19歳の夏に疑問を抱いた時は、既に心の中に答えが見えていたはずなのに、なぜ30年も自分の脳裏に寝かしたのか。19歳の自分は、始めてもいないことに、予め見切りをつけることがどうしてもできなかった。
「理想なき人生は禽獣の動きである。(略)人生は実行であり実現である。百の名論より一の凡策である。もし理想を実現し、名論を実行し得たならば人生は至上であり、花も実もあるのである。」(「出光三十年の歩みに誤りなし」昭和十六年六月 出光佐三)
理想があるならば、凡策と見えても試みる価値がある。何かを始めることに遅いも早いもない。出光佐三が言うように、人生は老年に開ける、たとえ50代で死ぬことがあっても、その時が老年である。過去は一瞬、それに比べれば今日の日はよほど長い。
過去は一瞬、それに比べれば今日は長い。今日ほど何かを始めるに良い日はない。時間の経過というものを量で計ろうとするならば過ぎ去った三十数年を惜しく感じるだろうが、質で評価したならば、変更可能な現在のほうが変更不可能な過去よりもずっと価値が高い。たぶん19歳の夏に人生の質について考えることができなかったのは、可能性がむこうからやってくると思うことができるくらい何もはじめていなかったからだろう。
『昭和30年7月(臨時増刊「財界人物」掲載「人生というものは老後にあるのだ。君らが六十くらいになって過去を顧みて、過去六十年間というものは、ああ六十年間だったというだけで、一瞬にすぎない。..(略)..それだから過去は短い、将来は長い、それならば過去にいいことをして将来に楽しめ」というのが私の人生観である。「人間尊重五十年」p416~417』