公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

覇を競う

2010-05-03 22:23:35 | 日記
「君主たるものは、覇を競うには二つのやり方があり、一方は法によるもので、もう一方は力によるものであることを、心得ているべきです。最初の方法は人間にふさわしく、第二の方法は獣にふさわしいのですが、しかし、第一の方法だけでは不十分なので、第二の方法を頼みにすることも必要なのです。ですから、君主にとっては、獣の道も人の道も利用するやり方を理解することが必要です。このことは古代の著述家たちが君主に比喩的に教えてきたことです。その記述によれば、アキレウスやその他の古えの君主たちは、ケンタウロスのキロンに養育され、その教えのもとで育ったということですが、それが意味しているのは単に、彼らが半獣半人のものを教師としたように、君主はどちらの本性についても使い方を知っておく必要があり、どちらか一方を欠けば、永くは続かないということなのです。」

   第18章 「君主たるものどう信義を守るべきか」
   マキャヴェリ

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「争いごとを解決する場合、議論によるばあいと力によるばあいの二つの手段がある。前者は人間のもの、後者は獣のものであり、どうしても前者に訴えることが出来ないときにかぎり、後者の手段に出なければならない。」
   キケロ 「義務論」第一巻第十一章


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(私の考え)
 覇を競うとは、簡単には勝つ事である。ここ30年のような平和な時代にあって、勝つ事を確実にしたければ、再挑戦のできないトーナメント戦は避けるべきと考える。平和な時代にあっては負けなかった事ではなく、継続した事が価値を産むからだ。
 しかし平和な時代にあってもそうでない場合がある。それは確実に相手を追放したい時。それについては、マキャヴェリやキケロと同じ意見だ。
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