公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

山の人生 柳田國男

2015-08-31 01:01:42 | 今読んでる本
お『これは以前新渡戸博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。 よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰ったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。』

それほどに穀物の味は人間を中毒にする

『これは南方熊楠氏の文通によって知ったのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさがさと幼児が一人這い出してきたのを見てびっくりして急いで山を走り降った。それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を斬られて同じあたりに死んでいたのを見たという。頭も尻尾もなく話はただこれだけだが、その簡単さがむしろこの噂の人の作った物語でないことを感ぜしめる。南方氏の書状はこれにつけ加えて、インドは地方によって狼の穴から生きた人間の赤児を拾ってきた事件が今でも新聞その他におりおり報ぜられる。』

初出:山の人生「アサヒグラフ」   1925(大正14)年1月~8月

柳田國男はこういう不思議な実話を多数強記している。一番不思議なのは柳田國男自身だ。



『山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫であります。最も堂々たる同化であります。その二は討死、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆したもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。』


縄文から稲作発明の安定期である弥生にかけて穀物の味を知って里や山に帰らなくなったものは多分多数いたはずだ。それが文化的混淆土着にカウントされるのだろう。我々の小麦粉依存食生活もまた文化的混淆である。こちらは珍病であった糖尿病や成人病をもたらした。

雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし 南方熊楠を思ふ 昭和天皇

写真は本文とは関係ありません。
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