公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての省察』 デカルト

2017-01-30 21:02:32 | 今読んでる本
まず洒落で漫談を聞いてみよう

Religion has convinced people that there's an invisible man living in the sky who watches everything you do every minute of every day.

And the Invisible Man has a list of 10 specific things he doesn't want you to do, and if you do any of these things, he will send you to a special place

of burning and fire and smoke and torture and anguish for you to live forever and suffer and burn and scream until the end of time. But he loves you.

He loves you and He needs money.

He always needs money. He's all powerful, all present, all knowing and all wise, just can't handle money.
George Carlin

宗教は人々に、空には透明人間が住んでいて、毎日毎分、あなたの行動すべてを監視していると信じ込ませている。

そして透明人間は、あなたにやってほしくない10の具体的なことのリストを持っていて、もしあなたがこれらのことをしたら、あなたを特別な場所に送る。

永遠に生き続け、時の終わりまで苦しみ、燃え、叫び続けるのだ。 

しかし、彼はあなたを愛している。

彼はあなたを愛している。

彼はいつもお金を必要としている。 彼は万能で、存在し、すべてを知り、知恵がある。


ジョージ・カーリン(George Denis Patrick Carlin、1937年5月12日 - 2008年6月22日)は、アメリカ合衆国のコメディアン。
ーーーー

公理 あるいは 共通概念 
一 何故に存在するかの原因を尋ねられ得ないような何物も存在しない。なぜなら、これは神そのものについて尋ねられ得るから、神は存在するために何らかの原因を必要とするというのではなく、かえって神の本性の無辺性そのものが存在するために何らの原因をも必要としない原因あるいは根拠であるゆえにである。 
二 現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、従ってものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりもいっそう小さい原因が要求せられるのではない。 
三 いかなるものも、またもののいかなる現実的に存在する完全性も、無(nihil)すなわち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。 
四 或るもののうちに有するいかなる実在性すなわち完全性も、このものの第一のかつ十全的な原因のうちに形相的に、あるいは優越的に存する。 
五 そこからしてまた、我々の観念の客観的実在性は、この同じ実在性をば単に客観的にではなくて形相的に、あるいは優越的に含むところの原因を必要とするということが、帰結する。そしてこの公理は、ただこの一つのものに、感覚的な並びに非感覚的なあらゆるものの認識が依存するというほど、認められることが必要であることに、注目しなければならない。なぜなら、どこから我々は、例へば、天が存在することを知るのであるか。それを我々が見るゆえにであろうか。しかるにこの視覚は、観念である限りにおいてのほか、精神に触れない、ここに観念と言うのは、精神そのものに内属するものをいうのであって、空想のうちに描かれた像をいふのではない。そしてこの観念に基づいて我々が天は存在すると判断することができるのは、ただ、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有しむければならぬという理由によるのである。そしてこの原因は天そのものであると我々は判断するのである。その他の場合についても同様てある。 
六 実在性の、すなはち実有性の、種々の度がある。なぜなら、実体は偶有性あるいは様態よりもいっそう多くの実在性を有し、また無限な実体は有限な実体よりもいっそう多くの実在性を有するから。従ってまた実体の観念のうちには偶有性の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が有し、また無限な実体の観念のうちには有限な実体の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が存する。
七 思惟するものの意志は、たしかに有意的にかつ自由に(なぜならこれは意志の本質に属するのであるから)、しかしそれにもかかわらず謬ることなく、自分に明晰に認識せられた善に赴く。従って、もし自分に欠けている何等かの完全性を知るならば、それを直ちに、もしそれが自分の力の及ぶところにあるならば、自分に与えるであろう。 
八 いっそう大きなことあるいはいっそう困難なことを為し得るものは、またいっそう小さいことをも為し得る。 
九 実体を創造しあるいは維持することは、実体の属性すなわち固有性を創造しあるいは維持することよりも、いっそう大きなことである。しかしながら、既に言ったごとく、同じものを創造することは、それを維持することよりも、いっそう大きなことではない。 
一〇 あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。もとより、制限せられたものの概念のうちには可能的あるいは偶然的存在が含まれ、しかしこの上なく完全な実有の概念のうちには必然的にして完全な存在が含まれる。
デカルト
ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)



二も変に思うが、共通概念の三に一番違和感を感じる。無(nihil)すなわち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。 この前提があれば、デカルトの言う通り、確実に神は存在するだろう。霊的共感知性にはそのような存在対応がない。もともと我々は無として生まれ、少なくとも無という一つの連結、空集合を持つ。結論を申せば、この非存在の連結が私自身と言う観念の存在原因である。それゆえ自己はいつも生まれているが、観念がそれを排除している。したがってわれわれは死後も自己を生み出して思考する。思惟(cogitatio)は死後も存在する。

デカルトは存在論の祖であるが、死をまともに考察していない。この考え、霊的連結を他のもの、即ち所与としない<非所与としての自己の哲学>にたどり着くまでに、私は考え始めてから30年も経っていた。デカルトの優れているところは、外からくる感覚も、内からくる感覚も同じものと見做したところの原理性にある。すなわち精神と接することの無い感覚は内外等方向に非存在とした点にある。

