神戸新聞
西村氏処分「信頼なくした」「きつい処分」 地元選挙区の淡路島、受け止めさまざま
田布施システムは陰謀論ではない。鬼塚英昭が明かした瀬島龍三と宅見勝の関係から確信をもった。後者はCIA工作資金の運用先地下経済の金庫番、前者は米ソ冷戦システムの日本支部幹部であった。鬼塚英昭にはそこまでの視点はないが、わたしは1997年新神戸オリエンタルホテル事件以降、極東の地下経済の番頭は山口組を離れ半島地下ビジネス化し、山口組は巨額資金のすべてを知る唯一の人物ゲートパースンを失い、尻尾を追えないカネの安全なかすりが入らずに解決金・資金不足で衰退したとみている。
天皇血族の入れ替えが、田布施縁者排斥の背景だろう
その田布施システムの末端者が、吹田あきらの娘の嫁ぎ先西村康稔であろう。自民党ステルス・クーデターの目的は奥深いところにある。この1年でグレートリセットが行われる。それ故の党籍1年剥奪であろう。
『《大本営元参謀》と《山口組若頭》の黒い関係、日本最大最悪の闇《田布施システム》の秘密を解き明かす!禁断の領域に敢然と挑む、鬼塚ノンフィクション』
『大勲位・中曽根康弘かく語りき!
「政権が汚辱で倒れても、日本には超越的存在としての天皇がおられます。俗界の飛沫は天皇には及ばない。否、及ばせてはならないのです。この二重構造によって日本の伝統と民主主義との調和があり、求心力と遠心力の均衡、いわば歴史的知恵の作用で、日本の自由民主主義は維持されていることを認識すべきなのです。」
これが「てんのうはん」の存在理由だ!』
ーーーーー
鬼塚 英昭(おにづか ひであき、1938年〈昭和13年〉[2] - 2016年〈平成28年〉1月25日[3])は日本の作家、竹細工職人、郷土史家。家業の傍ら、自費出版で歴史書などの執筆を始める。
ーーーーー
吹田 愰(ふきだ あきら、1927年〈昭和2年〉2月1日 - 2017年〈平成29年〉6月19日)とは、日本の政治家である。
衆議院議員(6期)、自治大臣(第41代)、国家公安委員会委員長(第51代)、山口県議会議員(4期)、山口県議会議長、田布施町長、 山口県熊毛郡城南村長などを歴任した。
西村 康稔(にしむら やすとし、1962年10月15日 - )は、日本の通産官僚、政治家。自由民主党所属の衆議院議員(7期)。
出典元は
以下引用
瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人
書籍名 | 瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人 |
著者 | 鬼塚英昭 |
出版社 | 成甲書房, 2012 |
ISBN | 4880862886, 9784880862880 |
ページ数 | 299 ページ |
内容説明
宅見 勝(たくみ まさる[1]、1936年6月22日[2] - 1997年8月28日[3])は、20世紀に活動した日本のヤクザ。指定暴力団・五代目山口組若頭であり[4]、山口組有力団体・宅見組の創設者[5]。神戸出身[6]。
山一抗争(1984年 - 1989年)や八王子抗争(1990年)、山波抗争(1990年)およびに中野会会長襲撃事件(1996年)などの抗争事件や、山口組五代目跡目問題(1988年 - 1989年)に当事者として関与。1997年に中野会組員に暗殺された。
目次
- はじめに 「てんのうはんの守り人」、そして「田布施システム」
- 第1章 大日本帝国株式会社の犯罪
- 第2章 瀬島龍三、児玉誉士夫、そして町井久之
- 第3章 日本列島暗黒街道
- 第4章 瀬島龍三・中曽根康弘、そして田中角栄
- 第5章 バブルが演出され、マフィアが登場した
- 第6章 国家中枢に挑んだ宅見勝
- 終章 瀬島龍三と宅見勝、二人の世界
| |||
大室家の人は明治天皇すり替え説についてどう証言しているか ■編集部■ 大室寅之祐が住んでいた田布施町(山口県)からは首相が2人も出ていますね。 ■加治■ 知力では坂本龍馬の土佐に劣り、武力と経済力では薩摩に劣り、技術力では佐賀に劣るのに、なぜ長州閥が幅をきかせたかというと、明治天皇を握っていたからです。田布施も直接行って取材したけれど、大室寅之祐の話はタクシーの運転手さんも知っていて、ポピュラーでした。 ■出口■ 2002年、父・和明が他界して五十日祭が過ぎたとき、母は父の遺志に従って、長州を訪ねたそうです。 山口県柳井市で郷土史家の松重楊江氏に会い、萩藩の秘史年表を得て、明治維新の嘘と真実を確かめたそうなんです。 翌朝、明治維新の知られざる原点ともいえる隣村、田布施町の土を踏みたい思いに駆られた母は、なんとか田布施町に住む大室ヒサ子さん宅を訪ね当てます。そこで思いがけず招き入れられ、今となってはこの方しか語れない歴史の体験をまざまざと聞くことができたといいます。 ■編集部■ 大室ヒサ子さんの写真、本で拝見したことがあります。 ■出口■ 大室ヒサ子さんはそのとき94歳でした。南朝の末裔といわれるだけあって、凛とした眼差し、はっきりした物言いの持ち主でした。 その大室ヒサ子さんの話によると、1392年(明徳3年・南朝元号元中9年)、南北朝が合一されたとき、吉野にいた南朝の人々は各地に落ち延びた。その1人が、南朝後醍醐天皇の玄孫・光良(みつなが)親王で、応永年間(1394~1428)に曽我氏に守られ、堺から長州に落ち延びたんだ、と。その後、大内氏、毛利氏の庇護を受け、「大室」を名乗り、南朝の皇統を守ってきたといいます。 大室家のある田布施町の2キロ北の石城山には、第2奇兵隊の屯所が置かれていました。力士隊の隊長の伊藤博文はそこから、毎日のように大室家に来ていたというんですね。 ■編集部■ 貴重な証言ですね。 ■出口■ 寅之祐も相撲が好きで、伊藤博文や奇兵隊の若い連中と相撲や乗馬に明け暮れ、軍事訓練を受けたといいます。伊藤博文と明治天皇はこの時代からの仲間だったんですね。 ヒサ子さんは、明治天皇は自分の祖父・庄吉の2歳違いの兄・大室寅之祐であると語ったそうです。母が前出の『ムー』に書いた記事を再び引用してみましょ 寅之祐は16歳のとき、毛利公のところへ饅頭を作りにいくといって出かけたが、そのまま京都に上って即位し、帰らなかった。 寅之祐が行方不明になってから、わずか14歳の庄吉は上の関の宰判(引用者注・萩藩の行政区分)に呼びだされ、痛めつけられ、兄の寅之祐の行方を聞かれたが、「俺が他出している間に兄やんはいなくなった」といいつづけた。 「帰ってよい」といわれた後、庄吉は代官が仲間の手下と「知っていたら殺してしまえといわれたが、知らないから殺せない」と話しているのを耳にした。 しかし庄吉は家に帰ってから、「でも俺はぜんぶ知っている」と語ったという。 その後、明治天皇となった寅之祐は、明治10年頃、軍艦で家の近くの水場にやってきた。ヒサさんの祖父の庄吉が会いにいくと、軍艦の甲板の上に姿を見せ、「ソクサイかあ」と叫んだという。 |