を吹いた。

代に生きる日本人が具象的日本を知っているかと言えば、江戸、明治、大正期の具象については、映像を通じたもの以外ほとんど無知である。江戸については歌舞伎で知り、明治についてはテレビで知り、大正については任侠映画で知る程度の具象によってどのような抽象日本を議論しても意味がない。

本人の精神力を奪ってしまったのは、具象としての日本🇯🇵、つまり神話の喪失なのだと思っている。目の前に武士の生活や大義名分を目にすることなく、しかし親や祖父の世代の具象の息吹から武士道を再構成して見せた新渡戸稲造はその嚆矢であろう。現代には切腹も元服もキセルの一服もない。キリスト教影響下の西欧人は聖書に抽象化の基点となる具象神話を求めることができる。しかし日本人にはもはや具象日本はアニメぐらいしかない。それゆえに文学や評論という抽象化など営為として終わってしまっているのだ。

二二六のこれが最後の具象的日本神話 國體の言語化であった。

 謹ンデ惟ルニ我ガ神洲タル所以ハ万世一系タル天皇陛下御統帥ノ下ニ挙国一体生成化育ヲ遂ゲ遂ニ八紘一宇ヲ完ウスルノ國體ニ存ス。此ノ國體ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国(神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整ヘ今ヤ方ニ万邦ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ。

然権の虚妄 神によって与えられたとか、本来の自然状態などと超越した前提を持ち込まなければ、社会契約論は成り立つことはない。万人平等は結構なことだが保守は平等よりも自由を尊重する。せいぜい機会の平等などという虚妄を受け入れている程度である。自由の根拠は財物や知的創作の財産権を根拠としてはじめ成立する。仮に社会契約が存在したとしても個人が誰と契約するかは自由であるはずと考えるのが自由主義保守なのだ。万人が万人と契約するなどインターネットプロトコルのような契約は存在しない。

 

 

 

崎洋介は山本七平を以下のように自己喪失の病理分析先駆者として引用する(アンダーラインは私が入れた)。エリートの方が弱かった。これは教養が現実の衝撃で否定された時の言葉を失った常識人を想像してみれば良い。戦後焼け野原の東京で生きてゆくために進駐軍相手のパンパンに部屋を貸すと家人が言い出したならば、その一家の権威は何とも答えようがない。せいぜい法学講座で習った緊急避難ぐらいしか声にできなかっただろう。

「実は、それを考える上で非常に興味深い指摘を山本七平がしています。山本は、「戦後」が、「戦前」の反復の様相を呈していることに注意を促しつつ、次のように書いていました。戦後の日本人の意識は、〝出版物〟という点から見れば、大きく二期に分けられよう。一つは終戦時から六〇年安保までの意識で、それは弘文堂のアテネ文庫の広告文の如く「暮らしは低く、思いは高く」の時代であった。俗にいう〝わだつみ時代〟である。これが六〇年安保を境に(一、二年のずれはあるが)一転し、「暮らしは高く、思いは低く」となった。〔…〕いわば「暮らしは高く」が絶対的価値となり、御殿に住んで錦鯉がいれば、そこの住人の「思いは低く」とも、それは一切問題にせず、その人が英雄でありうる時代であった。「弁証法」というものが信頼できるなら、この意識の「正」と「反」の次は「合」であり、「暮らしも思いもある程度高く(低く?)」という状態になるであろう。面白いことに明治期にもこの転換があり、大正期に一種の「合」の時代に入るのである。そしてこの「合」が、新しい非合理性の打撃を受けたとき、国内の一切の勢力は、本当は「何をしてよいのか一切わからない」という状態になり、その非合理性は、制御なきままに、どこかへ走り出す。──「日本的根本主義について」『「空気」の研究』ここで言われている「思い」のことを「近代化への夢」と言い換え、「暮らし」の方を「日本の現実」だと見做せば──イザヤ・ベンダサンこと山本七平は、それを、かつて「空体語」と「実体語」の関係として語ったこともあります(『日本教について』)──、要するに、山本が言いたいのは、「近代化への夢」(正)と、「日本の現実」(反)との間に相互否定的な緊張関係が消えてしまい、ついに〈日本の近代化〉が達成されたと思ったところに(合)、一つの危機が訪れたとき、日本人は、「何をしてよいのか一切わからない」という分裂病的な病状を呈しはじめてしまうのだということです。これは、「暮らしも思いもある程度高く(低く?)」なった一九八〇年代以降に「バブル崩壊」と「冷戦の崩壊」という二つの危機に直面した日本人が、「自己喪失」に陥ってしまった戦後史の経緯とも相即的でしょう。

浜崎洋介. ぼんやりした不安の近代日本 (Japanese Edition) (pp.7-9). Kindle 版. 


の考える保守のミニマムは財産権と思う。財産がなければ自由はない。日本のような国は国土も資源もない。あるのは海と知恵とわずかばかりの平らな土地。こう考えれば、いかに知的財産が重要かということがわかる。これを盗まれているようでは傀儡国家は脱出できない。傀儡国家という監獄のジェイルブレイクの中心概念は財産権であり国民による課税権の奪還である。そののちに外交軍事が来る。敵国条項でいつでも破壊可能な日本国は財産権が無いと同じ状態である。

一般概念としての保守の支持する自由主義は局所最適化であって、保守は自由主義であっても大局最適化を標榜しない。歴史超越した前提を持ち込む大局最適化は全体主義か原理主義の主張である。少しでも局所の自由を制限する抑制的あるいは誘導的事象には局所の立場から合法的に拒否する権利が保障されていなければ保守の支持する自由主義ではない。これをエクイティという。法理をその局所解釈無しに原理を当てはめ政治を操るのは災いの素という知恵が保守の知恵なのです。

 


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