非存在を定立した後ならば、存在論の展開は極めて容易になる。この戦略もまた優れている。しかし間違っている。非存在の定立は容易ではないのだ。例えば概念の発見は精神と接することの無いところで生まれる。無いものが在るという状態に遷移するときに精神も観念も区別なく生まれる。

<非所与としての自己の哲学>では、このように始めに欠乏があるから観念が生まれると考える。観念は無限に先行しない。しかしデカルト同様、存在も可能的存在も観念の下位にある。なぜなら脳は存在を映し撮る個人用のベクトル空間だから。

だから疑問は答えに先行することはない。デカルトの尋ねる「何故に存在するかの原因を尋ね」る時には、既に答えがあり、デカルトといえども欠乏に結論を暗示されている。

デカルトは神の存在を証明するためにこれを逆向きに叙述したに過ぎない。故に、凡ゆる観念を述語として含む主語は、純粋な欠乏、即ち無である。それは神ではない。同様に個人が受容するリアリティの本性は欠乏であり、死が与えるリアリティはその証明である。それ故に自己及びその個性は創造し実現しなければならない。それはヴィトゲンシュタインが言う諸事実によって創られる世界のことに相当する。あらゆる観念を(諸事実)を言語化できる論理とは「1*13 論理空間の中の諸事実こそが世界である。」という論理空間が空であるという別の表現になっている。

語りえぬものこそ我々の幻想=リアリティの根源である。「世界は諸事実(諸事態の成立、対象の結びつきが事態)へと分解される」即ち事態は関数であり、対象は元である。その全てを表現する論理空間がベクトル空間であり、脳は個人用のベクトル空間、即ち無と始原的境界からなる自己という仮想もここで始まる。そして、諸事実を集めること(対象の結びつきの成立を探索すること)で世界が再創造される。サイエンスはその最もわかりやすい世界再創造の体系である。ヴィトゲンシュタインはその先を目指した。それ故語り得ないものについては沈黙した。

この事実の再結合をサイエンスという人工的な理論ではなく、人間になぜか与えられたアプリオリにある諸事実再結合の共通形式が語りうるものの最低単位であるという結論に達する。

その最低単位はどうやってできたかというと、もうその先に答えはない。問いが最低単位に介入してしまい語りうるものを語る最低単位を破壊してしまうからだ。
1*13 論理空間の中の諸事実こそが世界である。ヴィトゲンシュタイン。

岡潔は『私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、直じかにわかる。
 それから頭頂葉に宿るというのは、中心が頭頂葉だという意味ですが、この心は頭頂葉から広がって肉体の全部を覆い、更に広がって物質的自然界の全部を覆い、更にその外に出て、およそ時というもののある所、現在、過去、未来の如何を問わず、時のある所にはこの心は必ず広がっている。こういう第2の心というのがある。』と言っている。

私とは一つの問いである。これでおわかりと思う。


己れの本質が虚、即ち空のベクトル空間であること耐えられなければ、この世の地獄を愛することはできない。己れの起源が虚であることを知れば、悪のために小さな善さえ破棄することができる。あるいはその逆もできる。『出家とその弟子』に見られる親鸞の次の言葉はその意味で虚であることに耐えるということであろう。

武道の立場から『人間が発揮することのできる驚くべき力は人間の中に起源を持たないものです。』内田樹は言っている。


《親鸞 「あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山や奈良で数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪いを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。」》


さらに最近読んだ本「改訂版 なぜ意識は実在しないのか」永井均著2016.6.16から引用してデカルトを批判的に見るならば、デカルトの示した我、すなわち私というのは、どちらの私かということが不明確であるといえる。永井が初心者向けにまとめた、物理的なものに付随しない私と今(岡潔のいう情緒の一部に私や因果や今という物理過程に付随しない空虚な連結が含まれている)は私と私以外、今と今以外を分ける作用によって物理的過程から遊離している。そのほかにも非付随なこととして、因果、それあれといった指標(指し示す)的要素も物理過程に付随しない。私に限って言えば、私のない私も私(私ゾンビ)であって、デカルトはここに出てくる3つの私、作用としての私、私以外のものと区別された私ゾンビ、そして空虚なここにしかない私、どの私を扱ったのかというと、「われ思う」のであるから作用としての私が私ゾンビ(過去の私、あるいは意識抜きの私)を生み出すことを示し、それが原因で私が存在する。このように限定して語ったに過ぎない。ここで私が対偶命題「我あらざれば我思わじ」が偽であることをわざわざ持ち出すのは、作用もゾンビもない状態で、思う私が残されるということを言いたいがためである。

例えば、医者と患者がいて、最も単純で伝達可能な痛みについて、患者から医者に出来る限り現象に忠実な痛みを説明したとしよう。耐えがたい、刺すような痛みの中心部があって、そこから焼けるような痛みの脈動が周辺に伝わり、消えてゆくようであるけれど、次の痛みを恐れて眠れない。まあこのように説明しなければならないのは、現象自体を直結理解できない人間の属性による。然し乍ら、多くの言語が差し挟まれた痛みほど、現象から程遠い嘘の世界となる。機関や機械が意識を持つという選択が論理的合理的でないのは、意識を持った途端に、虚偽を作り出す構造を機械は必要としないからだ。能力としての機械の人間化と意識を持った機械とは、全く論理的に異なったものと理解しなければならない。

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